日本語教師日誌2

藤堂Máquina

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12月14日(月)

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12月14日(月)

今日の授業は2つ。
1つは1時間の会話、1つは30分の百人一首だった。
会話の方は前回金曜日に来た学生で、1時間カジュアルな会話をした。
この時間ばかりは教師として、ラフな日本語を使わなければならないのだが、こう教師をしていると、むしろカジュアルな言葉を選ぶ方が難しい。
一人称すら油断するとブレるし、普段通りと言う方がよっぽど難しい。
日本人と話すというのはかなり長い間していない。
特に友人のような、家族よりも雑な言葉遣いをするような人と話していないため余計である。
それ故に、私は主に相槌を打ち、話を広げる方向に努めた。
外国人からしたら、私の相槌は話しやすいらしく、それはもちろん教師としての職務を全うしているからなだけであるものの、それでも仕事柄そう言ってもらえるのは嬉しい。
外国人が日本人の友達と話すと話が止まってしまうことが多いらしい。
日本人はつくづくシャイだと思う。
能動的に日本語を勉強しようと私の元を訪れる学生というのは、日本人相手に日本語を使うくらいの努力家が多い。
だから「英語が苦手だから話したくない」という状況にはならないはずである。
その上で会話が続かないというのはそういうことだと思う。
私の学生の多くは会話が続かないことから「自分に好意的なのかどうか分からない」とよく言う。
可哀想である。
私は仕事だから話題を広げるものの、どちらかと言うと普段は静かなタイプのため、「話しやすい」と言われても営業用の顔とは言えない。
まぁ話題がだいぶ逸れたが、そう言うわけで、学生に気持ちよく話してもらってお金をもらう仕事だった。
今日のもう一コマは百人一首だったが、今日は1つの詩の他に学生がアメリカの有名な詩を日本語訳してきたため、少し残った時間で一緒に見た。
「添削」なんて大袈裟なものでもないし、学生の選んだ日本語にケチをつける気はなかった。
そのため、詩の手法のアイデアを提案したり、スタイル参考になりそうな日本の詩を紹介したり、その程度のことをした。
個人的にはどんな文章でも、その人が満足しているなら、いや、していなくても、作った人の作品である。
もし仮に学生が言葉の使い方や、知らない単語の解説を望めば、その時は手伝うつもりだが、そうでない場合は何か言うつもりはない。
それに人の詩を読むと言うのも私は好きだ。
だから10分ほど授業の時間をオーバーしたが、悪いことではなかったと思う。
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