二度目の語りはどうあれ花よ

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久奉ニ十一年 八月十一日



はて、余りにも静かすぎやしないだろうか。

しんと耳の中の音さえ聞こえそうな静寂に、笠の下で千熊は眉をひそめた。

斎翠山を含めた一帯の領主である斎藤へ様子を見に来たという名目で訪れたが、実際のところは堅志郎に会いに来たと言っても過言ではなかった。

先日の戦での褒美に、土地や金でもなく、薬草や書物を管理できる屋敷が欲しいと言ってきた変わり者。
幼い頃より『馬鹿犬』と呼んでは後ろを追いかけた、年上の家来。
数年ぶりに目にした堅志郎は、手足も伸びきってすっかり大人の姿へと変わっていた。

寺での暴れっぷりはどこへ行ったのか、うってかわって厳かに平服する様に、なぜか胸がかきむしられるような心地だった。
何度も馬鹿をやらかすせいで目が離せないと思っていた彼が、いつの間にか成長していた寂しさなのか。
いまだ周りより背の低い千熊は、苛立ちにも似た感情をもて余していた。

こっそり会いに行って、あの距離のある気色悪い態度はなんだと叱りつけてやろう。

悪戯小僧の魂百までか。
元服したてだというのに、童心の抜けきっていない千熊は、こうして同行者も振り切って斎翠山の裏手に建てた屋敷へとやってきていたのだった。



しかし、予想に反して出迎えたのは完全なる静寂。

「もしや、外出中か?」

当たり前のように堅志郎が出迎えてくれるものと思っていた千熊は、今更すぎる可能性に気づいてつまらんと唇を尖らせる。

そのまま引き返すのもなんとなく癪に触ったので、垣根でできた壁を強引にかいくぐり、屋敷の主に挨拶もないまま強引に訪問を果たしたのだった。
玄関ではなく縁側からその身をねじ込ませたのは、当然わざとである。

「馬鹿犬ー! 堅志郎! おらんのか!」

沓脱石に草鞋を捨て置き、笠は縁側から中の部屋へと投げた。
円盤の形が功を奏したか、思っていたよりも奥へ飛んでいく笠に笑う姿は到底初陣を果たした城主とは思えない無礼さであったが、それもこれも堅志郎なら許してくれるだろうという驕りからだ。

縁側にどかりと座り込み、息を吸う。
鼻腔を擽るのは、紙や墨の匂いと草の匂い。
軒下に吊るして乾燥させている薬草は、どういった効能があるかはさっぱりわからない。
しかし独特な匂いのそれらは幼少期を過ごした寺を思い出させて、橡緒城入城の頃よりずっと緊張しっぱなしだった千熊のこわばりを緩めた。

と。音が聞こえた。
なかなかしぶとかった笠が着地を果たした音、同時に水の跳ねる音と、
なにやら呻き声。

「堅志郎?」

かすかではあるが確かに人の呻き声と認識した千熊は、不在と思い込んでいた家主の異常事態を察知して顔を青ざめさせた。
手をついて立ち上がると、笠の飛んでいった先へ小走りで駆け込む。

はたして、そこにあったのは嫌な予感を斜め上に超えた光景であった。

「……なにしとるんだ、貴様」
「んえ?」

笠が落ちたのは、一部屋超えた先の台所だった。
薬の調合もするからと、庭の薬草園と同じく広めに作られたそこには、液体の注がれた器が所狭しとひしめき合っている。

戸が開いているにも関わらず、台所全体に立ち込める臭気は、酒だ。
器の群れの中央でくずおれる堅志郎の頬が真っ赤に染まっていることを思えば、異常事態の原因は自ずと知れた。

「薬草酒をねぇー、作ってみようと思ったんれすよ」
「ほう」
「焼酎がいいって聞いたけど、どうせなら色々試してみようって、取り寄せたらなんかぐにゃぐにゃに混ざってよくわかんにゃくなっちゃって!」
「混ざったのは酒ではのうて貴様の視界だ」
「ぁー、ああ? あははは、熊様? 熊様だぁー!」

だめだこりゃ。

二言三言言葉を交わし、千熊の胸中に広がったのは諦観の念であった。

元服したてではあったが、千熊とて酒の味は知っている。
今まで味わったことのない刺激は多少舌と喉を痺れさせたが、うまい米と水でできたそれは呑み慣れれば好物になる予感がした。

その時家臣や女衆に酒を飲み過ぎた時の諸症状やそうなった時の対処法、そもそも飲み過ぎないよう己を律する心などを叩き込まれた。
簡単にいえば、酒を飲み過ぎると馬鹿になる、ということらしい。

「なるほど、こういうことか……」
「んへへへはへ」

いつにもまして緩みきった顔、不明瞭な言葉に回らない呂律。
酒は飲んでも飲まれるなという典型的な悪い例を目の当たりにして、千熊は一周回って冷静になっていた。

ともあれ、発見してしまった以上、放置もできなかった。
千熊はひとまず場所を移すべく、ぐにゃんぐにゃんの堅志郎に肩を貸そうとした。
しかし、完全に力を抜いた成人男性の重みは、岩のごとし。

「この……、少しくらい自分で動け! どれだけ呑んだのだ貴様!」
「呑んでないれすよぉ」
「嘘こけ!」

しかし、見渡す限りの器には全て酒らしき中身が満杯に注がれている。
まさか本当に呑んでおらず、酒気だけで酔ったのか? という疑念がわき上がるが、千熊は頭を振って堅志郎への処置を優先させた。

「いーつも、しゅいませんねぇー」

鬼である千熊にとって、堅志郎一人を抱えて運ぶ程度のことは簡単であった。
しかし、余計な手間を掛けさせた馬鹿犬に自分の力を使わせるのは業腹でもある。
その腹立たしさによる手間の惜しみが、明暗を分けた。

「だから自分で歩けと言うとるに!」

うつ伏せになって倒れている堅志郎の二の腕を掴み、少し強めに引っ張る。
鬼にとって軽い身体は思ったよりも大きく動き、緩く握られていた拳が器の一つに当たる。

がん、と音を立てたそれは、器の中でも一等大きな甕であった。
衝撃を与えられて傾いた甕は、反動でこちらに口を向ける。

「あっ」

ばっしゃん。
まるでそう決定していたかのように、まだ起き上がっていなかった堅志郎の上半身を、こぼれた酒が濡らした。

浴びるように呑むとはこのことか。
普段から身につけている十徳の羽織がじっとりと色を変えていく。
そして堅志郎本体はといえば。

「ひっきゅ」

ぱたり。
奇妙な呼吸音を鳴らして、完全に沈黙した。

「……堅志郎? おい、馬鹿犬?」

おそるおそる顎を掴んで上向かせれば、先ほどより赤くなった顔と、血走った白目。
十人が見れば十人がアカンと呟く様子であった。

千熊の脳内でガンガンと警鐘が鳴る。
まさかここまで弱かったとは。
このまま放置すれば、堅志郎が酒に殺される、と血の気が引いていった。

「と、とにかく水を、」

台所に備え付けの甕を探し当てて蓋を開けるが、その中身が使えないことを早々に察して千熊は思わず唸ってしまう。
効能も名称もよくわからない薬草が漬かっている上に、台所で猛威を振るう酒気が強すぎて、液体の正体が酒か水かもわからない。

と。
千熊はふと閃いた。
屋敷に入る前、垣根から縁側へたどり着く間に視界に入ったもの。
恐らく薬草園のために作られた、石を積んで作られたそれ。

「井戸!」

こうなってはなりふり構っていられないと、千熊は堅志郎を横抱きに抱えて台所を脱出する。
いくつか器のひっくり返る音が足元で響いたが、聞こえないふりをした。

己よりも三回りは大きな体躯を運び、砂煙を上げてたどり着いた井戸の傍に堅志郎を転がして、千熊は滑車から火花が出るのではという勢いで釣瓶を引き上げる。

「よし!」

釣瓶になみなみと入ったそれがまごうことなき水であると確認して、千熊は、

「くらえ馬鹿犬!」

どばっしゃ!
その中身をそっくりそのまま横たわる堅志郎へとぶちまけた。

先ほどの傾いた甕と同じように、今度は酒ではなく水が堅志郎を浸していく。

よく考えれば、水は掛けるのではなく、呑ませるべきだったのでは。
はた、と冷静さを取り戻した千熊が教わった知識を反芻するも、既に堅志郎は水の滴りすぎる良い男と化した状態だった。

「ふがっ、……ぇえ……? なに……つめたい……」
「堅志郎! 目が覚めたか!」

緩慢な動きで上げられた顔色は、先ほどより赤みが引いていた。

「おれがわかるか、堅志郎」
「くまさま」

呂律は相変わらず怪しいが、しっかりと受け答えのできている返事に、ひとまず千熊は胸を撫で下ろした。

「ぶっかけてしまったからな、水を飲めておらんだろう。
今汲み上げてやるからちと待っておれ」
「おきづかいなく、……濡れててきもちわるいでしゅ」

釣瓶に手をかけていた千熊は、ぎょっと目を見開いた。
朦朧とした意識のまま、堅志郎が唐突に服を脱ぎ始めたのだ。

まずは十徳。
たっぷりと液体を含んだ羽織が、べしゃりと地面に捨て置かれる。
続いて直綴、袴とするすると紐がほどけていく様子を、千熊は呆然と見ているしかできなかった。

腰回りに引っ掛かったものはともかく、地面に投げ捨てた着物が汚れる、と気づいた頃には、ためらいのない手が下着の白絹の小袖に掛けられたところであった。

酒と水の波状攻撃は深刻な被害を及ぼしていたらしい。
一番内側だった小袖もこれには耐えきれなかったらしく、たっぷりと液体を染み込んだ薄布は色を変え、堅志郎の肉体に張りついていた。
まろみを帯びた二つの丘陵、ところどころ皺のよった透ける肌色に、控えめに布を押し上げる中心の薄桃が、袷に指を掛けられて、今あらわに、

がばり。

「……?」

どうして邪魔をするのだと言わんばかりに怪訝そうな視線が千熊に下ろされる。
しかし、それに対応する余裕はなかった。

頭が殴られたように痛い。
鼻の奥でつんと痺れが走る。
全身の血流がとんでもない速さで駆け巡って、沸騰してしまいそうだった。

これはダメだ。
千熊は悟る。
堅志郎の裸は、自分に良くない変化をもたらす。

「あれぇ、くましゃまもお酒のまれたんれすか?」
「下らんことを申すな。
濡れた服を変えるぞ、寝室へ案内せい」

袷をぎゅっと掴んだまま、千熊は再び堅志郎の身体を抱える。
行きとは違い、肉体の中心部の変化によって動きづらくて仕方なかったが、千熊は力ずくでその変化を無視した。

廊下に、酒だか水だかわからぬ液体があっちへふらふら、こっちへふらふら、点々と跡を作っていく。

呂律の回らぬ言葉をなんとか解読して、常より労力を使いようやく寝室へ到着する。
私物の少ない堅志郎の部屋は台所とはうってかわって整頓されており、目当ての布団や寝巻きはすんなり見つけることができた。

しかし、問題はここからであった。

「ほれ、後は自分でやれぃ!」
「はぇ、脱いだらじゃましたろに」
「今はよいのだ! 水を持ってきてやるから、その間に着替えておくのだぞ!」

赤子のようにぐわんぐわん首の座らぬ堅志郎を布団の上に捨て置くと、千熊は寝室から足早に去った。

べちり、液体が跳ねる。
あちこち濡れた廊下を踏むのは気持ち悪く、途中で足袋を脱ぎ捨てる。
片付けておけと命じる女衆もおらず、千熊は酒と水の大惨事に口の端を歪めた。

来た道を戻り、再度釣瓶を引き上げて台所から拝借した湯呑みに水を汲む。
後は布で水気を拭いて寝巻きに着替えた堅志郎に、水を飲ませて寝かせるだけ。
今後の予定を軽く整理して、千熊は寝室へ帰還した。

「戻ったぞ。これを飲んで今日はもう休、」

すたぁん!
帰還は勢いよく閉めた襖により、数秒で中断された。
千熊は眉間に深く刻まれた皺を揉み、昔の出来事を思い出していた。

千熊は守護代の息子である。
寺に預けられていた時期もあり、厳しくしつけられていたとはいえ、大抵のことは命じればその通りになった。
思い通りにならなかったのは、この馬鹿犬に関することくらいであった。
家来になると誓ったほんの少し後に寺を出ると聞いたのが、最たる出来事だ。

堅志郎に水を飲ませて寝かせるだけ。
それは堅志郎が水気を拭いて着替えていることが大前提であったので、

「なんでまだ着替えすらできとらんのだ貴様……!」
「あぇ」

状況が更に悪化しているとは思いもしていなかったのだ。
もう一度見てみても、眼下の光景は変わらず。
横たわる身体は、ぐっしょりと濡れたまま。
着替える努力はしたのか、袴と下着は脱げかけているものの、それぞれ足元と腕に絡みついていた。
千熊の妨害も虚しく、筋肉のついた二つの膨らみも、褌の絞められた盛り上がる尻も、はだけてあらわとなっていた。
手足や顔と違い、焼けていない肌は瑞々しい。

それが、火照った状態で布団の上に。
殺傷力が段違いだった。
鼻の奥の痺れが、熱いものに変わったのがわかる。

「んにゃ」

唇の端が、唾液で濡れて光る。
大人になって少し薄くなったとはいえ、柔らかそうだ。
柔らかで、酒に浸され良い匂い。
美味しそう。

ぐちり。
鬼の血が嗤った。

「おい」

放り出したのは水の入った湯呑み。
乱暴に置いたせいで、畳に数滴跳ねた。

「おちょくるのも大概にせえよ、貴様」

濡れた生地を力任せに引っ張ったせいで、び、と甲高い音を立てて白絹の小袖が裂けた。
いよいよ鍛えあげられた肉体の上半身、そして筋肉と脂肪の実った胸が放り出される。
横向きに寝ていた堅志郎は仰向けに転がり、冷え故かぴんと尖った薄桃が天井を向く。

どすりと堅志郎の腹の上に座る。
一瞬びくりと身体が跳ねたが、それ以降の反応はなかった。

ふつふつ、沸き上がるのは鬼の残虐性。

呑気に寝こけるこいつを今ここで、陵辱してやったらどんな顔をするのだろう。
背丈も年齢も下の、元服したての若造が相手ではさぞ屈辱に違いない。
泣くだろうか。
怒るだろうか。
あらん限りの方法で矜持を汚して、食らいつくしてやったら、一体どんなーー

「くましゃま」

暴走し始めた興奮を止めたのは、小さな声だった。
着物が引っ掛かったままの手が、袷を掴んでいた千熊の手に伸びる。
誘導されたのは、堅志郎の頭。

「ぇへへ」

ふにゃりと笑う。
その顔があまりに間抜けで、考えていたことがどこかへ飛んでいった。

水分の大半は布団に染み込んでいったとはいき、生乾きの髪の感触は正直不快だ。
大きな耳の間を、なすがままの指がさりさりと往復する。
ろくに力の入っていないだろうその動きを、大層幸せそうに享受するものだから。

「……なにしとる」
「あたまをねぇ、なでてもらってまふ」

頬を擦り付け、催促しながら、堅志郎は続ける。

「くましゃまの撫で方は陽翔一でしゅから! 自信もってくだしゃい!」
「ぁあ、うん、別に自信を無くした訳ではない」
「……ほんとは、毎日なでてほしいんですけろ。
そしたらね、くましゃまのお役にたてないから」

なぜか酔っぱらいに励まされ、千熊は撫でに利用されている己の腕を回収することも忘れて言い分に聞き入る。

「今日ぁね、薬草酒を作ったんれす!」
「うん、さっき聞いた」
「酔いの回りやすい焼酎がいいっれ聞いたんでふけど、どうしぇなら色々試してみたいと思って!」
「うん」

馬乗りになっていた堅志郎の腹から、身をどける。
あんなことを知った、こんなことを記した、他愛もない日常での知識の成果をつらつらと話す堅志郎の言葉を、千熊は黙って聞いた。

それら全てが、己のためであると宣言された話を、堅志郎が口を閉ざすまで聞いていた。

「らから、至国の人らちの健康はおまかせ……くらしゃ……」
「うん」

小さな寝息が、寝室に響く。
一方で千熊の胸中に満ちるのは、羞恥と悔恨と決意の入り交じった複雑なものであった。

どかりと苛立ち紛れに、布団のすぐ側で胡座をかく。

「おれのためか」

武家の四男では熊様のお側に仕えることはできぬと、別の道を模索するため寺を出た時のように。
千熊の予想できない思考をもって行動する堅志郎の根底にあるのは、いつだって家来を命じた己のためだった。

なにより、予測できない思考であるからこそ家来に据えた堅志郎。
日々研鑽に励む彼に誇れるような、殿様になっているのか、と己に問う。

頬杖をついていた口から、長く、息を吐く。

「待っとれ、堅志郎。
必ずや貴様の献身に恥じぬ将になってみせる」

返事はない。
少し濁った呼吸だけが響く部屋の中で、千熊はずっとこちらに向けられていた瞳を覆い隠す、分厚い瞼を人差し指の腹で軽くつついた。

「だから、覚悟だけしておけ。
この国を治める将に、民の期待に応えることのできる男になったその時は」

唇はまだ早い、とばかりに。

「貴様の全てを貰いうけるぞ、堅志郎」

落とされた決意は、音だけを残して千熊の腹の中。
それっきり、彼は斎翠山ふもとの屋敷を去っていったのだった。

蹴り倒した器、酒と水でびしょ濡れの廊下、脱ぎ捨てた足袋を残して。

酔いの覚めた堅志郎が、屋敷内の惨状に白目を剥くまで、あと数時間。
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