【完結】北新地物語─まるで異世界のような不夜街で彼女が死んだわけ─

大杉巨樹

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第3部 他殺か心中か

クリスマスの心中事件

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 2003年12月25日

 柳沢やなぎさわ慎太郎しんたろうはこの日の未明、緊急通報を受けて大川おおかわの川縁に赴いた。現場はちょうど西天満にしてんま署の真南だった。署から歩いても十分くらいの距離の公園に沿った路頭を、近隣の交番から駆けつけた四台のパトカーが赤色灯を音もなく照らしていた。

 通報では一台の乗用車が川沿いの公園から大川へに突っ込んだという。かなり強引に突っ込んだようで、欄干が一部壊れて川面がすぐ横の川辺りから剥き出しになっていた。消防からも人員が要請され、今まさに河に潜った隊員がクレーン車に沈んだ車をフックにかけるところだった。




 柳沢は10月付けで西天満署の強行犯係へと配属された。念願の刑事になったのだ。彼は元々心斎橋の交番勤務で、担当地域では高級飲み街の客やホステスを狙ったひったくりが横行していて、何度か犯人を現行犯逮捕した実績が買われての抜擢だった。

 高校・大学と陸上部に所属していた柳沢は足に自信があり、細い路地の多い心斎橋で多発する原付きに乗りながらの引ったくりを、その俊足で何度も追い詰めた。そして二度、彼が直接現行犯逮捕し、それが評価されたのだ。

 警察の移動は4月と10月の年二回あり、彼は二か月前の10月付けの転属だった。階級も巡査から巡査長へと昇進していた。意気揚々と向かった先は強行犯係。配属先の係長は女性だった。

「本日付け配属の柳沢です!よろしくお願いします!」

 敬礼しながら声を張り上げる。

「あんた、足が速いんやってなあ?期待してるで!」

 長い黒髪を後ろに束ね、年の頃は三十代半ばといったところか、姫野ひめの係長は端正な笑顔を向けながら柳沢の肩をポンポンと叩いた。ああ、優しそうな上司でよかったな…それが彼の係長への第一印象だった。が、その印象はたった一週間で脆くも崩れ去った。女性だてらに、しかもノンキャリアで警部まで上がった彼女の気性は同じ男の階級と比較してもかなり荒く、柳沢はこの二か月、何度も彼女にどやされていた。正直、失敗を連発する柳沢にも非はあったが、肩をいからせて怒る姫野係長の言葉は旗から見ても思いの外強かった。

 とはいえ、そんなテレビドラマで観るような殺人事件が頻発するわけでもなく、刑事の仕事といったら書類、書類、書類……ウンザリするほどの書類作成の毎日だった。柳沢の配属された西天満署は主に高級飲み街で知られる北新地と、弁護士事務所などがひしめき合っている事務所街が主な活動場所だったが、心斎橋の時と同じく、北新地でのひったくりやら酒の上でのトラブル処理といった内容の仕事が主だった。

 仕事上もう一つ気を重くさせたのは週に二回は回ってくる当直だ。他部署だと大体週一でいいとろこを、やはり北新地を要しているからか、天満署の当直は回ってくる頻度が高い。特に若い柳沢は経験を積むためとか何とか言われて当直を回される回数が多く、週に三回回ってくることもザラにあった。彼が当直が嫌がるのは、まだ付き合って間もない彼女がいたからだ。もし彼女の存在が無ければ当直もそんなに苦ではなかったかもしれないが、刑事になると同時に交際を申し込み、晴れてカップルになった彼としてはもう少し彼女との時間を確保したかった。

 彼女は大学の後輩で、同じ陸上部だった。社会人になってからもちょくちょく飲みになどは行っていたが、刑事になった嬉しさと勢いで交際を申し込んだ。

「よろしくね、刑事さん!」

 総合商社の一般事務に就いていた彼女はあっさり柳沢の申し出を受けてくれた。ショートボブで童顔の彼女は年よりも五つは若く見られ、柳沢としては頼り甲斐のある兄貴的な存在になることを目指していたのだけれど、実際は彼女の方が何かとテキパキしていて、彼がリードされることの方が多かった。彼女は彼氏の仕事を思いやってくれ、毎週末に会えなくなることをなじったりなどしなかったが、柳沢としてはそんな彼女が愛おしく、出来るだけ一緒にいる時間を確保したかった。




 なので、付き合ってから初めて迎えるクリスマス・イブを何とか二人だけで過ごしたかったのだが、この日にも容赦なく当直が回ってきたのにはがっくと肩を落とした。

「あんた、クリスマスやからって浮かれてへんやろなあ?これからどんどん経験を積んでいかなあかんのやから、よろしく頼むで!」

 この頃にはもう姫野係長の前に出ると萎縮するようになっていて、係長にそう言われれば断ることも出来なかった。そんな意気消沈した柳沢に、いつも同情的なのは強行犯係の丸山まるやま主任だった。彼は齢60は過ぎていて、階級は警部補、いつも温厚で、常にピリピリしている姫野係長とは対照的だ。係長に叱られている時、ヒートアップする係長をいつもなだめてくれるのが主任だった。

「ヒメに目をつけられるのはええことや。彼女はな、箸にも棒にもかからんやつには冷たいからなあ」

 丸山主任はそう言っていつも柳沢の気持ちを和らげてくれる。彼は丸さん、と親しみを込めて周りの捜査員から呼ばれていて、柳沢もいつしか彼のことをそう呼んでいた。

 とはいえ、やはり大切なイブなのだ。特に自分たちみたいな出来立てホヤホヤのカップルに取っては一大イベントなのだ。柳沢はこの日の当直で特に大きな事件は起こらないようにと願いつつ、当直明けには彼女の元へ飛んで行って残りのクリスマスを楽しく過ごすことばかり考えていた。

 当直にはいつも強行犯係から三名、そして大部屋では強行犯係の隣に位置する暴力犯係から三名の計六名が一つの班になり、夕方5時から明け方6時頃にかけて署で待機することになる。他部署での゙当直の仕事といえば独居老人の孤独死の処理なんかが多いみたいだが、管轄のほとんどがビジネス街である西天満署ではやはり北新地でのトラブルが多い。何も無ければそれぞれ仮眠を取る。何とか、ひったくりくらいの事案で一晩持ちこたえてくれ、柳沢はそんな願いを胸に秘めつつ、大部屋の事務机に突っ伏して待機していた。




 だから、西天満署の南に面する大川で車両が入水したという一報を受けた時には思わず舌打ちしてしまった。現場にはこの日の強行犯係の当直、柳沢と丸山、それに姫野係長が向かった。何だかんだ言って、姫野係長もこの日の当直に加わっていたのは意外だった。柳沢はいつものように検査キットの入ったジュラルミンケースを抱え、真っ先に捜査車両へと向かった。




「寒いやろなあ。はよ引き上げてやらんと」

 姫野係長がコートの両腕を擦りながら、川面を見ながらそんなことを言う。これが事件なのか事故なのかでこの後の対応が大きく違ってくる。また、人の生死によってもこの後の関わり具合が大きく変わる。柳沢はこれが事故であり、そして乗っていた人間が全員無事帰還することを願っていた。もちろんそこには人道的な意味合いもあるが、そう願うことに個人的な思惑の方が大きいなどとは口が避けても言えない。

 柳沢が顔の前で手を組み合わせて祈りのポーズをしていると、それに目を走らせた丸山が白い息を吐きながら言う。

「いや、もう時間的に助からんでしょう。上がったらもうご遺体ですよ」

 三人は寒さに身体を小刻みに震わせながら、消防隊員の作業を見守った。やがて、沈んでいた車両が公園に引き上げられるのを見ると、姫野係長が上がってきた車体の置かれた広場の方へと歩き出す。丸山主任が続き、柳沢も寒さに固まっていた足を何とか前に向けた。

「ご苦労様です。西天満署の姫野です」

 係長が現場の警察官や消防隊員に警察手帳を掲げながら挨拶する。

「取り敢えず車はそのまま、中を確保しておいて下さい。警察官は車をシートで覆って!さ、各々作業に取り掛かって!」

 係長がテキパキと指示を与え、車が青いビニールシートで覆われていく中、刑事三人は現場検証をしに車中を見渡す。ドアには鍵がかかっておらず、開けると運転席に男、助手席に女の姿が確認された。男の方はシートベルトをはめているが、女の方はベルトをはめていない。男はシートベルトのせいか顔を上げてその口から鼻の穴から河の水をダラダラと流している。女の方は黒髪が長く、男の方に寄り添うように突っ伏していて髪が男の首に、ハンドルにとあちこちにまとわりついていた。二人の蒼白は顔を見て絶望的な気分になったのは、彼女とのデートが霧散したからではなく、純粋に人の死に立ち会ったことへの畏怖だった。



 柳沢は手慣れた感じで作業に入る二人の後ろに立ち、思わず顔を背ける。姫野係長はそんなことはお構いなしに車の中に身体を潜り込ませ、それぞれの遺体を検分していた。

「二人とも外傷は無いなあ」

 姫野係長がそう呟き、ひとまずこちらに顔を向ける。

「てことは、心中ですかね?」

 丸山が言うと、眉毛を寄せて渋い顔をする。

「いや、それはまだ分からんな。車の鍵が開いてたから、事故でないのは間違いないな。ただ、外部からでも河に突っ込ませることは出来る状況やから心中と判断するのは早いな。それにな、どうも男の方と女の方とでは死亡時刻に開きがある感じがする」
「てことは、無理心中…とか?」
「う~ん、それもまだ何とも言えん。取り敢えず詳しく検死をせんことにはな。丸さん、検視官はまだ到着せんの?」
「はあ、もう間もなく来られると思いますが…」

 そこで係長は深いため息をつく。

「全く、お偉いさんは呑気でええわ」

 そして柳沢に向き、

「あんた!何を顔背けてんねんな!これから忙しなるでぇ、シャキッとせえ!」

 と、喝を入れた。




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