【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第2部 萌未の手記

憤激への着弾

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 次の日の昼過ぎ、さくらに聞いた紀香のりかさんの番号にかけてみる。

『はい』

 数回のコールの後、低くかすんだ声が聞こえた。

「あ、あの、あたし、クラブ若名わかなで働いている萌未めぐみといいます。さくらちゃんにこの番号を聞いてかけさせてもらったんですが…」

 しばらくの沈黙の後、

『何でしょうか?』

 と、またテンション低目で返される。

「急にお電話さしあげてすみません。実はあたし、今お店で困ったことになってまして…さくらちゃんに相談したら、以前若名で働いておられた紀香さんがすごく親切にしてくれたっていうお話を聞き、ぶしつけながらぜひあたしも紀香さんにお話を聞いてもらいたいと思ってお電話してしまいました」

 予めシミュレートしていた切り口で話し出す。

『申し訳ないんですが、私にはもう関係ありませんので…』

 が、にべもなく電話を切られそうになる。

「あ、ちょっと待って下さい!単刀直入に言いますね。あたし、香里奈かりなについてお話を聞きたいんです。噂で、紀香さんは香里奈に何か、悪いことをされたみたいな話を聞いたんで…。あの、ご迷惑はおかけしません。一度会ってお話を聞かせていただけないでしょうか?」

 一応、予め用意していた言葉は言い切った。さて、どうなる?


 フッ


 電話口に鼻で笑ったような息がかかる。

『会いたいって、ここは大阪とは違うわよ?今はちょっと離れたとこにいるの』
「あ、そうなんですね…あの、どちらにいらっしゃいます?差し支えなければ、あたし、どこでも行かせていただきます」
『滋賀よ』

 滋賀…
 外国と言われたらパスポートやら何やら用意するのに面倒だけど、日本国内、それも同じ近畿なら全く問題はない。

「行きます!近くまで行かせていただきます。なので、お話聞かせて下さい!」





 その週の土曜日、あたしはJR湖西線に乗っていた。ゴミゴミした大阪の街並みから次第に標高の低い建物が多くなっていく車窓を眺めながら、これが志保姉しほねえと行く旅行ならよかったな、と、感傷に浸っていた。

 指定された温泉街の駅から電話し、近くの喫茶店で紀香さんと落ち合った。喫茶店では紀香さんは先に来てコーヒーを飲んでいて、あたしは挨拶して向かいに座った。

 ストレートの髪先には艶やかさがなく、化粧っ気のないツルンとした顔立ちにはどことなく物憂げな倦怠感が漂っている、紀香さんの印象はそんな感じだった。

「さくら、元気にしてる?」

 電話口で聞いたのと同じかすれた低い声で紀香さんはまずそう聞いた。

「はい…あたしたち、お友達になったんです。慣れないクラブのお仕事の合間に時々飲みに行ったりするんですよ」
「そう。今更若名の人間に会うなんてめんどくさかったんやけどね、あなたがさくらの名前を口にしたからちょっと会ってみようかなって思ったの。あの子、クラブのホステスらしくないでしょ?私がいなくなってからちゃんとやってるか心配やったから…」

 今日あっさり会ってもらえて何でかな?ってちょっと思ってたけど、そういうことなのね。
 さくら、ありがとう。

「でもね、あの子には何て言うか…他の子には無い癒やしの空気感があるのよ。人気者にはなれないやろけど、あの子のそんな空気感に癒やされる社長さんはきっとそれなりにいると思うの」
「紀香さんがそう言ってたって伝えますね。きっとさくらちゃん、喜びますよ」
「あ、でもね、私がここにいること、出来たら言わないで欲しいかな。落ちぶれたみたいで、嫌じゃない?」
「あの…何で若名を辞めてこっちに来られたんですか?さくらちゃんもすごく寂しがってましたよ」

 落ちぶれた、という言葉を受けてあたしがそう切り出すと、紀香さんは煙草に火を点けてゆっくりと物憂げに一吸いした。灰皿にはすでに吸い殻が一つあった。吸う?と差し出されたので、いただきます、とあたしも一本もらって吸った。あたしが吸っているのよりきつい銘柄だった。

「もうしんどくなったのよね…クラブの仕事が。この温泉街で私がどんな仕事してるか、察しがつくでしょう?」

 ここは雄琴おごと温泉…
 有名なソープランド街であることはあたしも何となく知っていた。

「最初はね、あなたが聞きたがっているように、香里奈にはめめられたって私も思ったわ」

 それから、紀香さんはなぜ高級クラブのホステスから今に至ったか、ゆっくりと語ってくれた。

 要約すると…

 クラブ若名で香里奈からアプローチされ、いつしか一緒に飲み歩くようになった。そして、香里奈の知り合いが働いているというミナミのホストクラブに連れて行かれ、そこのキャストにハマった。何度か通っているうちに法外な飲み代を要求され、払いきれなくなりこの雄琴温泉のソープを紹介されて働くようになった…

 そういうことらしい。
 それはまさにあたしが聞きたかった内容だった。

「やっすいVシネマにあるような、陳腐な話よねぇ…」

 紀香さんは吐き捨てるようにそう言うと、苦虫を噛み潰したような顔でコーヒーを一飲みし、また煙草をふかした。俯いたときに見える泣きボクロが、疲れ気味の顔立ちを一層幸薄そうに感じさせた。

「それ、オーナーママに言ってくれませんか?そんなこと、許されることやないと思うんです」

 フッ

 紀香さんは自嘲気味に笑う。

「無駄よ。あなたが思っているより、これに絡んでる組織は大きいのよ。それにね、さっきも言ったように私、クラブの仕事はもうしんどいの。ここで今流れに身を任せているのも案外心地いいのよ。ここではね、お客に一生懸命営業かけたりしなくていいの。お酒も飲まなくていいし、嫌なアフターにも行かなくていいし、ね。私、もうそういう世界に疲れたのよ」 

 そう言う紀香さんにまだ入店一ヶ月のあたしが何を言っても説得力は無いだろう。何も言えずに俯いたあたしに、紀香さんは言った。

「あなたも、そんな危ない人たちとは関わらずに、無難に過ごしなさい。若いうちはチヤホヤされるだけで楽しめるんやから」

 若いうち…

 そういう紀香さんはどれくらいクラブの世界に身を染めていたのだろう?疲れて老けて見えるが、肌の質感からまだ20代後半くらいにも見える。

 そうえいば、志保姉とも一緒に働いたのだろうか?

「あの、詩音しおんって人、知ってます?」
「あらっ」

 紀香さんはそう聞いたあたしを眉を上げてじっと見つめ、

「詩音ちゃんもたぶん香里奈の餌食になった一人ね。何でその名前知ってるん?」

 と言った。


 あたしの目は鋭くなった。


「どういう…ことですか?」
「詳しくは知らんけどね、詩音ちゃん、綺羅ママと口座のことで揉めてたみたいね。亡くなったって聞いたけど、店ではもっぱら自殺したって噂されてたわね。それも香里奈にはめめられた結果やって。その当時の私はまだ香里奈とそんなに親しくなかったから気に止めてへんかったけど、今にして思えばそれも充分にあり得ることやわよね。あの狡猾こうかつな香里奈の手口に引っかかったんならね」


 まさか…………!?


 まさか……まさか!!


 志保姉は香里奈…もしくは綺羅ママに殺された?


 だが、果たして宮本みやもとの口座の一つでそこまでするだろうか…?



 先日宮本を送り出した際、目を釣り上げて怒る綺羅ママの姿が思い浮かぶ。



 北新地で働き初めて一ヶ月、あたしはこの特殊な不夜街に、異世界に来たような異邦感を感じている。この街で生きる女に取って、口座一つがどれだけ重要な意味を持つか、それもひしひしと感じていた。



 ふと、あたしの頭に志保姉の部屋に睡眠薬入りワインを携えてやって来た香里奈の姿が浮かんだ。

 志保姉はホストになんか嵌まらない。だけど、人のいい志保姉のことだ、あの狡猾な香里奈が善人面して訪ねて来たら、無下に追い返すなんてことはしないだろう……


(詩音もね、きっと…)


 なっちゃんがそう言いかけたのを思い出した。


 あたしの心の奥底で、怒りの導火線が着火するのを感じた。





 紀香さんと別れ、喫茶店を出ると、あたしはすぐに帰る気になれずにしばらく辺りを散策した。少し歩くと琵琶湖が広がっていて、その湖岸に沿ってしばらく歩いた。湖というよりは見た目には完全に海だった。ただ、波の立つのが小さくて、だだっ広い緑色の水溜りにも見えた。


 その緑泥色の湖面を見ていると、深い悲しみに囚われそうになる。

 敵討ちをすべき相手は宮本ではなくて香里奈や綺羅ママなのだろうか…?

 死ぬ前に志保姉はよく荒れていた。

 あれは宮本との痴情というよりも、店で何かトラブルに巻き込まれたと見る方がしっくりくる気もする。

 どちらにせよ、今あたしの行く手が遮られているのは確かなことで、二人を倒さなければ前に進めない。

 クラブ若名のナンバー1の売り上げの綺羅ママとナンバー1ヘルプの香里奈…

 相手として不足は無い。

 あたしは水面でゆらゆらといびつな笑みを浮かべている香里奈と綺羅ママに石を投げた。石はその邪鬼たちの上で二、三度跳ね、波紋で醜顔を打ち消しながら暗濁の中に沈んでいく。

 あたしはただの報復者ではない。

 例え刺し違えてでも、姉のかたきを討つと誓っているのだ。

 失うものの無い者の怖さを思い知るがいい。

 あたしは、復讐の鬼なのだ───






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