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第二章

第八十八話 これは距離の問題……

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 視界の端で何かが動くのが見えた。そして――その物体は沙也夏の手に収まる。ゆっくりと、手が上の方へと動く。

 そして、櫛で髪を梳かされる。上下にするすると。

「変装魔法で作られた髪の毛だとはいえ、実体はあるんですから、もっとちゃんと整えないとですよ。この辺とか癖がついてます」

 ……さっき一度部屋で寝ころんだからだろうか。

 じゃなくて。

「…………沙也夏。これ後ろに回ってくれた方が良いんじゃないか……」

「いいじゃないですか。女の子同士ですし」

「違うだろ……」

「今はさゆりちゃんでしょう?」

「そういう問題じゃ……」

 そういう問題じゃ、ない。

 色素の薄い瞳が、俺を至近距離から見上げている。

 その瞳には神秘的な趣さえあり、奥に秘められた魔術的な力を以て俺を捕らえていた。至近距離。誇張でなく互いの息遣いが伝わる位置関係で、俺たちは縛り付けられたように存在していた。

 何分か経った後(いや、実際には何十秒しか経っていないのかもしれない)、沙也夏は手の動きを止めた。

 この心臓に悪い距離感がようやく終わるのかと安堵しかけたが、沙也夏は櫛を――魔力で操って――机に戻し、別の何かを手元に手繰り寄せる。

「髪型も変えましょう」

「いや、髪が長くなってるんだから変装上はこのままで問題な――」

「私好みの髪型にしたいんです」

 …………。

 ならしょうがないか……。

 そう思っていた矢先、沙也夏が何かのメロディーを口ずさみ始める。

 ……落ち着け。鼓膜が微かに振動しているに過ぎない。沙也夏の涼しげな雰囲気を纏う声に、跳ねるような心地よいメロディーが乗って――そう、ただ、俺の鼓膜を振動させているだけだ。

「まずはポニーテールですかね……」

 沙也夏が何かを呟くが、俺はその言葉の意味を認識できなかった。

 何故だろう。何か別のものに意識を奪われているのかもしれない。

 しかし聴覚的に――或いは視覚的に――俺が意識を向けるべき感覚がどの辺りに存在するかという問いの解答は濃く深い霧のような曖昧さに縁取られて俺には手に入れられないものであるようにしか思えなかった。

「はい。出来ました……どうしました?」

「……いや、何でもない」

「そうですか?」

 沙也夏が爽やかで楽しげな笑みを浮かべる。

 ……まあ、いいか。

「……いや、さっき、まずはって言わなかった?」

「言いましたよ。日替わりです」

 …………明日は絶対に後ろに回ってもらう。何があっても。絶対に。
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