深き血の村

だんぞう

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#1 依頼

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 泥濘ぬかるんだ微睡まどろみから抜け出すようにうつつへと這い上が――ったと思ったら床へと落ちた。
 ブラインドから差し込む光が草臥くたびれたソファーに空いた穴を浮きあがらせる。
 起き上がりソファーへ腰を下ろすと、ちょうど時計が目に入った。
 もう昼を過ぎている。
 目覚ましは開業時間の十時に合わせてたのにな。
 大きく伸びをして、首と肩の凝りをほぐす。
 電気を点けっぱなしで寝ちまったせいか、いまいち疲れが取れてねぇ。
 それともこのソファの寝心地か?
 急に寒気を覚えてエアコンをつける。
 熱風を噴出す音が静かな室内に響き始める。
 温まるにはまだ時間がかかるか。
 再びソファへ横にになる――そして腹筋を始める。
 探偵ってのは体が資本だからな。

 池袋。
 雑居ビルの3F。
 窓の向こうは別の大きなビルがあり、昼でも暗い部屋。
 時間の感覚がなくなりそうなこの空間が俺はとても好きだ。

『笹目探偵事務所』

 小さいながらも、我が城である――陶酔を邪魔する強いノックの音。
「居るのか?」
 野太い男の声。
 男か――モーニング・コールとしてはイマイチだ。
「はい! 少々お待ち下さい!」
 だが客は客。
 あまり上質ではないソファからタオルケットを慌てて剥ぎ取ると、さっきまでベッドだったそれの上にクッションを置く。
 洗面所で鏡を覗き込み、水で寝癖を軽く抑え込む。
 事務机の上の分厚いファイルを開き、外に聞こえるよう大きく音を立てて閉じ、入り口へと向かう。
「お待たせしました。申し訳ありません……今、調査結果をまとめている最中だったもので……」
 扉の向こうに居たのは身なりのいい、だが目つきの鋭い中年男――見た目は若いが五十歳はいっているな。
 アルマーニのスーツとネクタイ。
 オールバックの髪にはポマードの匂いがぷんぷんする。
 古いタイプの金持ちそうな依頼人。
 自然と頬がゆる――いやいや。
 金持ちってやつらはシビアな生き物だ。ここでなめられると依頼自体をキャンセルされかねねぇ。
 表情を引き締め、軽く会釈した。
「私が当笹目探偵事務所所長の笹目ささめ洋介ようすけです。まずはお入り下さい」
「ああ」
 男は部屋へ入ってくる。
 あのソファーを見つけると大きく座り、懐からシガーを取り出した。
「ササメヨウスケ……ほう。所長? ……若いんだな」
「二十七歳です」
 コーヒーでも煎れようかと台所へ向かう俺を彼は呼び止めた。
「時間があまりない。余計なものはいらん」
 これを横柄な態度ととらえる者もいるだろう。
 だがそいつは金持ちって連中を知らないだけ。
 金持ち特有の無駄を嫌う姿勢ってやつさ。
「承知しました」
 俺は探偵。依頼者は神様。食らいついたら決して放すな。
 心の中でそう呟くとソファーの手前、ローテーブルを挟んだ依頼主の真向かいへパイプ椅子を置き、腰を下ろした。
「用件をお願いします」
 時間がないと言ったその男は、そのくせゆっくりとシガーを吸い込み、ゆっくりと吐く。
 俺はその煙に瞬きもせず、彼の目を真摯に見つめ続ける。
 彼はおもむろに小さな写真を取り出し、ローテーブルへと置く。
「失礼します」
 写真を手に取り眺める。
「これは……証明書用の写真ですね。中学生か高校生くらいの女の子。人探しですか?」
「連れて戻ってきてほしい。前金で四十。成功報酬で更にこの倍出そう。経費込みだ。引き受けるか?」
 バカみたいな高額。違法性を疑うほどの。
 そこそこ可愛くはあるが――まさか援助交際とかの後始末か?
 だが連れて戻るという条件が引っかかる。
 金額が妙にでかいのも危険なところだ。
 一応、もう少し探りをいれておくか。
「手がかりは写真一枚だけ、でしょうか?」
 すると男は名刺を一枚取り出した。
 『三島建設代表取締役 三島行男』と書かれている。
 な……んだと。
 三島建設といやぁ、中堅というよりもはや大手に近い。
 その代表取締役、行男ゆきお氏――いやこれは絶対に依頼を成功させなくては。
「次女の紀子のりこだ。期間は一週間。伊豆に遊びに出かけている。見つけたらとりあえずこの名刺の番号へ電話してくれ」
 家族と聞いてホっとする。
「ノリコさん……旅行、ですか?」
 旅行先で誘拐されたとか?
「知らん。細かい話は自宅のメイドに答えるよう言ってある。裏に書いてある電話番号にかければメイドが取る」
さらわれた、とかではないのですよね?」
「あとは調べてくれ」
 娘のことなのに随分と――いや、気持ちを切り替える。
 これほどの高額報酬依頼を断るなど愚か者のすることだ。
 依頼主を怒らせて依頼を取り下げられてしまうことも、同様にな。
 そもそも俺は見合うだけの金さえもらえればどんなことでもする。
 それがこの俺『探偵 笹目洋介』だ。
「分かりました。ご期待に添えますよう尽力いたしま」
「あらぁ、かっこつけちゃってぇー」
 俺の言葉が終わらないうちに、聞き覚えのある声。
 勝手に事務所内に入ってきたこいつを俺は知っている。
 そう、バー『フィヨルド』のナンバー1ホステスのミンクちゃんだ。
 入り口のドアにもたれかかるようにして「いつもの」胸を強調したポージング。
「ねぇ、ゆきゆきぃ、あたしぃ、待つのあきちゃったぁ」
 三島氏の顔つきががらりと変わる。
「みんみ~ん。ごめんねぇ。もう終わるからねぇ」
 さっきまでの渋い顔の男はもう居ない。
 ミンクちゃんはぱたぱたと駆けてきて、依頼人の横にふわっと座る。
 そして三島氏の腕に胸を押し付けるようにしがみついた。
「えへへぇ」
 依頼人もそれに合わせるように笑った。
「えへへへ」
 はたから見てても、馬鹿っぽい。
 突然ミンクちゃんがくるっとこちらを向く。いえ。馬鹿だなんて思ってないです。
「なんかねぇ、むすめさん、ぷちいえで、っぽいぃぃかんじよぉ?」
「プチ家出ですか?」
「いえでした子ぉーさがすのわぁ、とくいよねぇ~」
 ミンクちゃんのお店のママ、おすずさんにはよく家出猫の捜索依頼を頼まれる。
 なんども家出するものだから、値段も割り引かれて「捜索」回数券まで作られてしまったほど。
 まあその分、こうやってお客を紹介してくれるのだが。

 三島氏は立ちあがり、一瞬だけ顔に厳しさが戻る。
「相場以上の金は出しているつもりだ。意味は分かるよな?」
「さめちゃぁんにくちどめりょうねぇ♪ みんくにも、なにかちょぉだぁいぃ!」
「よぉし、みんみんのほしいもの、なぁんでもくちどめしちゃうぞぉ」
「えへへぇぇ、うれしぃなぁぁ」
 少し厚めの封筒を机の上に放り投げると、腕にミンクちゃんをぶら下げたまま三島氏は出ていった。
 ミンクちゃん、客の紹介はありがたいんだけど、その分高い『手伝い賃』をあとで巻き上ようとするんだよな……押し付けられた胸に気を取られている間にどれだけの万札が……。
 いやいや。
 ボンヤリしてる場合じゃねぇ。
 まずは封筒の中身を確認する。
 新札できっちり四十万入っている。
 まずは三島家のメイドさんに電話からかな。
 だがその前に。
 台所に置いてあった中華丼の器を扉の外に置く。
 気合を入れるにはまず腹ごしらえからだ。
 階段を降り、一階の集合郵便受けの中身を全部カバンへと移す。
 中から取り急ぎ家賃や光熱費や通信費やらを抜き出し、コンビニでもろもろの料金を支払い、次はファーストフードへ。
 ハンバーガーをくわえながらいつものようにDMを選り分ける。
 郵便受けの中身など月に数回しか見ない。あんまり溜め過ぎて郵便受けがパンパンになるとまっとうな手紙というか督促状が届かなくなる。
 長いこと空ける場合は特に中身を減らしておかないと。
 さてと……出会い紹介……お金貸します……通販AV……出張ヘルス……外国のクジ買いませんか……ろくなもんがねぇな。
 特にエロ比率の高いこと。この街らしいけどな。
 DMの内容ってのはこの街――池袋そのもの。
 最後の一本を食べたポテトの箱にDMを丸めて押し込むと、そのままごみ箱へ。
 ポテトの箱に入りきらない方が断然多いのに、なぜか箱に詰め込もうとしちゃうんだよな。
 で。
 あれだけ来てた郵便物も、手元に残ったのは薄汚い茶封筒がひとつだけ。
 依頼か?
 だとしても、依頼人本人の顔を見ないで引き受けたりはしない主義だ。
 茶封筒を透かしたり裏返したりしながら『我が城』へと戻った。



 茶封筒の筆跡、筆で書いたのか多少読みにくい字。誰の字だろう。
 差出人の記述は何もない。
 あとは中になにか微妙な厚さのモノが入っているようだ。
 表に書いてある住所はいくつか持っているダミー用の住所。転送依頼をしてあるだけだから、ちょっと調べられればすぐバレるがそれなりに役には立つ。
 えーとこの住所を教えてあるのは――昔のダチと、別れた女、あとは、田舎のばーちゃんくらいか。
 全員、遠い記憶の向こうの連中だ。
 探偵に感傷は似合わねぇ。
 茶封筒はたたんでズボンのポケットにしまいこみ、まずは電話だ。
 一週間って期間は意外に短い。
 油断していたらあっという間だ。
 デジタル嫌いな俺は、アナログ中のアナログ、黒電話の受話器を持ち上げる。
 ダイヤルのコロコロ音が、静かな事務所内に響いた。





● 主な登場人物

笹目ささめ 洋介ようすけ
 池袋の雑居ビルにある笹目探偵事務所の所長。二十七歳。

・三島 行男ゆきお
 三島建設代表取締役。次女の紀子のりこ捜索依頼を持ち込んだ。

・ミンクちゃん
 バー『フィヨルド』のナンバー1ホステス。

・おすずさん
 バー『フィヨルド』のママ。家出猫の捜索依頼をしょっちゅう出してくる。
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