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召喚の種明かしと後の話
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「というわけで、おしまい」
ちゃんちゃん、とでも言い出しそうな軽快さで、ケンシローは話を終わらせた。
その内容の重さとあまりに相違のある気軽さに、ロッテは真顔で受け止めるしかなかった。
こんな時、どんな顔すればいいのか分からないの。
笑えばいいよ、なんて返すケンシローは自称する通りに人でなしなのかもしれない。
「ウチがどうしてケンシローさんを召喚したのかというと、理由が二つあります」
長すぎる沈黙を乗りこえて、ロッテがようやく口を開いた。
「ウチのひいおばあちゃんは、陽翔国の出身なのです」
「へえ」
外つ国の少女から告げられた突然の共通点にらケンシローが目を丸くする。
「ひいおばあちゃんは代々近国に住んでいたそうです。
ご存知だと思いますが、近国は野春島より更に南東に位置する場所にあります」
ん? と更に近くなったケンシローは嫌な予感がしていた。
「ひいおばあちゃんはその更にひいおばあちゃんから、とある話を聞いたことがあるそうです。
ある年の夏、川の魚が急に死に絶え、田んぼに引く水が全く使えなくなったと」
おっとそれは私のせいの奴。
じわじわと追い詰められていくような感覚に、さては復讐のためかとケンシローの手がぐっと握られる。
「謝らないよ、私は。
後悔してないことは謝らない。
ただ、その恨み言を受け止める義務はあると思うので、」
「最後まで聞いてください、ケンシローさん。
もう一つ聞いた話があります。
ひいおばあちゃんのひいおばあちゃんは、それより前の子供の頃、流行り病にかかったそうです。
身体が動かなくなって熱に浮かされて、もう駄目だと思ったその時に、通りかかった獣耳の薬師が薬をくれて治してくれた、と。
『大丈夫、元気になる』と撫でながら言ってくれた言葉がなにより嬉しかったと、そう聞いています」
直前とは真逆の方向の話に、握った拳の行きどころが分からずケンシローはぱちくりと目を瞬かせる。
「ウチは、ケンシローさんはやっぱり人でなしだと思います。
これまで聞いた話の中で、患者さんのことはほとんど出てこなかった。
熊様のことしか考えてなくて、至国や他の人達のことはおまけ程度だったのかも」
「……」
「でも、ウチのご先祖様を助けてくれたことは事実です。
川を汚して苦しめたことも事実です。
対価を叶えられそうもないこんな小娘の申し出を真剣に聞いて、自分の最期まで真面目に話してくれたことも、事実です。
それらは混ぜて考えちゃいけないことだと思うのです」
ロッテは手をつき、座布団の上に二本足で立つ。
両手をへその辺りで重ねると、それは丁寧なお辞儀をした。
「ケンシローさん、ご先祖様を助けてくださってありがとうございました。
きっと貴方がいなければウチは生まれてこれなかった。
貴方は獣ではない、立派な薬師だと、ウチの存在が証明しています」
背筋を伸ばすと、今度はちゃぶ台に置かれた手をとる。
指の先をつまんで、引っ張り出す。
力の抜けた手から、黒い手袋がするりと脱げていった。
突然の暴挙に、ケンシローは止める暇がなかった。
薬の調合で荒れた皮膚と、ふしくれだった関節。
そして散々語られた、毒と化した身体の話。
それら一切に怯むことなく、ロッテはケンシローの手をしっかりと握った。
「ケンシローさん、ウチのお願いを聞いて話をしてくれてありがとうございました。
ずっと貴方の話を聞きたかった、その願いがようやく叶いました。
貴方は人の心がちょっぴりわからない人でなしだけれど、主を想って行動のできる優しい方です。
生涯の話を聞いたウチが太鼓判を押します」
ちゃぶ台の上、菓子の盛られた皿と湯呑み。
それらを挟んで、長い時を超えた握手は果たされた。
それっきり、続く言葉のなくなった沈黙に、声の出なかったケンシローが問いかける。
「恨み言は、どうしたの」
「それが、あまりそういう罵詈雑言に慣れていなくて。
整ったらお伝えしますね」
「……私の身体に直接触れたら危ないとか、考えなかったの」
「召喚された貴方の身体はトコヨに存在した魂と、ウチとアントニアちゃんが組み上げた魔法によって受肉されています。
生前の情報は多少混ざっているでしょうが、『その身が毒であった』という情報を術者が召喚陣に組み込まなかった以上、触れた者に危害を加えるほどの毒性はないと判断しました」
「めちゃくちゃ喋るじゃん。
これまでで一番早口だよ、ロッテちゃん」
「専門分野なもので」
ぶおんぶおんと空を切って振り回され続ける握手。
ふへ、と、息が漏れる。
間の抜けた音は、確かに笑い声でもあった。
ただ。
はた、とケンシローは疑問に思う。
「私の人となりが知りたいだけだったんなら、どうして最初に『コイバナがしたい』なんて言い出したの?」
ピタリ。
部屋の空気が張りつめる。
それの雰囲気は奇しくも、ケンシローが召喚された当初と同じだった。
違う点といえば、かわいらしい顔立ちであったロッテの唇がぎゅむりとひきつって、にらめっこでもしているような形相になっていたことだろうか。
「…………。
ケンシローさんに黙っていたことがあるのです」
「なに、やだこわい」
先ほどよりも更に長い沈黙を破り、ロッテは真実を告げる。
「実はこの召喚のための魔法陣、ケンシローさんの前に一度使われているのです」
「え」
「その呼び出した方が対価として望んだのが、『ケンシロー・ヒヤマと会うこと』だったのです」
元々はアントニアちゃんがレポートのためと、その方を呼び出したのですけれどね。
ケンシローさんならウチも話を聞いてみたいと、今度はアントニアちゃんではなく、ウチが術者となってケンシローさんを呼び出した次第です、はい。
つらつらと補足を重ねていくロッテを尻目に、ケンシローは大きく見開いた。
自分との邂逅を望む者。
既に同じ方法で召喚された、過去を生きた人物。
冥界のトコヨでも会うことのできなかった、否、ケンシローがずっと会う資格がないと思っていたお方。
まさか、と信じられない面持ちでケンシローは唇を震わせる。
「三元先生……?!」
「そんなわけあるかぁーーーー!!!」
どばーーーーん!
全力のツッコミが、開け放たれた扉の向こうから飛んできた。
「そんなわけある!
教えを乞うたくせに道を踏み外したのが気まずすぎてまだ先生に会えてないし!
そうかもしれないって思ってもいいじゃない!」
「仮にそこまでの条件が合致してたとしてもコイバナを切り出す理由にはなってないでしょうが!
恩師とキャッキャウフフなんてあたしだったら死んでもやだわ!」
勢いに乗せられつい会話してしまったが、ケンシローははたと我に返る。
初対面で口喧嘩のようなテンションになってしまった、扉の向こうで頭を抱える褐色肌の少女。
おそらく、彼女がアントニアなのだろうと推察できた。
そして、その更に向こう。
少女の華奢な体躯では到底隠しきれない、高い身長。
扉の枠をゆうに超えるであろう、そびえ立つ二本角。
着物の上からでも分かる、筋骨隆々な体つき。
茶筅髷はきちりと結われ、案外と几帳面な性格が現れていた。
「あ」
切れ長の目つきに、つり上がった眉。
鋭すぎて怖いと妹君に泣かれていた。
ぐっと噛みしめられた口。
歯に悪影響ですからお止めくださいとなんど止めても、結局ケンシローが最後に会うまでに改善はされなかった。
鬼松 千熊その人が、存在していた。
「久しいな、馬鹿犬」
投げかけられた言葉には怒りが見え隠れする。
隣室でこっそりと聞いていた語りに思うところがあるらしい。
一方でケンシローの反応は、あまり思わしくなかった。
熊様の方を凝視こそしているものの、普通の表情と出で立ちだ。
耳や尻尾をぼわ! と膨らませるなどするかと思ったと、ロッテは若干期待はずれである。
「ねえ、ロッテちゃん」
「はい」
期待はずれではなかった。
声は上ずり、震えていた。
名指しで声を掛けたにも関わらず、視線は一瞬たりとも合わない。
それでもロッテは失礼なと怒ることもなく、答えた。
「さっき言ってた対価の話、変えてもいい?」
「いいですよ」
契約した術者の許可を得て、ケンシローは立ち上がる。
ちゃぶ台の足に引っ掛かり、滑った膝がラグに強かに打ち付けられる。
痛みも不格好さも全て無視して、ついには四つん這いにも似た姿勢で前へ進む。
脚絆も草履も置いていった。
ラグの外に出て、リノリウムの床に膝をついて、ケンシローは赦しを乞うように手を伸ばす。
己の手よりも大きなそれを、ほんの指先だけ、手袋を外した指でちょんと触る。
「……触れた」
本当はあった。
叶えたい願い。
だけど死んでしまった己の立場が、最期の自分の状態が、なにより主を失望させたであろう不甲斐なさがそれを許さなかった。
「熊様、お体に異変はございませんか」
「ない」
「私との接触でご気分は悪くなってはいませんか」
「ない」
短く簡潔な答えが、何度も叶えた瞬間を想像しては恐ろしくなった最悪の事態を否定する。
今は許したか。
そんなわけない。
ただ、本能に抗えなかった。
理性が負けた。
「ごべんなざい」
主君のためにあろうともがき続けて、結局己の欲を優先させた獣は、とうとう目から涙をこぼす。
「ずみまぜん、ひどい言葉言っちゃってごめんなさいとか、勝手に死んで申し訳ないとか、言わなきゃいけないことはたくさんあるはずなのに、
貴方を傷つける可能性があるならやるべきじゃないってわかっでるのに、
そ゛れ゛でも゛」
「欲のない犬め。
触れて欲しいのは指だけでいいのか?」
「な゛でてぐだざい!」
「ははは、不細工な面しおって!」
ボロボロと涙どころか鼻水を滴らせるケンシローの体液で手を汚しながら、熊様は大きな獣耳の間をわっしゃわっしゃとかき回す。
気の遠くなるような時を超え、遥か千里を超えた外つ国のとある一部屋で。
すれ違い続けた主と家来は、ようやく再会を果たしたのだった。
「……ところで、馬鹿犬。
貴様、おれが堅志郎のことを好いていたら好きだと思った場面を暴露すると言っていたな?」
「んえっ」
「あっ」
「あちゃー」
心底愉快そうに笑う熊様の顔に、悪いものが混じる。
爆速で回収されたフラグがどうなったのかは、また別のお話。
《おわり》
ちゃんちゃん、とでも言い出しそうな軽快さで、ケンシローは話を終わらせた。
その内容の重さとあまりに相違のある気軽さに、ロッテは真顔で受け止めるしかなかった。
こんな時、どんな顔すればいいのか分からないの。
笑えばいいよ、なんて返すケンシローは自称する通りに人でなしなのかもしれない。
「ウチがどうしてケンシローさんを召喚したのかというと、理由が二つあります」
長すぎる沈黙を乗りこえて、ロッテがようやく口を開いた。
「ウチのひいおばあちゃんは、陽翔国の出身なのです」
「へえ」
外つ国の少女から告げられた突然の共通点にらケンシローが目を丸くする。
「ひいおばあちゃんは代々近国に住んでいたそうです。
ご存知だと思いますが、近国は野春島より更に南東に位置する場所にあります」
ん? と更に近くなったケンシローは嫌な予感がしていた。
「ひいおばあちゃんはその更にひいおばあちゃんから、とある話を聞いたことがあるそうです。
ある年の夏、川の魚が急に死に絶え、田んぼに引く水が全く使えなくなったと」
おっとそれは私のせいの奴。
じわじわと追い詰められていくような感覚に、さては復讐のためかとケンシローの手がぐっと握られる。
「謝らないよ、私は。
後悔してないことは謝らない。
ただ、その恨み言を受け止める義務はあると思うので、」
「最後まで聞いてください、ケンシローさん。
もう一つ聞いた話があります。
ひいおばあちゃんのひいおばあちゃんは、それより前の子供の頃、流行り病にかかったそうです。
身体が動かなくなって熱に浮かされて、もう駄目だと思ったその時に、通りかかった獣耳の薬師が薬をくれて治してくれた、と。
『大丈夫、元気になる』と撫でながら言ってくれた言葉がなにより嬉しかったと、そう聞いています」
直前とは真逆の方向の話に、握った拳の行きどころが分からずケンシローはぱちくりと目を瞬かせる。
「ウチは、ケンシローさんはやっぱり人でなしだと思います。
これまで聞いた話の中で、患者さんのことはほとんど出てこなかった。
熊様のことしか考えてなくて、至国や他の人達のことはおまけ程度だったのかも」
「……」
「でも、ウチのご先祖様を助けてくれたことは事実です。
川を汚して苦しめたことも事実です。
対価を叶えられそうもないこんな小娘の申し出を真剣に聞いて、自分の最期まで真面目に話してくれたことも、事実です。
それらは混ぜて考えちゃいけないことだと思うのです」
ロッテは手をつき、座布団の上に二本足で立つ。
両手をへその辺りで重ねると、それは丁寧なお辞儀をした。
「ケンシローさん、ご先祖様を助けてくださってありがとうございました。
きっと貴方がいなければウチは生まれてこれなかった。
貴方は獣ではない、立派な薬師だと、ウチの存在が証明しています」
背筋を伸ばすと、今度はちゃぶ台に置かれた手をとる。
指の先をつまんで、引っ張り出す。
力の抜けた手から、黒い手袋がするりと脱げていった。
突然の暴挙に、ケンシローは止める暇がなかった。
薬の調合で荒れた皮膚と、ふしくれだった関節。
そして散々語られた、毒と化した身体の話。
それら一切に怯むことなく、ロッテはケンシローの手をしっかりと握った。
「ケンシローさん、ウチのお願いを聞いて話をしてくれてありがとうございました。
ずっと貴方の話を聞きたかった、その願いがようやく叶いました。
貴方は人の心がちょっぴりわからない人でなしだけれど、主を想って行動のできる優しい方です。
生涯の話を聞いたウチが太鼓判を押します」
ちゃぶ台の上、菓子の盛られた皿と湯呑み。
それらを挟んで、長い時を超えた握手は果たされた。
それっきり、続く言葉のなくなった沈黙に、声の出なかったケンシローが問いかける。
「恨み言は、どうしたの」
「それが、あまりそういう罵詈雑言に慣れていなくて。
整ったらお伝えしますね」
「……私の身体に直接触れたら危ないとか、考えなかったの」
「召喚された貴方の身体はトコヨに存在した魂と、ウチとアントニアちゃんが組み上げた魔法によって受肉されています。
生前の情報は多少混ざっているでしょうが、『その身が毒であった』という情報を術者が召喚陣に組み込まなかった以上、触れた者に危害を加えるほどの毒性はないと判断しました」
「めちゃくちゃ喋るじゃん。
これまでで一番早口だよ、ロッテちゃん」
「専門分野なもので」
ぶおんぶおんと空を切って振り回され続ける握手。
ふへ、と、息が漏れる。
間の抜けた音は、確かに笑い声でもあった。
ただ。
はた、とケンシローは疑問に思う。
「私の人となりが知りたいだけだったんなら、どうして最初に『コイバナがしたい』なんて言い出したの?」
ピタリ。
部屋の空気が張りつめる。
それの雰囲気は奇しくも、ケンシローが召喚された当初と同じだった。
違う点といえば、かわいらしい顔立ちであったロッテの唇がぎゅむりとひきつって、にらめっこでもしているような形相になっていたことだろうか。
「…………。
ケンシローさんに黙っていたことがあるのです」
「なに、やだこわい」
先ほどよりも更に長い沈黙を破り、ロッテは真実を告げる。
「実はこの召喚のための魔法陣、ケンシローさんの前に一度使われているのです」
「え」
「その呼び出した方が対価として望んだのが、『ケンシロー・ヒヤマと会うこと』だったのです」
元々はアントニアちゃんがレポートのためと、その方を呼び出したのですけれどね。
ケンシローさんならウチも話を聞いてみたいと、今度はアントニアちゃんではなく、ウチが術者となってケンシローさんを呼び出した次第です、はい。
つらつらと補足を重ねていくロッテを尻目に、ケンシローは大きく見開いた。
自分との邂逅を望む者。
既に同じ方法で召喚された、過去を生きた人物。
冥界のトコヨでも会うことのできなかった、否、ケンシローがずっと会う資格がないと思っていたお方。
まさか、と信じられない面持ちでケンシローは唇を震わせる。
「三元先生……?!」
「そんなわけあるかぁーーーー!!!」
どばーーーーん!
全力のツッコミが、開け放たれた扉の向こうから飛んできた。
「そんなわけある!
教えを乞うたくせに道を踏み外したのが気まずすぎてまだ先生に会えてないし!
そうかもしれないって思ってもいいじゃない!」
「仮にそこまでの条件が合致してたとしてもコイバナを切り出す理由にはなってないでしょうが!
恩師とキャッキャウフフなんてあたしだったら死んでもやだわ!」
勢いに乗せられつい会話してしまったが、ケンシローははたと我に返る。
初対面で口喧嘩のようなテンションになってしまった、扉の向こうで頭を抱える褐色肌の少女。
おそらく、彼女がアントニアなのだろうと推察できた。
そして、その更に向こう。
少女の華奢な体躯では到底隠しきれない、高い身長。
扉の枠をゆうに超えるであろう、そびえ立つ二本角。
着物の上からでも分かる、筋骨隆々な体つき。
茶筅髷はきちりと結われ、案外と几帳面な性格が現れていた。
「あ」
切れ長の目つきに、つり上がった眉。
鋭すぎて怖いと妹君に泣かれていた。
ぐっと噛みしめられた口。
歯に悪影響ですからお止めくださいとなんど止めても、結局ケンシローが最後に会うまでに改善はされなかった。
鬼松 千熊その人が、存在していた。
「久しいな、馬鹿犬」
投げかけられた言葉には怒りが見え隠れする。
隣室でこっそりと聞いていた語りに思うところがあるらしい。
一方でケンシローの反応は、あまり思わしくなかった。
熊様の方を凝視こそしているものの、普通の表情と出で立ちだ。
耳や尻尾をぼわ! と膨らませるなどするかと思ったと、ロッテは若干期待はずれである。
「ねえ、ロッテちゃん」
「はい」
期待はずれではなかった。
声は上ずり、震えていた。
名指しで声を掛けたにも関わらず、視線は一瞬たりとも合わない。
それでもロッテは失礼なと怒ることもなく、答えた。
「さっき言ってた対価の話、変えてもいい?」
「いいですよ」
契約した術者の許可を得て、ケンシローは立ち上がる。
ちゃぶ台の足に引っ掛かり、滑った膝がラグに強かに打ち付けられる。
痛みも不格好さも全て無視して、ついには四つん這いにも似た姿勢で前へ進む。
脚絆も草履も置いていった。
ラグの外に出て、リノリウムの床に膝をついて、ケンシローは赦しを乞うように手を伸ばす。
己の手よりも大きなそれを、ほんの指先だけ、手袋を外した指でちょんと触る。
「……触れた」
本当はあった。
叶えたい願い。
だけど死んでしまった己の立場が、最期の自分の状態が、なにより主を失望させたであろう不甲斐なさがそれを許さなかった。
「熊様、お体に異変はございませんか」
「ない」
「私との接触でご気分は悪くなってはいませんか」
「ない」
短く簡潔な答えが、何度も叶えた瞬間を想像しては恐ろしくなった最悪の事態を否定する。
今は許したか。
そんなわけない。
ただ、本能に抗えなかった。
理性が負けた。
「ごべんなざい」
主君のためにあろうともがき続けて、結局己の欲を優先させた獣は、とうとう目から涙をこぼす。
「ずみまぜん、ひどい言葉言っちゃってごめんなさいとか、勝手に死んで申し訳ないとか、言わなきゃいけないことはたくさんあるはずなのに、
貴方を傷つける可能性があるならやるべきじゃないってわかっでるのに、
そ゛れ゛でも゛」
「欲のない犬め。
触れて欲しいのは指だけでいいのか?」
「な゛でてぐだざい!」
「ははは、不細工な面しおって!」
ボロボロと涙どころか鼻水を滴らせるケンシローの体液で手を汚しながら、熊様は大きな獣耳の間をわっしゃわっしゃとかき回す。
気の遠くなるような時を超え、遥か千里を超えた外つ国のとある一部屋で。
すれ違い続けた主と家来は、ようやく再会を果たしたのだった。
「……ところで、馬鹿犬。
貴様、おれが堅志郎のことを好いていたら好きだと思った場面を暴露すると言っていたな?」
「んえっ」
「あっ」
「あちゃー」
心底愉快そうに笑う熊様の顔に、悪いものが混じる。
爆速で回収されたフラグがどうなったのかは、また別のお話。
《おわり》
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