【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第1部 高級クラブのお仕事

籠の鳥

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『大丈夫なの?』

 安堵に胸を撫で下ろし、若干息切れしながら答える。

「うん、全然大丈夫やで」

 涼平りょうへいは北新地の南端に流れる堂島川の方向へ歩を進めており、すでに淀屋橋へと渡る橋が目の前に迫っていた。御影石調の親柱には、黒い石版に中之島ガーデンブリッジと彫られていた。

 船大工通りに面する高級ホテルの裏手に回ると、そこはもう、すぐ北に繁華街があるとは思えないくらい静かな空間へと切り替わる。道路沿いに堂島川の堤防が広がり、川面には川に沿って走る高速道路の橋桁の黒影が黒々と落ちていた。ちょうど御堂筋と四つ橋の中間に位置するこの橋には、ほとんど人が渡る気配もなかった。

 涼平はその橋への階段を上り、欄干に寄りかかるようにして電話に集中した。

『ね、あたし、涼平に聞きたいこと、あるんやけど…』

 電話口の声は鼻声ではなくなっていたが、少しかすれているように聞こえた。

「何?」
『うん…あのね、涼平、あたしと出会ってよかったのかなぁ~って、ちょうどさっきね、そんなこと考えてたの』

 川面には高速の灯りがぼんやりと揺らめき、それ以外のところに広がる暗闇を引き立たせていた。欄干の冷たい感触がコートの下から伝わり、携帯を持っていない方の手を体の間に挟ませる。

「出会ってよかったに決まってるやん。何でそんなこと聞くの?」
『うん………なら、いいの。あたしも、涼平と出会ってすっごくよかったって思ってるから…』
「なんか…まるで卒業式の友達どうしの会話みたいやなあ…」

 身体が弱ってるとはいえ、しんみりとした萌未の語り口に、別れを示唆するような感じがして不安になった。
 萌未は、そうね、と言って笑った。

「なあ、俺も聞きたいことあるんやけど…」

 冷たい風が橋の上を南北に吹き抜け、直撃を受けた目に涙が滲んだ。酒で火照った顔には心地よかったが、携帯を持っていた右手の感覚はほとんどなくなっていた。

『何?一つだけなら、いいわよ』
「ええ?ずるいよ、俺は数の制限なんてしなかったのに…」
『病人を労りなさいよ』
「うーん…」

 聞きたいことはいっぱいあり、どの質問にするかを迷う。


 宮本みやもとさんの婚約祝いなんて、何で開こうと思った?

 そもそも、宮本さんへの想いは吹っ切れた?

 それとも、想い人は別にいる?

 今、一人でいる?


 どんな質問を思い浮かべてみても、結局最終的に聞きたいことは一つに行き着く。



 俺を一番好きでいてくれる?



 しかし、実際にそれを質問した場合、萌未の答えは100%分かっている。


 一番好きよ…


 萌未に100人好きな人がいて、自分が100番目であったとしても、彼女はきっとそう答えるだろう。


 宮本のことだってそう。

 吹っ切れた?と聞けば吹っ切れたと答える。

 例え吹っ切れていなかったとしても、その心情を正直に話すとは思えない。



 いや、萌未は基本的に正直だ。

 ただ、その正直さはあくまで萌未の望む方向に向くのであって、客観的な事実と符号するとは限らない。

 もし彼女が自分の弱みを見せまいとするなら……その気持ちに正直に答えようとする、そんなある意味意固地さを彼女には感じる。




 ではどんな質問がいいか。

 例えそれが客観的に見て嘘であっても、その嘘の向こうに彼女の正直な気持ちが読み取れるような質問は…



「1週間前、交差点で萌未が美伽みか…ほら、俺の5年間の片想いのやつと歩いてるのを見かけた気がしてん。あのとき、一緒にいた?」

 結局、口をついて出たのはそんな質問だった。

『一緒にいたわよ』

 即答だった。

『涼平はもう、あたしのもんやから、ちょっかい出さないでねって言ってたの』
「え………ええっ!?な、何で………!?」

 密かに期待していたことをすんなり言われ、涼平の頭の中は逆にパニックになった。

 あの交差点でのあと、涼平はこんなことを考えていた。

 もし、あれが萌未と美伽だったとしたら考えられること…二人が自分がらみで会っていたのでは、ということ…


 萌未のマンションから一緒に大学に行った日、萌未は美伽の顔を見た。
 そして、美伽とホテルに泊まった日、もし大学で萌未が俺と美伽の話しているところを目撃していれば、萌未はきっと俺が美伽への想いを断ち切れていないと思っただろう。
 もし萌未が俺を好きでいてくれるなら、萌未の正直さは俺を直接非難するような方向には向かない。
 だがひょっとしたら、美伽のことを大学で見かけ、涼平は自分のものだとか何とか言って釘を刺したりしたのかも…
 そしてなぜか意気投合し、あのすれ違った日は一緒に飲みに出ていた、とか……



 それは多分に涼平の希望を孕ませた勝手な妄想だった。



 そんな妄想を思い描き、萌未が自分のことを好きでいてくれるというストーリーを作って一人でニマニマとする…_
 涼平にはそういうところがあった。

 四の五の言わないで自分について来い!

 相手の心情をグジグジと慮ってばかりいず、時にはそんな傲岸不遜な態度に出てみたい。
 そしてきっとその強引さは萌未には有効に思える。

 だが、それを実行に移すには、涼平は自分に自信が無さ過ぎた。

 なので、その思い描いていた通りのことを萌未に言われ、嬉しくなるというより、頭の中を見透かされている感じがして慌ててしまった。


『嘘よ』
「え………ええっ?」
『そんな訳ないでしょ?あたし、美伽さんとはしゃべったこともないわよ。』
「あ…ですよねぇ…。やっぱり俺の錯覚やったんや…」
『そうよ。涼平って面白いこと言うのね』 


 新地に巣くっている狐や狸が、自分の妄想につけ込んであの夜あんな幻覚を見せた…そんなファンタジックな発想の方が、涼平には現実的に思えた。

 萌未の姉の部屋に寝泊まりさせてもらうというちょっと普通ではあり得ない非現実的なシチュエーションが、まるで異世界に迷い込んてしまったような質量のない感覚を身の回りのいろんなことにまとわせていたのだ。

(口説きがきつくて困ってたのよ)

 クラブ若名わかなで聞いた萌未の客への本音が、自分に対してもどこかで言われている…そんなネガティブな考えが常に付き纏う。

 もし誰かに妄想なんか止めて現実的に事実を受け止めよと言われたならば、萌未にしてみればちょっと毛色の変わったコレクションを手に入れただけなのだという考えに行き着く。

 彼女は涼平という風変わりな鳥を見つけ、籠の中に閉じ込める。

 そしてたまに餌を与えにやってきて、そのコレクションを眺めるのだ。

(籠の扉は開いているのよ。逃げたければ、逃げなさい。でも、逃げられないでしょ?)

 そう、涼平にとっては彼女の与えてくれる餌が唯一の生きる糧になってしまっていて、彼女の鳥籠から逃れられない。
 そんな涼平の姿を見て、彼女は満足気に微笑む…


 俺を一番好きでいてくれる?


 さっき口から出そうになった質問──それはまるで餌をくれとねだるペットと同じだ。

 北新地の高級クラブで日々戦っている萌未にとって、自分を捕捉することなどいとも容易たやすいことなのだ…


 暗闇に緩流する堂島川の底知れない深みに、涼平の思考は捕らえられていた。


『そろそろ、寝るね』

 沈黙した携帯の先から、彼女のかすれた声が聞こえた。

「うん、おやすみ…俺もちょっと悪酔いしたみたい…」
『ほら、やっぱり酔ってたやない。ちゃんと真っ直ぐ帰って寝るのよ』
「はいはい、お母さん」
『もうっ。じゃ、切るね』
「土曜日、楽しみにしてるから」
『うん。おやすみなさい』

 堂島川から見る北新地は、ビルの薄汚れた背面がむき出しになり、まるで舞台裏からショーを観ている感じだ。

 ここが現実、向こうは夢…

 両手の感覚はすでに消えて久しい。涼平は冷たい欄干らんかんにもたれながら、光と影の境界線を、擬宝珠ぎぼうしの青銅と体温が同化するまで辿っていた。




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