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1.小さな矜持、愚かな見栄
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私は華美になりすぎないドレスを着て念入りに化粧を施した。髪を結いあげ姿勢を正し淑女として一分の隙も見せないように装った。それはまるで自分の心を鼓舞するように。目的地に着くと馬車を下り玄関の前で扉が開くのを待つ。
「ブランカ……?」
「こんにちは。エーリク」
エーリクは笑顔で扉を開いたが、そこにいるのが私だと分かると明らかに落胆の表情を浮かべた。その表情で誰を待っていたのか察しがついた。今日も約束をしていたに違いない。きっと屋敷の前に到着した馬車の家紋を見て勘違いをしたのだ。
それに婚約を解消した女が自分を訪ねて来るとは想像していなかったのだろう。エーリクの中で私の存在は終わったことになっている。無情な現実はまるで冬の痛いほどの寒さに似て心を凍りつかせる。彼の態度に胸が軋んだ。馬車でここに来るまで抱いていた微かな、本当に微かな希望がいっそ晴れやかなほどに霧散した。
私の口元には自嘲が浮かぶ。泣きたいのか笑いたいのか、どちらの感情から来るものか分からない叫び出したい衝動を小さく息を吐くことで堪えた。
「昨日おじさまが我が家にいらした時に、エーリクと最後に話をしたいとお願いしたのよ。おじさまは承諾してくださったわ」
「父が? そ、そうか。私は聞いていなかったが……とにかく中に入ってくれ」
エーリクは私を応接室に案内するとソファーに座るように勧める。しばらくするといつも私を笑顔で出迎えてくれる侍女が、言葉なくテーブルにティーカップを置いた。下がる前に侍女は私の顔を見て痛ましそうな表情をしてすぐに目を伏せた。
エーリクは小さく咳払いをすると黙ったまま気まずそうにティーカップに手を伸ばしお茶を飲んだ。
その態度はもう私に用はないと感じられた。彼はこんなに薄情な人だったのか。このまま婚約を終わらせるなんてあまりにも誠意がなさすぎる。私たちは十年もの長い時間を婚約者として過ごしてきたのに――。
エーリクはボルク侯爵家嫡男、私はアルホフ伯爵家の長女で家同士の仕事の都合で十年前に婚約を結んだ。その婚約を二日前に一方的に解消された。いや、交代させられた。
私はエーリクをまっすぐに見つめる。彼の反応を一瞬たりとも見逃さないために。
「おじさまは私に謝罪して言ったわ。エーリクが私との婚約解消を望んでいる。いえ、正確には私からフリーデに変更して欲しいと。それは本当なの? どうしてエーリク自身の口から言ってくれなかったの?」
「それは………分かるだろ? その、私から聞かされたらブランカが傷つくと思ったからで……」
エーリクは目を逸らしたまま言った。私に対し後ろめたいと思っている。これを不誠実だと思うのは私が狭量だからなのか。
「理由を教えて」
「……好きな人ができた」
「……フリーデね?」
「そうだ」
フリーデは私の異母妹だ。婚約者を姉から妹に代えるのは、家の繋がりの上では問題ない。でも外聞が悪い。そのリスクを取ってもフリーデを選んだ。
十年という時間の無力さを思い知り私の喉もとに何かがせり上がってくる。息が詰まる。だけどここで泣きたくない。目の奥にある熱いものが外に流れ出ないように眉根を寄せ必死に抑える。エーリクに会うのはこれで最後になる。無様な醜態をさらしたくなかった。これは私の小さな矜持、そして愚かな見栄。
「どうして私では駄目だったの?」
「………ブランカは私を好きではなかっただろう? 私の出来が悪いと、跡継ぎ教育の遅れを見下していた。だけどフリーデは私を尊敬し居場所をくれた。安らぐ場所を」
(エーリクを好きじゃない? 私に聞きもせずに私の気持ちを勝手に決めないで!)
私は……エーリクを好きだった。それに見下してなんていない。私なりに支えていたつもりだったけど彼には伝わっていなかった。ああ、でも十年も一緒にいて「好き」と言葉にしたことはなかったかもしれない。言わなくても伝わっていると思っていた。
エーリクは幼い頃、とても優秀で神童と呼ばれていた。一を聞いて十を知る。利発で賢く優しかった。物事をすぐに理解し吸収するエーリクはいつだって私の先を歩く。でも置いて行ったりしなかった。時々振り返っては私に手を伸ばし柔らかく微笑んで安心させてくれた。好きだった。あなたが好きだったのよ。
――――エーリクはいつから変わってしまったのだろうか?
私はエーリクに追いつくために必死に学んだ。ようやく隣に並べるようになったと自信がついて、隣を見たらエーリクは私ではなく別の女性を熱心に見つめていた。私の異母妹であるフリーデを。きっと一時的な感情で落ち着いたら私のもとに戻ってきてくれる、裏切ったりしないって信じていた。……違う。信じたかったのだ。それは祈りだったのかもしれない。
「私では安らぐ場所になれなかった?」
「ブランカといると追い詰められて息苦しい。自分が無力に思えて情けなくなる。だけど……フリーデはそれに気付いてくれた。呼吸ができるように助けてくれたんだ」
「エーリクは私を嫌いだった?」
「違う! ブランカのことは嫌いじゃない。ただ……ただ本当に愛する人を、真実の愛を見つけたんだ。だからこれ以上自分の心を騙して生きていくことはできない」
エーリクの声に迷いはない。それは残酷なほどに。
「ブランカ……?」
「こんにちは。エーリク」
エーリクは笑顔で扉を開いたが、そこにいるのが私だと分かると明らかに落胆の表情を浮かべた。その表情で誰を待っていたのか察しがついた。今日も約束をしていたに違いない。きっと屋敷の前に到着した馬車の家紋を見て勘違いをしたのだ。
それに婚約を解消した女が自分を訪ねて来るとは想像していなかったのだろう。エーリクの中で私の存在は終わったことになっている。無情な現実はまるで冬の痛いほどの寒さに似て心を凍りつかせる。彼の態度に胸が軋んだ。馬車でここに来るまで抱いていた微かな、本当に微かな希望がいっそ晴れやかなほどに霧散した。
私の口元には自嘲が浮かぶ。泣きたいのか笑いたいのか、どちらの感情から来るものか分からない叫び出したい衝動を小さく息を吐くことで堪えた。
「昨日おじさまが我が家にいらした時に、エーリクと最後に話をしたいとお願いしたのよ。おじさまは承諾してくださったわ」
「父が? そ、そうか。私は聞いていなかったが……とにかく中に入ってくれ」
エーリクは私を応接室に案内するとソファーに座るように勧める。しばらくするといつも私を笑顔で出迎えてくれる侍女が、言葉なくテーブルにティーカップを置いた。下がる前に侍女は私の顔を見て痛ましそうな表情をしてすぐに目を伏せた。
エーリクは小さく咳払いをすると黙ったまま気まずそうにティーカップに手を伸ばしお茶を飲んだ。
その態度はもう私に用はないと感じられた。彼はこんなに薄情な人だったのか。このまま婚約を終わらせるなんてあまりにも誠意がなさすぎる。私たちは十年もの長い時間を婚約者として過ごしてきたのに――。
エーリクはボルク侯爵家嫡男、私はアルホフ伯爵家の長女で家同士の仕事の都合で十年前に婚約を結んだ。その婚約を二日前に一方的に解消された。いや、交代させられた。
私はエーリクをまっすぐに見つめる。彼の反応を一瞬たりとも見逃さないために。
「おじさまは私に謝罪して言ったわ。エーリクが私との婚約解消を望んでいる。いえ、正確には私からフリーデに変更して欲しいと。それは本当なの? どうしてエーリク自身の口から言ってくれなかったの?」
「それは………分かるだろ? その、私から聞かされたらブランカが傷つくと思ったからで……」
エーリクは目を逸らしたまま言った。私に対し後ろめたいと思っている。これを不誠実だと思うのは私が狭量だからなのか。
「理由を教えて」
「……好きな人ができた」
「……フリーデね?」
「そうだ」
フリーデは私の異母妹だ。婚約者を姉から妹に代えるのは、家の繋がりの上では問題ない。でも外聞が悪い。そのリスクを取ってもフリーデを選んだ。
十年という時間の無力さを思い知り私の喉もとに何かがせり上がってくる。息が詰まる。だけどここで泣きたくない。目の奥にある熱いものが外に流れ出ないように眉根を寄せ必死に抑える。エーリクに会うのはこれで最後になる。無様な醜態をさらしたくなかった。これは私の小さな矜持、そして愚かな見栄。
「どうして私では駄目だったの?」
「………ブランカは私を好きではなかっただろう? 私の出来が悪いと、跡継ぎ教育の遅れを見下していた。だけどフリーデは私を尊敬し居場所をくれた。安らぐ場所を」
(エーリクを好きじゃない? 私に聞きもせずに私の気持ちを勝手に決めないで!)
私は……エーリクを好きだった。それに見下してなんていない。私なりに支えていたつもりだったけど彼には伝わっていなかった。ああ、でも十年も一緒にいて「好き」と言葉にしたことはなかったかもしれない。言わなくても伝わっていると思っていた。
エーリクは幼い頃、とても優秀で神童と呼ばれていた。一を聞いて十を知る。利発で賢く優しかった。物事をすぐに理解し吸収するエーリクはいつだって私の先を歩く。でも置いて行ったりしなかった。時々振り返っては私に手を伸ばし柔らかく微笑んで安心させてくれた。好きだった。あなたが好きだったのよ。
――――エーリクはいつから変わってしまったのだろうか?
私はエーリクに追いつくために必死に学んだ。ようやく隣に並べるようになったと自信がついて、隣を見たらエーリクは私ではなく別の女性を熱心に見つめていた。私の異母妹であるフリーデを。きっと一時的な感情で落ち着いたら私のもとに戻ってきてくれる、裏切ったりしないって信じていた。……違う。信じたかったのだ。それは祈りだったのかもしれない。
「私では安らぐ場所になれなかった?」
「ブランカといると追い詰められて息苦しい。自分が無力に思えて情けなくなる。だけど……フリーデはそれに気付いてくれた。呼吸ができるように助けてくれたんだ」
「エーリクは私を嫌いだった?」
「違う! ブランカのことは嫌いじゃない。ただ……ただ本当に愛する人を、真実の愛を見つけたんだ。だからこれ以上自分の心を騙して生きていくことはできない」
エーリクの声に迷いはない。それは残酷なほどに。
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