【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第2部 萌未の手記

敵の罠

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 7月も後半に入った営業中、玄関にお客さんが訪ねて来たというので出迎えにクローク前に行ってみると、そこには痩せてボサボサ頭の一人の男性がいた。

「この方が新規で萌未めぐみさん指名で来られたんです。お通しして大丈夫ですか?」

 黒田くろだ店長が普段あたしに対する口調とは違った営業用の慇懃さで言った。

 若名わかなは会員制なので、一見いちげんで客が来ることは滅多にないが、もし来たらクロークで口座となる女性に伺うようになっていた。

「いきなり来てすみません。里見さとみと言います。沙紀さきが以前働いていたお店がこちらだと聞いていましたので…」

 男はそうか細い声で鳥の巣頭をかきながら名乗った。沙紀が入院していた頃に担当していた医者だと補足した。

 ということは沙紀の婚約者ということだ。

 あたしは黒田店長に大丈夫と言い、一人用の席に通してもらった。

「びっくりしました。今日はどうしたんですか?」
「いや、沙紀からあなたの話はよく聞いていまして…それで今日は来させていただきました」

 里見の顔色は悪く、見るからに遊びに来たという感じではなかった。

「あの…何を飲まれますか?」
「はあ…私、こういうところに馴れなくて…ビール、とかでも構わないですか?」
「大丈夫ですよ。お好きな銘柄はあります?」
「何でも…ある物で構いません」

 ウエイターにビールを持ってきてもらい、あたしも注いでもらって乾杯した。

「あの…何かお困りごとですか?」
「察していただいて助かります。実は…ここ数日沙紀と連絡が取れないんです」
「え…沙紀と?」
「はい。家に行ってもいないようですし、実家のお母さんも分からないみたいで…それに、事務をしてる会社も無断で欠勤してるようなんです」
「え、会社も無断で…?」

 沙紀はそういうことをするような子ではない。里見が案じている通り、何か良からぬことが沙紀の身に起こっているのは間違いなさそうに思えた。

「それで、もしかしたら萌未さんは何か沙紀がいなくなる心当たりがないかと思いまして、こちらに来させていただいたんです」
「そうですか…でもあたしも何も分かりません。すみません…」

 言いながら、あのUBSメモリーの映像が脳内再生される。

 ひょっとして、あのことに絡んでいる……?

 血の気が引いていくあたしの顔を、里見先生が蒼白の顔で覗き込む。

「あの…もしよろしければ、お店が終わってから話せませんか?」
「はい、大丈夫です。もしかしたらあたし、心当たりがあるかもしれません。終わってからお話しましょう」
「ありがとうございます。では、この番号にかけて下さい。私、外で待ってますので」

 里見は自分の番号を書いた紙を渡した。そしてお会計をしてくれと言うので、今日はお代は結構ですと言ったが、お近づきにどうしても払うと言う。仕方がないのでセット代だけ頂いた。それでも5万もしてしまったが、里見先生は驚きもせず払ってくれた。




 店が終わり、里見先生に電話をかけたのは夜中の1時過ぎだった。それまでに何度か沙紀に電話を入れたが、ずっと直留守だった。不安が一層高まっていた。

 先生は車の中で待っていて、自分の行きつけの店で話したいと言うので車に乗った。車は御堂筋を走り、心斎橋付近で左に折れて堺筋へと出た。そして、見覚えのあるビルの前で止まった。

 里見は誰かに電話をかけ、

「連れて来たで」

 と慇懃な口調から一転横柄な物言いをし、後部座席のあたしの方に振り向いてニヤッと笑った。

「久しぶり」

 そう言って鳥の巣のようなカツラを外す。

 あたしはその顔をようく見た。

「…………だれ?」
「いや覚えとらんのかい!」

 気がつくと車の周りを数人の男たちが取り囲んでいる。その中には知った顔があった。

「よう萌未さん、お久しぶりっす」

 後部のドアを開けて顔をのぞかせたのは、以前香里奈かりなに連れられて来た店のホスト、ハルトだった。そう、このビルはレガシーの入っているビルだったのだ。そして里見と名乗った男はあの時にいたホストの一人だったようだ。あたしはハルトの顔しか覚えていなかったが…



 あたしは男たちに取り囲まれたままレガシーまで連れて行かれた。鼻を突くニコチンとアルコールの臭いと趣味の悪い赤黒いソファはあの時のままだ。その趣味の悪いソファの一つに座らされ、男たちはあたしを囲んで座った。

「沙紀は?どこにいるの?」

 ハルトはにんまりと鈍い目を光らせる。



 ん…んん!



 店の奥から女のうめき声が聞こえ、そちらを見るとカウンターの片隅に両手両足を縛られて、厚めの布で猿ぐつわをされた沙紀の姿があった。

「沙紀!」

 駆け寄ろうとすると、太い腕でソファの背に押し付けられる。

「何で!?あたしに用があるなら、あたしを直接拉致ったらいいやない!」
「それはな…」

 カウンターの方から低い声がした。カウンターに腰掛けた男がゆっくりと回転椅子を回してこちらを向く。

「あんたは性根が座ってるって聞いたからな、あんたを直接痛めつけても簡単に口を割らんやろ。でもな、お友達が痛めつけてられたらどうかな、思てな」

 角張った顔にひしゃげた三角の目をした男は貧相な笑みを漏らしながらあたしを見据えた。

「紹介したるわ。俺らのオーナーの星本ほしもとさんや」

 ハルトが掌をカウンターの男に向ける。

 この男が…綺羅ママの彼氏だったという男…。

「さて、もう察してるやろ。USBを渡してもらおか。どこにあるんや?」

 グレーのスーツを着た星本が横幅の広いガタイを揺らしてカウンターからあたしに近づき、凄んだ顔で睨みつける。あたしはその顔に唾を吐きかけた。

「おい!星本さんに何するんや!」
「まあええやないか。こんくらい威勢のいい方が落とし甲斐があるっちゅうもんや」

 角張った頬まで口角をニタッと上げ、舌なめずりしてかかった唾を舐める仕草に、激しい嫌悪感で全身の毛が逆立った。

「あんたなんかどうせ下っ端なんでしょ?あたしに何かしたらただですまさないから!」
「ほう、どないするっちゅうんや?この前は虎舞羅こぶら神崎かんざきが助けに来たらしいけど、今日は当てにでけへんで」

 そうだ、トラに前回は助けてもらったが、今は喧嘩中だ。というか、今回は全く何も仕込んでいない。

 絶体絶命だ……


「こいつ、廻してしまいますか?」

 ハルトが星本に聞くと、星本はクククとくぐもった笑いで二重顎を震わす。

「まあ待て。こういうタマは廻しても口を割らん。それよりあっちを先にやるんや。こいつの目の前でな」

 その言葉に戦慄が走る。あたしはここまでか、と項垂れ、

「分かった、今出すから、手を離して」

 と力なく言った。あたしを押さえつけていた男の手が離れ、あたしは後ろ髪を解く。髪留めに括って髪の中に隠していたUBSメモリーが現れる。

「おお!そんなことに…それはなかなか見つかれへんなあ」

 ハルトが感嘆の声を上げ、あたしからメモリーを奪い取って星本に渡す。

「もうこれで用はないでしょ?解放して!」

 あたしは声を張ったが、男たちは緩み切った顔で立ち上がり、あたしと沙紀の周りを取り巻く。

「約束が違うやない!」
「はあ?約束なんてした覚えないなあ。お前には前の借りがあるからな。ゆっくり落とし前つけさせてもらう。そんでその後は、仲良くソープの海に沈んでもらおか」


 ああ………

 あたしは心の中で絶句した。あたしだけならまだしも、沙紀を巻き込んでしまった……そのことが悔やんでも悔やみきれなかった。

 覆い被さってきた男たちの姿が、涙でぼやけてくる。


 と、そこへ───!



 ダンダン、と大きな音が響いたと思うと、入り口の開き扉がバタンと開く。


 ──トラ!?


 喜色に滲ませて顔を起こし、ドタバタと入ってきた面々の顔を見渡すがトラの姿はない。

 トラはいなかったが………




「お?泣いてるんか?お前もしおらしいとこあるねんなあ」

 さっきまでの緊張感からかけ離れた間の抜けた言葉を投げてきたのは、隆二りゅうじだった。あたしは隆二に取り縋る。

「あたしはいいの!沙紀を!沙紀を助けて!」
「心配せんでいい。二人とも助けたるがな」

 隆二の他にも色とりどりのスーツ姿の男たちが七、八人いて、すでに沙紀はそのうちの一人に抱えられてドアを抜けようとしていた。あたしも隆二に抱えられ、沙紀の後ろに続く。

「何やお前ら!」

 レガシーに元々いた男たちのそんな怒号が響く中、ドアを潜った背後から、数発の発砲音が響いていた。




 ともあれ、あたしたちは隆二たちに助けられた。ビルを出るとすぐ近くに止まっていた黒塗りのワゴン車に乗り、それぞれの家に送ってもらった。あたしを助け出した隆二はあたしが車に乗ると、お願いしますとだけ言ってまたビルの中へと引き返したので、なぜ彼らが乗り込んできたのかという詳しいことは聞けなかった。

 車の中で、あたしは沙紀を抱き締めた。

「ごめんね!沙紀、ごめんね……」

 あたしはただひたすら謝り、沙紀はそんなあたしに大丈夫だからとずっと言い続けてくれた。

 沙紀の家に先に寄ってもらい、到着するとあたしも一緒に降りた。運転していた男が何があっても今日のことは他言しないようにと釘を差し、自分たちのことは何も言わずにすんなりと引き返して行った。

 その日、あたしは沙紀のベッドで、沙紀と抱き合って寝た。酷い目に遭った沙紀が心配だったからだが、どちらかというと沙紀が震えるあたしを温かく包んでくれていた。


 ついに敵が姿を現し、友達を危険な目に遭わせてしまった──


 そのことが悔しく、また恐ろしかった。




 次の日、暴力団員組員とその末端組織の構成員が発砲により亡くなったことをニュースで知った。犯人は逃走し、未だ行方は分からない──と報道されていた。




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