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お題【先輩】【コーヒー】【小説】
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あの喫茶店に通い詰めたのは本革のブックカバーが目当てだったから。
コーヒーを一杯注文するとスタンプを一つもらえて、スタンプが貯まれば色々なものと交換できるというシステム。
常連は大抵そのブックカバーを持っていて、それをつけた本を読んでいるとコーヒーのお代わりが一杯無料になるというサービスまである。
「この手触り、欲しくなるでしょ?」
「はい」
と口では答えながらも、自分の本当の望みを心の中で再確認する。
先輩のせいですよ、と。
バイト先の先輩は本の趣味がやたらと合って、気さくで笑顔も可愛くて。あの店を教えてくれたのも先輩だった。
そんな先輩との距離感が壊れるのが怖かったから、告白どころかお揃い目的とさえも言えなくて。
ブックカバーの内側に隠された物語が外から分からないように、僕は先輩への想いをずっと隠し続けた。
聞き上手な後輩というカバーで自らを覆い続けて。
そんな先輩との距離が急激に開いたのは、梅雨が明けてすぐ頃のことだった。
「でね、私とうとう鍵と交換できたの」
赤いリボンがついた小さな鍵を、先輩は嬉しそうに見せびらかす。
あの店の奥にある古いガラス扉の書庫の鍵だ。
そこには様々な人から寄贈されたという私小説の数々が収められている、らしい。ブックカバーのせいで書庫の外からは確かめようがないのだけれども。
「君はあそこにどんな物語があると思う?」
笑顔でそう言って早上がりした先輩は、その夜、失踪した。
意味が分からなかった。
想い人を突然失うというのは、最高に楽しい小説の佳境で読み途中の本を奪われるようなもの。
しばらくは何もやる気が起きず、就寝前に読む難解な文章のように何も頭に入ってこなかった。
僕の日々はただ無為にページがめくられるだけの繰り返し。
それでも唯一、あの店への日参だけは欠かさなかった。
「お、通ってるね」
なんて先輩が突然笑顔で現れるかもしれない、そんな願望を懐いて。
「おめでとうございます」
声の主を見上げると、マスターだった。
「鍵と交換できますが、どうなさいますか?」
先輩が居なくなったからとブックカバーに交換し損ねていたスタンプが、鍵と交換できるまで溜まったようだった。
現実逃避に近いご都合な幻想を縁に漠然と通い続けていた僕に、ようやく思考が戻ってきた。
ああ、そうか。
先輩は書庫の本を読んで、それから失踪したのだ。もしかしたら先輩の行き先について何かヒントになるようなことが書かれている本があるかもしれない。どうして今までそんな簡単なことに気づけなかったのか。
「お、お願いしますっ!」
僕は鍵を手に入れ、そして即座に店の奥、書庫の前へとしゃがみ込む。
コーヒーの匂いが染み付いた木製のアンティーク書庫。扉にはめられたガラスは綺麗に磨かれていて、不安と期待とが混ざった僕の表情を静かに映す。
赤いリボンのついた真鍮色の鍵を、鍵穴へと差し入れる。
恐る恐る回すと、手応えが指へと伝わる。
ガラス扉は軋み一つなく優しく開いた。
この店のブックカバー特有の匂いがふわりと出迎えてくれる。
白だけの鍵盤のように整然と並んだ文庫本サイズの本の数々は著者もタイトルも分からないが、鞣された本革カバーのおかげか一冊一冊にそれぞれ異なる存在感を感じた。
どれから確認しようかと無造作に突き出した人差し指が、背表紙には触れはせぬものの一本指ピアノの様相を呈する。
その指がある一冊を通過しようとしたとき、僕の中で鼓動が強く響いた。
迷わずその一冊を引き抜く。
しっとりとした指触り。なぜか先輩の手のひらを思い出す――そんな柔らかい気持ちが一瞬で吹き飛んだ。
本扉を開いたそこに、先輩の名前。
目を閉じて、長めの深呼吸をしてからもう一度開く。
やはり先輩の名前だ。
全身の血が昇ってくる。
音と温度とが遠くなり、世界が静謐に包まれる。
僕はそのまま本の中へのめり込んでいった。
「閉店ですよ」
その声に飛び起きた……ということは、僕は寝ていた?
状況を確認しようと慌てたのかコーヒーがまだ残っていたカップを倒してしまう。
机の上の本を守ろうと思わず出した手の上を、零れたはずのコーヒーが飛び越えた。
コーヒー色の猫。
え?
猫は本をくわえて店の外へと駆け出した。僕は思わず追いかける。あの本には絶対に先輩の失踪理由があるはずだから。
追いつけそうで追いつけない猫を追って走る僕の周囲の景色が次々と変わってゆく。
横目で時々それらを眺めるうちに僕は気付いた。それらの光景がすべて僕の人生のシーンをなぞっているのだと。
「新しいの、入荷したって?」
「うん。今黄泉終わったとこ。借りたい?」
「是非とも。さすがの手腕、裏マスターさまさまだね」
「惚れちゃうでしょ?」
「ご遠慮しておくよ。死小説にはなりたくないからねぇ」
「ちぇー。じゃあ、また新しい人、探してこようっと」
<終>
コーヒーを一杯注文するとスタンプを一つもらえて、スタンプが貯まれば色々なものと交換できるというシステム。
常連は大抵そのブックカバーを持っていて、それをつけた本を読んでいるとコーヒーのお代わりが一杯無料になるというサービスまである。
「この手触り、欲しくなるでしょ?」
「はい」
と口では答えながらも、自分の本当の望みを心の中で再確認する。
先輩のせいですよ、と。
バイト先の先輩は本の趣味がやたらと合って、気さくで笑顔も可愛くて。あの店を教えてくれたのも先輩だった。
そんな先輩との距離感が壊れるのが怖かったから、告白どころかお揃い目的とさえも言えなくて。
ブックカバーの内側に隠された物語が外から分からないように、僕は先輩への想いをずっと隠し続けた。
聞き上手な後輩というカバーで自らを覆い続けて。
そんな先輩との距離が急激に開いたのは、梅雨が明けてすぐ頃のことだった。
「でね、私とうとう鍵と交換できたの」
赤いリボンがついた小さな鍵を、先輩は嬉しそうに見せびらかす。
あの店の奥にある古いガラス扉の書庫の鍵だ。
そこには様々な人から寄贈されたという私小説の数々が収められている、らしい。ブックカバーのせいで書庫の外からは確かめようがないのだけれども。
「君はあそこにどんな物語があると思う?」
笑顔でそう言って早上がりした先輩は、その夜、失踪した。
意味が分からなかった。
想い人を突然失うというのは、最高に楽しい小説の佳境で読み途中の本を奪われるようなもの。
しばらくは何もやる気が起きず、就寝前に読む難解な文章のように何も頭に入ってこなかった。
僕の日々はただ無為にページがめくられるだけの繰り返し。
それでも唯一、あの店への日参だけは欠かさなかった。
「お、通ってるね」
なんて先輩が突然笑顔で現れるかもしれない、そんな願望を懐いて。
「おめでとうございます」
声の主を見上げると、マスターだった。
「鍵と交換できますが、どうなさいますか?」
先輩が居なくなったからとブックカバーに交換し損ねていたスタンプが、鍵と交換できるまで溜まったようだった。
現実逃避に近いご都合な幻想を縁に漠然と通い続けていた僕に、ようやく思考が戻ってきた。
ああ、そうか。
先輩は書庫の本を読んで、それから失踪したのだ。もしかしたら先輩の行き先について何かヒントになるようなことが書かれている本があるかもしれない。どうして今までそんな簡単なことに気づけなかったのか。
「お、お願いしますっ!」
僕は鍵を手に入れ、そして即座に店の奥、書庫の前へとしゃがみ込む。
コーヒーの匂いが染み付いた木製のアンティーク書庫。扉にはめられたガラスは綺麗に磨かれていて、不安と期待とが混ざった僕の表情を静かに映す。
赤いリボンのついた真鍮色の鍵を、鍵穴へと差し入れる。
恐る恐る回すと、手応えが指へと伝わる。
ガラス扉は軋み一つなく優しく開いた。
この店のブックカバー特有の匂いがふわりと出迎えてくれる。
白だけの鍵盤のように整然と並んだ文庫本サイズの本の数々は著者もタイトルも分からないが、鞣された本革カバーのおかげか一冊一冊にそれぞれ異なる存在感を感じた。
どれから確認しようかと無造作に突き出した人差し指が、背表紙には触れはせぬものの一本指ピアノの様相を呈する。
その指がある一冊を通過しようとしたとき、僕の中で鼓動が強く響いた。
迷わずその一冊を引き抜く。
しっとりとした指触り。なぜか先輩の手のひらを思い出す――そんな柔らかい気持ちが一瞬で吹き飛んだ。
本扉を開いたそこに、先輩の名前。
目を閉じて、長めの深呼吸をしてからもう一度開く。
やはり先輩の名前だ。
全身の血が昇ってくる。
音と温度とが遠くなり、世界が静謐に包まれる。
僕はそのまま本の中へのめり込んでいった。
「閉店ですよ」
その声に飛び起きた……ということは、僕は寝ていた?
状況を確認しようと慌てたのかコーヒーがまだ残っていたカップを倒してしまう。
机の上の本を守ろうと思わず出した手の上を、零れたはずのコーヒーが飛び越えた。
コーヒー色の猫。
え?
猫は本をくわえて店の外へと駆け出した。僕は思わず追いかける。あの本には絶対に先輩の失踪理由があるはずだから。
追いつけそうで追いつけない猫を追って走る僕の周囲の景色が次々と変わってゆく。
横目で時々それらを眺めるうちに僕は気付いた。それらの光景がすべて僕の人生のシーンをなぞっているのだと。
「新しいの、入荷したって?」
「うん。今黄泉終わったとこ。借りたい?」
「是非とも。さすがの手腕、裏マスターさまさまだね」
「惚れちゃうでしょ?」
「ご遠慮しておくよ。死小説にはなりたくないからねぇ」
「ちぇー。じゃあ、また新しい人、探してこようっと」
<終>
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