深淵

篁 しいら

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深淵

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沈む 沈む
ゆっくり沈む
暗く 怖く 寂しく 静かな
深淵へと ゆっくり沈む

目を閉じて 息を吐き
力を抜いて 心を委ねて
音が遠ざかり 視界が歪み
耳を閉ざし 目を閉ざし
音が消えて 色が消えた
過去を 未来を 今を トキ
全てを捨てて 深く 深く
自分しんえんへと 深く沈む

どれぐらい沈んだだろうか
いつの間にか 沈むことを終えていた
形を保ちながら自分を動かし
周囲を見渡し 動き出す

暗くて 怖くて
寂しくて 静かな
自分の中の 自分の底
深淵の底

水中のように体が浮くのに
陸上のように息がしやすい
沈む過程で 五感は捨て去ったはずなのに
全てが見えて 全てが分かる
矛盾な感覚を抱えながらも
全ての感覚を受け入れている

嗚呼 此処はなんて何もないんだ
まるで現実の自分のようなところだ
嗚呼 なんと烏滸がましい感想か
正しく自分の現実を反映しているところなのだ
嗚呼 なんという絶景であろうか
曝け出すまでもなく 何もない此処を
自分はとても愛おしいとすら 今は思う

動き周りながら 思い出す
自分が自分しんえんに来た理由
ここで止まった時を
動かす刻がきたためだ
ここで止めた刻を
自分で時を動かすためにきたのだ

この場所にあった忘れ物トキ
ゆっくりと辺りを見渡しながら 探す
何もない此処には 確かに
忘れ物だけは必ずいたはずなのだがと
底に 手のようなものを伸ばした時
視界を感じている面とは 反対の
背中に相当する面から 突然の衝撃を受ける

イタイ
いたい
痛い

今までなかった衝撃に自分は 振り返る

何かが形から抜ける感覚 痛い
何かが身体から抜け出る感覚 いたい
何かがこちらに憎悪を向ける目線 イタイ

なんとまぁこれはこれはと
探したんだよと伝える前に
自分の腹部の面を
使い込まれた包丁で突き刺された
途端 形に入っていた空気が泡となって
自分の口の穴から 空へ向かって登っていった
自分は包丁ごと 忘れ物を抱きしめて
言葉にならない声で 語り掛けた

君を探しに来たんだ
一緒に行こう 現実へ
迎えに来たよ 自分わたし

その子は震えながら
着用している制服を 他人から流れた赤で染め
包丁を離すことはなく
それでいて 握り直すこともせず
自分の言葉に 噛みついた

嘘つき
嘘つき 嘘つき!
裏切者
裏切者 裏切者!
永遠に孤独を選ぶと
私の前で宣誓したのに
私の傍に永遠にいると
抱きしめながら言ってくれたくせに
私に嘘をついたな!
私を忘れて現実で認められ
人脈を作り笑顔で働き
孤独を嫌って趣味に走った!
私の傍を離れて
私を忘れようとした!
嘘つき 裏切者 薄情者!
私を独りにしないでよ!

嗚呼 自分はなんて愚か者か
一番大事なものを忘れようとしていたなんて
嗚呼 自分はなんて裏切者か
一番大事にしたいものを捨てようとしたなんて
嗚呼 自分はなんて嘘つきなのだろう
一番大事な子に嘘をつくなんて
嗚呼 自分はなんて薄情者だろう
一番大事な子に凶器を持たせるほどの寂しさを与えてしまったなんて

自分は愛おしい子を
腕に相当するもので 強く抱きしめた

自分わたしの言うとおりだ
此処に自分わたしを独り置いて
一人で現実を楽しんでしまって
自分わたしはとても辛かっただろう

君は此処でずっと
止まったトキを見続け
此処で止まって
自分が迎えに来るときを待っていた
待っている君を早く思い出して
待っている君を早く見つけて
待っていた君を抱きしめて
待っていた君を安心させてあげるのが

自分しかできない 自分の役割なのに

一度べっとりとした赤を 口の穴から吐き出しながら
自分は抱きしめた自分わたし
言葉を伝えるため 全身に行き渡るように息を吸って
息に言葉を乗せて 言葉を愛おしい自分わたしに向けた

待たせてしまって ごめん
君の言う通り 私は裏切者かもしれない
嘘つきで 君のことすら忘れて
現実をそれなりに楽しむことが 出来るようになった
君が一番嫌いな 大人になってしまったのが
じぶんなんだと今 認識したよ

だからこそ
君が嫌いな 嘘つきで
自分だけ 楽しそうに生きる裏切者で
君を独りにしていた 薄情者な大人になった
じぶんだからこそ

君をここに迎えに来た

君を強く抱きしめて
君に待たせてごめんねと 謝罪して
君を此処から連れ出して
君に今の世界で 楽しんでもらいたいと

これが大人になった 自分の役割だから
今の言葉のまま 本当に此処からは

予告通りに 君を此処から連れ出すよ
自分が君を 独りにしないように
これからは いつも一緒に
現実を楽しもう もしそれでも
現実に生きるのが難しいと感じたら
君から自分に言葉を贈ろう

「大丈夫 私が傍にいる」

愛おしい子は 自ら包丁の柄から手を離し
使い古された包丁は 腹部の面から消えていて
震えながら 自分に抱き着いていた


いつの間にか自分たちわたしたちの頭上に 光が降り注ぎ
光のカーテンが 私たちじぶんたちに手招きをしている

自分は愛おしい子を しっかり抱きしめて
力を溜めるように 足を折り曲げて
思いっきり 深淵の底を蹴った
名残惜しくサヨナラをする時間すら
愛おしい子へ抱かせないように

浮かぶ 浮かぶ
勢いよく浮かぶ
眩しく 明るく 賑やかで 喧しい
現実へと 浮かんでいく

息を吸って 目を開き
心を定めて 足に力を入れ
目や耳で 事実を見聞きし
全ての五感で 現実を受け入れ
過去も 未来も 今も とき
全てを引っ提げて 登れ 登れ
深淵とは違う リアル現実

しぶんを 輝かせて
自分わたしを 楽しませて
リアル現実を 照らして
未来げんじつを 生きよう





大丈夫、私が傍にいる。




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