【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第1部 高級クラブのお仕事

高級クラブの同伴

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 腕時計に目を走らせると7時半を回っていた。北新地に着いてからかれこれ一時間以上経ったことになる。

「え、俺のせいなん?出勤、何時から?」
「8時からよ」
「まだ時間あるやん」
「あのね、今から美容室行かないとあかんのよ。着実に遅刻!」
「美容室?髪きれいやん。そのままじゃあかんの?」
「それ、ほめてるつもり?美容室に行ったかどうかなんて見たらすぐに分かるのよ。あたしみたいな高級クラブのホステスはね、絶対に美容室行って出勤せなあかんの」

 涼平りょうへい萌未めぐみのサラッと言った「高級」というワードに息を飲んだ。そもそもクラブという存在のこともよく分からないのに、冠に高級と付けられ、萌未が遠い異国の人のように見える。

「高級…クラブのホステスなんや。それは、悪いことしたなあ…」
「ほんまにそう思ってる!?」
「うん、思てる思てる」
「じゃあ、ね、あたしと一緒にお店に入ってよ。同伴やったら30分遅れてもいいから。ね、いいでしょ?」
「ええっ、高級クラブのホステスさんなんやんね?そういうとこの店って高いんやろ?」
「いいのよ、今日は最後まであたしが失恋誕生日を祝ったげるから。ぱあ~っと飲もうよ」
「いや、いくらなんでもそこまでしてもらうわけには…マスター、お会計してもらえますか?」

 初めてのシャンパンを奢ってもらうだけでも分不相応に思えるのに、さらに北新地の深淵に連れて行こうとする萌未の提案はさすがに受ける気になれず、涼平は慌ててマスターの方を向いて立ち上がる。萌未はその涼平の袖を掴み、強く引っ張ってもう一度座らせた。

「何言ってんのよ。あたしこう見えても高給取りなのよ。遅刻罰金だけでも高いんやからね!じゃあちょっと美容室行ってくるから残りのシャンパンでも飲んで待ってて。マスター!涼平のこと絶対に帰したらあかんよ!」

 マスターは接客しているカップルの前から振り向いて親指を立て、オッケーの合図をした。そして、萌未は急ぎ足で店から出て行く。涼平は思いもよらぬ展開に目を白黒させていた。

 そこへ、先ほどからの二人のやりとりを伺っていたであろうマスターが涼平の前にやって来て、残りのシャンパンをグラスに注いでくれた。

「何かえらいことになってるねえ…」
「はい、えらいことになってます。あの、お会計を…」
「だめだめ、今君を帰したら僕がめぐちゃんに怒られるよ。お金のことはめぐちゃんが心配ないって言ってくれてるんやから、今日は割り切ってこの街を堪能して行きなよ」

 そう言ってマスターはもう一組のカップルのチェックに回って行った。仕方なく注いでもらったシャンパンを口に運ぶ。クリスマスの甘ったるいスパークリングワインしか飲んだことない涼平には、最初の一気こそ炭酸のきつさと慣れない酸味に逆流しかけたが、口の中に広がる上品な甘みときめ細やかな泡立ちが大人への階段を一歩上がったという感覚に陶酔させた。

「モエのロゼだよ。シャンパン初心者には飲みやすいでしょ?」

 気がつくと店の中の客は涼平一人になっていた。

「あの、萌未の店って、どんなとこなんですか?」

 不安ながらに聞いてみると、あれ、知らないの?とマスターは言ってから、

「まあそれは行ってからのお楽しみやね」

 とにんまり笑った。

(この人ほんまは楽しんどるな…)

 涼平は改めて自分の格好を見回す。Tシャツの上にパーカーを羽織り、その上から薄手のブルゾンを着込んでいた。下はジーンズにスニーカーである。

「こんな服で行けるんでしょうか?」

 マスターに聞くと、彼はカウンター越しに涼平の服装に目を走らせ、

「昔はスーツやないとあかん店が多かったんやけどねぇ、今はよっぽど酷くない限りは入れてもらえるよ」

 とフォローともダメ出しとも取れることを言うと、

「まあでも君はまだ年が若いからなあ…」

 と言って店の奥へ行き、グレーのジャケットを取って来て涼平に見せた。

「これくらい渋いの着といた方がナメられなくていいかな?これ、貸してあげるよ」

 涼平が着てみると、心なしか肩幅が広すぎる気がした。胸元を開いて見ると内ポケットの上にアルマーニのロゴが入っている。初めて着る高級ブランド服に少しテンションが上がる。

「わあ、ありがとうございます!ていうか、やっぱり行かなあきませんかね?」
「どうしても嫌なら逃してあげるけどね。二十歳で行けるところではなかなかないよ。社会勉強だと思って行っておいでよ。それか、詫びでぼうずにされるかだね」
「え、ぼうずはちょっと、嫌ですねぇ…」

 情けなさそうに苦笑いする涼平を見て、マスターはクスッと笑う。萌未のマスターに対する態度から、彼女がマスターに信頼を寄せているのが分かる。そんなマスターの人柄から、萌未の店に行ってみようか、という気にちょっとなってきていた。

「萌未とマスターは知り合ってどれくらいなんですか?」

 そんな質問を投げると、マスターはしばらく考えてから、半年くらいかなあ?と言った。

「元々僕の知り合いのホステスさんに連れられて来てくれたんだよ」

 ということは大学に入学してすぐにもうここでのバイトを始めていたことになる。萌未くらい美人だと半年くらいでもあんなに黒服たちに挨拶されることになるのだろうか?

 そんなことを考えながら、クラスメートとはいえ、涼平は萌未のことをほとんど知らないことに今更ながら思いを寄せた。ほとんど初対面といっていい自分に何でこんなにしてくれるんだろうか、シャンパンをチビチビ飲みながら、萌未に対する思案をあれこれしているうちに20分くらい経過し、美容院から彼女が戻ってきた。先ほどまで下ろしていた髪をアップにし、白く綺麗なうなじをあらわにしていた。もともと大人びている彼女がさらに大人っぽく見え、この街に相応しい高級感を醸し出していた。

「あ~!もう残ってないやん」

 萌未は席に戻るなりシャンパンの瓶をつまみ上げ、それが空になっているのを確かめると、涼平のグラスを奪ってほとんど一気した。そして、

「これから戦場やけど涼平がいてくれるお陰でちょっと楽しいかも」

 とにっこり笑った。ジャケットの下からはさっきまでニットで隠れていた胸の湾曲が、胸元の大きくあいたワンピースに代わったのではっきりと伺われ、涼平はとっさに目を反らした。そんな涼平を萌未はじっと見つめる。

「涼平ってさ、まさか今日お酒飲むの始めてやないわよねえ?」
「ああ、普段から寮の仲間と酒盛りしてるよ」
「そっかよかった。その割にはもう顔赤いけど、弱くない?」
「え、普通と思うけど?」
「そ?酔って絡む人、あたし嫌やからね」
「だ、大丈夫と思うよ」

 涼平の頬の赤みはきっとアルコールのせいだけではなかったろう。萌未はちょっと顔を引き、そんな涼平の肩口から下に目を走らせた。

「あら、馬子にも衣装ねえ。そのジャケット似合ってるよ」
「馬子にもて…それ意味分かって言ってる?」
「うん、言ってる」

 へへへぇ~と、萌未はいたずらっぽく笑って涼平の頭を指先でこつんと弾くと、椅子から立ち上がった。

「さ、行きましょ」

 扉を出るともうすっかり暗くなっていた。来たときよりも幾分賑やかになっている通りを歩くと、同伴に向かうのであろう年の差カップルにも何回もすれ違った。

(この街ではきっと俺たちの方がちぐはぐなカップルに見えているんやろうな…)

 シャレードから一つ南の通りに入ると、各ビルの前に数人の黒服が立って同伴客を案内したりしていた。シャレードのあった通りが本通り、ここが上通りで高級店が集まっているのよ、と萌未は説明してくれた。

 北新地のほぼ真ん中と思える四ツ辻の一角のビルのエントランに入ると、萌未の姿を確認した黒服がエレベーターのボタンを素早く押す。点灯している階のネームプレートには「クラブ若名」と重厚な字で書かれていた。

 エレベーターの扉が開くとそこはもう別世界だった。




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