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第五十三章

心に広がる『黒い煙』

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 午後の授業が終わった後、浩子はチューターから、放課後、三者面談があるので面談室に来るよう言われた。

 浩子は一旦部屋に戻った。

 そして、ベットに腰掛けていると、突然、身体が震え出し、例えようのない恐怖心が心の底から湧き上がって来た。

 それと同時に、目の前が真っ暗となり、部屋の壁が液体のようにぐにゃぐにゃと揺れ始めた。

 浩子は急いで布団に潜り込み、目を閉じた。

 しかし、身体の震えは治らず、次第に呼吸が激しくなり、過呼吸状態となった。

 苦しさのあまり、布団から抜け出すと、その瞬間、『ぴきっ』と左耳の奥で音が鳴った。

 すると左耳の中から『キ…~ン…~』と蝉の鳴き声のような耳鳴りが聞こえ出した。

 浩子は慌てて左耳に掌を被せた。

 右耳からは『どっくん、どっくん』と心臓の鼓動が太鼓のように鼓膜を打ち始めた。

 壁から床もぐにゃぐにゃと揺れ出し、浩子は堪らずベットに仰向けに倒れ込んだ。

 額には脂汗が滲み出し、過呼吸は一層激しくなった。

 そして、見上げる天井が渦のように回りだし、徐々に徐々に下に迫って来た。

『押し潰される!』と感じた浩子はベットから急いで起き上がると、机の下に潜り込んだ。

 震えは止まらない。

 視界から見える床もぐにゃぐにゃと揺れている。

 浩子は両耳を塞ぎ、固く目を閉じて歯を食いしばった。

『何なの…、一体…、何が起こったの?

何か苦しい…、何か怖い…、』

『このまま押し潰される…、息ができない…』

 今度は机から飛び出し、部屋の四隅の角に身体を埋め込んだ。

『天井が揺れてる…、床が揺れてる…』

 身体中がわなわなと震え、耳鳴りと心臓の鼓動が一層高まって行く。

『誰か…、助けて…、助けて…』

 浩子は声も出せずに恐怖に怯えた目で言い続けた。

 バーハムと祖母は面談室に着いた。チューターは浩子の部屋に電話したが、繋がらなかった。

 チューターは浩子が此方に丁度向かっているのであろうと思い、面談室のドアを開き、浩子が来る方向を見遣った。

 しかし、なかなか浩子は来なかった。

 もう一度、チューターは浩子の部屋に電話を掛けたが、電話は繋がらなかった。

 チューターの表情が変わった。

 「ちょっと、浩子さんを迎えに行って来ます。」と言うと、チューターは駆け足で部屋を出て行った。

 バーハムと祖母もチューターの様子から浩子に異変があったことを察した。

 2人も浩子の部屋に向かった。

「浩子!居るの?浩子!」と

 チューターが部屋のドアから叫びながら、急いでノブに鍵を突っ込み、部屋に入った。

「浩子!何処なの?居るの?」

 部屋の中は真っ暗で浩子の姿はなかった。

 バーハムと祖母も部屋に着いた。

 チューターが部屋の電気を付けた。

 すると、

 ドアの左側から『カタカタ』と音がしていた。

 祖母がそちらを見遣るとガタガタと震える丸い影があった。

 3人は息を呑んだ。

 その丸い影は、毛布を頭から被り座り込んでいる浩子であった。

 祖母は急いで近寄り、毛布を取り、浩子を抱きしめた。

 浩子の両膝はガクガクと震え、両耳を掌で塞いでいた。

 目は見開き、歯の根が合わないようカタカタと歯軋りをし、唇はわなわなと震えていた。

 浩子は何かに怯えていた。

「浩子!どうしたの?浩子!」

「こ、怖いの…」

「何が怖いの?大丈夫よ!浩子、もう大丈夫よ!」
 
「怖い…、怖いの…」

 バーハムも浩子に近寄り、

「大丈夫だ!浩子!大丈夫だ!」と声を掛けた。

 そして、祖母とバーハムで浩子を抱き上げ、ベットに寝かせようとしたが、

「いやぁ!怖い!怖いのぉ!」と浩子は泣き叫び、部屋の四隅に戻ると、座り込み、また、両耳を塞いだ。

「浩子!何が怖いの?」と祖母が浩子を抱きしめると、

 浩子は震える声でこう言った。

「き、聞こえてくるの…、部屋中から聞こえてくる…」

「何が?何が聞こえてくるの?」

「き、消えろ…、消えろって…」

 祖母がバーハムとチューターを見上げた。

 チューターが

「幻聴が出てます。保健師を呼びましょう!」と言い、

「206号室です。生徒の容態に異変が!幻聴を訴えています!」と、保健室に急いで電話を掛けた。

 その時、

「きゃぁ~、浩子!」と祖母の悲鳴がした。

「ハンカチだ!ハンカチを口に入れるんだ!」とバーハムが叫んだ。

 浩子の口元から血が流れていた。

「舌を噛みました!急いで!急いで!」とチューターが電話越しに叫び続けた。

……………………………………………

 暗闇の森の中を浩子は懸命に走り続ける。

 走っても走っても誰かが追いかけて来る。

 『来ないで!来ないで!』

 浩子は叫びながら逃げ惑う。

 森を抜けると小屋が見えた。

 浩子は小屋の扉を叩いた。

『助けて!助けてください!』

 扉は開かない。

 浩子は小屋の裏に回り、開いた裏口から小屋の中に飛び込んだ。

 小屋の中は真っ暗で何も見えない。

 浩子は暖炉の中に身を潜め、小屋の扉へ怯えた眼差しを送り続けた。

『みし、みし』と草を踏む足音が小屋に近づいて来る。

 浩子はさらに両耳を塞ぎ、

『来ないで!来ないでよ!』と心の中で叫ぶ。

 扉の前で足音が止まると、開かないはずの扉がゆっくりと開いた。

『見たら駄目!聞いたら駄目!絶対駄目!』

 浩子は、懸命に両耳を塞ぎ、固く固く目を閉じた。

 すると、瞼の裏に『黒い煙』が広がり始め、それが人型へと変身して行った。そして、聞こえていた耳鳴りと心臓の鼓動は、次第に人の音声へと変わり、

『耳を塞いでも目を閉じても無駄だ。』とそう言った。

『いやぁ!聞きたくない!』

 浩子は心の中で叫ぶ。

 しかし、黒い煙が容赦なくこう言う。

『お前は邪魔なんだ。消えろよ。

お前は重荷なんだ。早く消えろ。』と、

 浩子は心で呟く、

『聞こえてない…、何も聞こえない…』と、

 黒い煙は声を荒げ、

『嘘を言うな。何度も言ってやる!

 お前は邪魔者だ!

 消えろ!消えろ!消えろ!消えろ!消えろ!消えろ!消えろ!』と壊れたレコードのように繰り返した。

…………………………………………

 浩子は『はっ』と目を開けた。

 白い天井がぼんやりと見えた。

 周りを見渡すと白い壁と白いカーテンが目に入って来た。

「浩子。もう大丈夫よ。」

 耳元で祖母の声がした。

 横を振り返ると祖母が和かに笑顔を見せながら座っていた。

「ここは…」

「病院よ。もう大丈夫よ。」

「私…、森の中を走って…、小屋に…」

「怖い夢を見たのね。」

「私…、邪魔って…、消えろって…」

「もう言わなくて良いのよ。何も言わなくて。」

「怖いの。目を閉じると怖いの。黒い煙が追って来るの。怖いの…」

「浩子…」

 浩子の祖母を見る瞳は死人のように固まっていた。

 祖母は浩子が寝るのを待ち、病室から出ると、待合室で待機していたバーハムとチューターに浩子の様子を告げた。

 そこに看護師が医師から説明があると呼びに来た。

 3人は医務室に通されると、医師は病室のモニター画面を見ながら、

「今、睡眠薬は効いています。」と言い、睡眠時間の折れ線グラフを見せた。

 そして、浩子の病状をこう説明した。

「浩子さんは、極度の精神ストレスからのパニック障害とうつ病を発症してます。

 希死念慮も見受けられますが、今のところ無意識でのものですので、睡眠薬を一定間隔で点滴投与し、脳の疲労を取り除いて行きます。

 抗うつ剤の効果が出るまで最低1週間は掛かりますので、それまでの間がきついかと思います。」

 祖母はモニター画面に映る浩子の姿を心配そうに見つめていた。

 チューターは医師に聞いた。

「入院期間はどのくらいになりますか?」と

「1か月を予定してます。」

 医師はそう答えると、他にも何か質問があるかを聞いて、ないようならと、こう言った。

「原因は昨日お聞きした内容であれば、彼女の言う『黒い煙』が幻聴の原因であると考えられます。」

 バーハムが尋ねた。

「浩子にはジョンが『黒い煙』に見えているのですか?」

 医師は首を振って、こう答えた。

「いえ、彼女がその男性、ジョンさんを消そうとしているのです。

 ジョンさんとの全ての思い出を消そうとしているのです。

『黒い煙』は彼女なのです。」

「浩子が『黒い煙』…」

「そうです。彼女自身が自分自身を追い詰めているのです。

 うつ病患者、特有の症状です。

 全て自分が悪いと、自分を責め続け、自己否定感を増大させ、最悪の場合、希死念慮を抱いてしまう。

 彼女が聞こえた『消えろ』と言う声は、彼女自身の心の声なのです。」

 バーハムが医師の説明を祖母に通訳すると、祖母は医師にこう聞いた。

「心の傷は一生治らないものなのですか?」と

 バーハムが祖母の言葉を医師に通訳して伝えた。

 医師はそれを聞き、祖母の方を向いてゆっくり首を振り、

「治らない傷はありません。」と笑って答えた。

 バーハムが祖母に伝えると、祖母は涙を流し、こう言った。

「あの子は大事な人を失い続けて…、父を母をそして愛する人を…、そして、心を病んでしまって…、あの子が可哀想でなりません。」と

 バーハムは、それを聞くと、拘束バンドでベットに繋がれ、無理矢理、薬で眠らされたモニター画面に映る浩子を見つめ、

『そうだった。ジョンだけではなく、浩子も両親を亡くしていたんだった。

 浩子…、ごめんよ…、ジョンの悲劇ばかりお前に言って、浩子、ごんめんよ。

 お前がいつも元気で明るい子だと勝手に思って…

 浩子、申し訳なかった。

 本当に申し訳なかった。』と、

 心の中で謝り続けるのであった。


 

 

 
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