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第五十二章

『新しい運命を私にください。』

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 浩子の心の時計は止まってしまった。

 病室で見たジョンとマリアの楽しそうな映像が、浩子の心が脳裏に映し出す最後の映像として取り残されていた。

 歓迎会でも浩子が笑顔を見せることはなかった。

 終始節目がちに佇み、誰をも近づけさせない暗いオーラーを漂わせ1人だけ異質の存在として、和やかな雰囲気の中で浮いていた。

 新入生は1人づつ壇上に上がり自己紹介を行う。

 他の新入生は早く自分の事を周りに知って貰おうと趣味や特技を紹介していた。

 浩子の番が近づいた。

 良いか悪いか、この暗い表情の日本から来た新入生が何を語るのか、周りの関心を集めていた。

 浩子は壇上にゆっくり上がると、前を向くことなく、下を向き、マイクへ音声を吹き込むだけの作業を行った。

 名前と出身地だけを述べると、後は沈黙で時間をやり過ごし、疎な拍手の音に従い席に戻って行った。

 新入生らは各々テーブルを周りながら懇親を深め合っていた。

 浩子は食事にも手を付けることなく、食堂の掛け時計をぼんやりと眺めていた。

 早くこの場から立ち去りたいでもなく、仲間と打ち解けることもなく、恰も有機体の生物が生活機能を失った無機体の石のようにその場にただ居座り続けるかのように…

 流石に周りも浩子の異質さを心配したのか、1人、また1人、浩子に話しかける者が現れ出した。

「浩子、私、リンダよ。よろしくね。何か不安なことがあったら何でも話してね。部屋は205号室よ。」

 浩子は癖となった作り笑顔で「ありがとう。」と一言応えるだけであった。

 講師達も浩子の様子を心配していた。

 毎年、新入生の中に初めての寮生活に不安を抱き、生活リズムを崩し、精神障害を患う者も少なくなかった。

 そして、ここはカトリックの神学校である。

 講師達が何よりも心配しているのは神への大罪である『自殺』であった。

 2、3人の講師達が後ろに集まり、密かに話した。

「浩子には注意が必要です。夜の見回りの際は必ず部屋の中を見るようにしてください。」

「分かりました。それと、日中でも注意が必要かと思います。
 食事、授業での集合時刻に遅滞があった場合は緊急手続を行いましょう。」

「先ずは部屋への電話、応答なしの場合は入室ですね。浩子の部屋の鍵は各自必ず持つようにしておきましょう。」

 翌朝、講師から校長に対し、新入生に関する問題事項として浩子の精神状態に関する報告が行われた。

 校長は講師の執る手段である緊急手続に同意し、その旨をバーハムに連絡した。

「バーハム神父、浩子の精神状態について、寮のチューター(講師)はかなり心配しています。」

「やはりそうですか。」

「寮生活への適性が困難な場合は特段の措置を検討しても構いません。」

「私もそう考えていたところです。私の家から通わせようかと。
しかし…」

「しかし…?」

「いえ、大丈夫です。今日でも本人に確認してみます。」

 バーハムは電話を切ると、校長に言いかけた台詞を呟いた。

『しかし、浩子は寮どころか神学校にも行かなくなりそうだ。』と

 バーハムはリビングのソファーに座り、葉巻に火を付け、ゆっくりと紫煙を燻らせると、

『浩子について真剣に考えねば!浩子にとって何が最善か…、今の浩子についてだ。ジョンを待つより今の浩子について…』

 そう思い立つとバーハムは腰を上げ、2階へ向かい、浩子の部屋を掃除している祖母に相談した。

「神父様、何か?浩子に?」

 バーハムは浩子のベットにゆっくりと腰掛けると、

「今、校長から電話がありました。浩子の精神状態を危惧していました。特段の措置で寮生活ではなく、自宅から通うことも検討しているようです。」

「そうして頂ければ、私も安心です。」

 バーハムも頷いた。

 そして、バーハムは祖母にこう言った。

「私は早く浩子を解放してあげたいと思っています。」

 祖母も言った。

「実は私も考えていたところです。今の浩子をどうしたら救えるのかを」

 バーハムはこう言った。

「答えを分かった上で一分の期待感を併せて抱くことはある意味過酷なことです。そして、完全な受け身として待ち続けることは途方に暮れることと同じです。」と

 祖母はバーハムにこう問うた。

「浩子は待ち続けたいと思っているのでしょうか…?」

 バーハムは答えた。

「いえ、今の浩子は何も考えられない状態かと思います。自分がどうしたいのか、それさえも分からないでいるのではないかと思います。」

 祖母の声は泣き声となった。

「あの子は強い子ですから。強いからこそ、苦しみも強くなって…」と

 バーハムは祖母の震える肩に手を乗せてこう言った。

「今、浩子にとって何が最善であるかを考えましょう。」と

 そう祖母に伝えるとバーハムはリビングに戻り、再度、葉巻に火を付け直し、ソファーに背を埋めると瞑想する様に目を閉じた。

『あの子の記憶からジョンを消してあげたい。

 そして、作り笑顔ではなく、本当の笑顔をもう一度見せて欲しい。

 あまりも過酷な現実

 それから解放してやりたい。

 神よ、私に力をくだされ、魔法のような力を…』

 バーハムの心も疲れ果てていた。

 すると、祖母が階段を降りて来た。

 祖母は目を閉じているバーハムの前にそっと座ると、こう言った。

「このまま、あの子は死ぬまで心の傷を背負っていくのでしょうか。

 多くの方は人を愛する事を喜びと感じているのに、あの子は愛する事を絶望と感じています。

 私は神様を恨みます。

 愛する事を喜びと想う運命をあの子に与えて欲しかった。

 せめて、絶望とは感じない愛を与えて欲しかった。」と

 年老いた2人には『奇跡』を信じるほどの大志は思い浮かばなかった。

 浩子は昼休み1人で寮の部屋に居た。

 ベットに腰掛け、ぼんやりと窓の外を眺めていた。

 視線の方向では神学校の庭園で生徒達が楽しそうに歓談をしていた。

 しかし、浩子の脳と心が映し出す映像は目の前の現像ではなく、あの残像の映像であった。

 浩子は残された力を振り絞り、残像のパズルの欠片を一枚、一枚剥がそうとしていた。

 そして、残像の欠片が一枚剥がれる毎に、こう想うのである。

『全てが剥がれたら、一体、何が残るの?

 私も一緒に消えてしまいたい。

 そして、もう一度、生まれ変わり、今度は…、二度と…、貴方に…、近づかないよう…』

 浩子の瞳から涙が零れ落ちた。

 それを拭うと、

『いえ、生まれ変われるなら、もう一度、貴方と一緒に居たい。

 今度こそ、貴方の重荷にならないよう、私、心掛けるから…、

 神様、早く私を召させてください。

 そして、新しい運命を私にください。』

 浩子はそう願うとそっと立ち上がり、また、生きた屍に戻り、表情を消して、部屋を後にした。
 
 

 
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