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1巻
1-3
「ああ……やめよ」
社員食堂で思い出す内容ではない。頭を抱えた私を眺めながら、いつの間にか食べ終えていた茉由子が冷静な顔でお茶をすすった。
「お互い裸だったんだから、何もないってのはありえなくない?」
「…………」
それだ。だとすれば、私はやはり救いようのない魅力ゼロ女ということになる。しかもそれだけでなく、リストラの鬼に醜態を晒すだけ晒したことになる。
無言で落ち込む私の気持ちなどお構いなしに、茉由子は痛いところを突いてくる。
「それで、それ誰よ? 五階で出くわしたんなら部署はわかってるんでしょ?」
返答に窮した私は煮魚の骨取りに気を取られているふりをした。しかし茉由子の追及は核心に近づいていく。
「五階っていったら人事本部と知的財産権本部と、あと何だっけ?」
「…………」
「まあ人事本部はさすがにまずいとして、えーと、どこだろ」
「…………」
「ねぇナツ、どこよ?」
「……人事本部」
あっさりと観念したのは、あの事件の深刻度が冗談の域を超えて、いよいよ切実になってきたからだ。私の周囲で皆川佑人の情報をもたらしてくれそうなのは茉由子しかいない。
「やだ、それまずくない? そもそも何で会社の人間を狙っちゃったのよ? 同じフロアにいたら顔ぐらい覚えてるでしょ」
「だって……酔ってたし、今まであの人、見たことなかったし」
「だから誰」
「あの……その……」
茉由子の反応が怖くて、下を向いて答える。
「……皆川って人」
恐ろしく長い沈黙が落ちた。煮魚はもうとっくに食べ終えてしまっている。茉由子がなかなか反応しないので、仕方なくお皿の端に小骨を並べた。大して自慢にならないが、昔から魚を綺麗に食べるのだけは得意だ。こりゃ猫泣かせだねと、よく祖母に感心されたものだった。
どうでもいい回想に逃げていると、茉由子がようやく口を開いた。
「……そんな寒いホラ吹いてると首が飛ぶよ」
「ホラじゃないよ。妄想でもないし。だから落ち込んでるんじゃない」
「嘘……」
また少しの沈黙ののち、茉由子が重々しく言った。
「ナツの首に線が見える」
「え?」
「リストラ線」
「やめてよ! 本気で悩んでるんだから」
涙目で抗議すると、茉由子は真面目な顔で声をひそめた。
「お互いさまだし、会社の外で起きたプライベートなことにとやかく言われる筋合いないよ。……と思いたいね」
笑い飛ばしてくれた方がまだ良かったかもしれない。真面目に慰められると余計に落ち込んできた。
「本当に、何であんなバカなことしたんだろう。もうお酒なんか飲まないから、職だけは失いたくない。結婚もできそうにないし、ずっと一人で生きていかなきゃいけないのに」
嘆いている間に本気で半泣きになってきた。
「大丈夫だって。ナツは真面目に頑張ってるし、職奪われるようなことしてないじゃん」
ついさっき〝まずいよ〟を連呼した口で大丈夫だと言われても説得力がない。
「それに彼はあんまり社にいないみたいだよ。週に二、三日しか来てないって。だからそんなに出くわすことないよ」
「どういうこと?」
思わず涙目を上げて食いついた。
「人事コンサルタントとして期限付きで来てるの。常駐だけどベッタリじゃないって」
「うちの社員じゃないの?」
確かにこの間ちらっと見た彼のIDカードには所属部署名の記載がなかった気がする。
「正確にはね」
そこで茉由子は有名なリサーチ系の企業グループの名前を挙げた。私もマーケティングセミナーで月一回通っている大企業だ。
「そうか……しばらくの辛抱なのね」
期限付きと聞いて、ようやく希望が湧いてきた。
「よし。今後は出くわさないように気をつけて、これ以上粗相がないようにすれば、一介の平凡女なんてそのうち記憶から抹消されるよね」
自分が平凡であることに感謝するのは初めてだ。
「いやいや、それはないな」
しかし茉由子は顔をしかめて手を振った。
「この間言わなかったっけ? 皆川氏は一度見た社員データを完璧に記憶するって」
「茉由子、慰めてくれてるんじゃないの?」
「実はちょっと面白がってる。だって、心配したってもう遅いじゃん」
茉由子はにやりと笑った。彼女の関心は私のクビどうこうとは違うポイントに移ったらしい。
「あの冷徹男がナツみたいな平凡女子をいじってくるなんて、わくわくするよ」
「しない」
無愛想に答えた私に、茉由子はここからが美味しい部分とばかりに身を乗り出してきた。
「それで、どんな感じだった?」
「何が?」
「彼のベッド」
語尾にハートがついていそうな茉由子の声に、飲みかけていたお茶を思わず噴き出しそうになった。
「切れ者らしいし、謎が多いし、どんな感じか興味あるわぁ。ナツには刺激が強かったんじゃない?」
「だから覚えてないんだってば」
「ほんとに?」
「ほんとに」
少し嘘だが力を込める。
「あーあ、もったいない。あ、でもキスは覚えてるんでしょ?」
「おぼろげにしか」
思い出しただけで顔が火照ってきたので、苦しまぎれに話題を茉由子に振る。
「それはそうと、茉由子は? 誰か見つかった?」
少し前に恋人と別れてからというもの、茉由子は合コンに行きまくっている。どこで見つけてくるのか、茉由子には合コンのツテがたくさんあるのだ。
「うん。実はね。ふふふ」
簡単には皆川氏の話題から逸れてくれないだろうと思ったのに、茉由子は嬉しそうに乗ってきた。
「私が一方的に気に入ってるだけなんだけどね。席が遠かったし、あまり話もできなかった。でもほんと、私の好みど真ん中なのよ。格好いい上に真面目なの!」
「へえ」
いつになく茉由子に力が入っている。いずれ落としてしまうのだろう。とびきりの美人というわけではないのに、次々と男性を射止めてしまう茉由子は羨ましいほどの恋愛体質だ。
「迫田って覚えてる? 前にナツも来た合コンで幹事だった人」
「ああ……たしか損保の人だよね。ちょっと賑やかな感じの」
「うん。迫田がリベンジでまた幹事やってくれたの。ナツも来た前回の合コンは最悪だったじゃん?」
「かなり前だよね。軽い人ばっかりだったかな」
「そうそう。いくらエリートでもあんなに女遊び激しいのは無理だわ」
その誰彼かまわぬチャラ男たちですら私を素通りしていった、寂しい合コンを思い出す。
「だから今回は厳選してねって念押ししたの。そしたら、迫田の先輩で合コン嫌いっていうその人を引きずり出してきてくれてさ」
茉由子の話に相槌を打ちながら、社員食堂の入口をチラリと窺う。初めて社内で皆川佑人に遭遇した時はこのぐらいの時刻だった。つい入口を気にしてしまうのは、怖いもの見たさと彼に遭遇する危険を回避するためだ。
「そしたらその人、誰とも連絡先を交換しないで一次会であっさり帰っちゃったのよ」
そこで急に茉由子が大袈裟な身振りで私の手を取り握り締めてきたので、上の空で聞いていた私は驚いて跳び上がった。
「な、何よ、急に」
「そこでナツの出番なのよ」
「何で私」
「その人を食事に誘い出すのに協力してくれない?」
「どうやって?」
「迫田とナツとその人と、四人でご飯に行くの。迫田がナツ狙いのふりしてさ、私とその人が協力するって設定で」
早口で一気に言い終えると、茉由子は期待で目をきらきらさせて私を見つめた。ちょっと待てよと視線を逸らし、言われたことを頭の中で反芻する。
「あのさ……。迫田くんが私狙いって、少し無理があるよ」
自慢ではないが、合コンで見初められた経験は皆無だ。
「大丈夫、大丈夫! 迫田なら乗ってくれるし」
しかし茉由子は私の懸念などお構いなしだった。
「ていうか、これ迫田の提案だし。ナツは私の人選だけど」
「私なら本命を横取りされる心配ないってことだよね?」
「まあまあ、そう卑下なさらず」
茉由子は当たらずとも遠からずといった風に笑ってごまかした。女の友情などこの程度だ。
「ほら、皆川情報が入ったら流すからさ。今日は来てるよとか、今週は大丈夫とか」
渋っていた私はこの条件で呆気なく陥落した。
「……わかった」
「ありがと、ナツ!」
〝皆川情報をよろしく〟と念押ししたところでお昼休憩をお開きにして茉由子と別れ、私はポーチを片手に五階のトイレに向かった。気分は昼食前より少し上がっていた。
迫田くんは茉由子の大学時代の同級生で、私とも同い年だ。一度しか会ったことはないが、女子を露骨に選り好みする男性たちと違って分け隔てなく接してくれる、ノリのいい明るい印象の人だった。失恋相手の東条主任を眺めていなければならない毎日では、心がなかなかトンネルから抜け出せない。他の男の人と楽しく喋るのはいい気晴らしになりそうだ。それに何より、あの皆川佑人の動向が入るのはありがたい。
五階のトイレには誰もいなかった。ところが、軽い足取りでトイレの鏡の前に立った私は、続いて入ってきた人物を見てぎょっとした。
「あ、江藤さん! 偶然ですね」
入ってきたのはこのフロアの住人である野暮ったい作業服女子ではなく、鮮やかなスーツ姿の堀内さんだった。なぜ五階のトイレに一階の受付嬢が? それまでの気分が一気に萎む。
「お疲れさまです」
なるべく会話したくないし、早くメイクを直してトイレを出よう。テンションの低い笑顔とともに会釈し、私は鏡に視線を戻した。しかし堀内さんは私の隣にポーチを置き、鏡越しに話しかけてきた。
「最近、お仕事どうですか?」
どうと聞かれても曖昧すぎて答えづらい。
「ああ……まあまあです」
「江藤さんは東条主任とまったく同じ仕事内容なんですか?」
「一部同じなだけですよ。会議事務局とマーケティングだけ一緒です」
「事務局って、商品戦略会議ですか?」
「そうです。月一回定例の」
こちらは早く歯磨きをしたいのに、堀内さんは鏡越しにがっつり視線を合わせて質問ばかりしてくる。
「商品戦略会議って、取締役が全員出席する会議ですよね? あれの事務局さんなんだ? すごーい」
「いえ、そんなことは」
東条主任と二人で事務局を務めているのは、十年先までの長期開発戦略を扱う重役会議で、会議内容は極秘だ。とはいえ事務局がすごいわけではないのに、堀内さんは大袈裟に目を丸くしてみせた。表情の作り方にわざとらしさを感じてしまうのは、私の心の問題だろうか。
「ああいう会議って情報の扱いが大変そうですね」
「そうなんです。私たちは守秘義務の誓約書を書かされるぐらいですから」
〝私たち〟とわざわざ東条主任との連帯表現を入れたのは、私のくだらない意地だ。でも、共有することが仕事しかないのがかえってみっともなくて、言ったあとで自己嫌悪に陥る。
「ちょっと失礼しますね」
それでも東条主任との仕事は私の聖域だ。これ以上は話す必要もないので、私は彼女に一言断ってから歯磨きを始めた。
しばらく嫌な沈黙が続く。彼女はここに何をしに来たのか、出ていく気配もなくスマートフォンを取り出していじり始めた。私が歯磨きを終えて会話を再開できるまで時間を稼いでいるようにしか見えず、だんだん腹が立ってきた。五階トイレは我々作業服女子の貴重な休憩場所だ。早く出ていってよと、意地になって歯を磨きまくる。
ところが堀内さんは涼しい顔で、もう直す必要もないぐらい綺麗なメイクにさらに手を加えたあと、髪を丁寧にブラッシングし始めた。
磨きながらつくづく思う。鏡って残酷だ。向かい合っていると相手しか見えないのに、こうして並ぶと二つの顔の造作の違いを嫌というほど自覚させられる。
しばらくしても堀内さんが出ていく様子がないので、私は諦めて先に撤収すべく口をすすいだ。しかし、彼女はそれを待っていたのだろう。それまで黙っていたのに急に口を開いた。
「あの……東条主任からお聞きになってますか?」
何を? 肝心な部分を意味ありげに伏せた聞き方に内心苛立った。鏡の中の堀内さんは可愛らしく小首を傾げて私を見つめている。茉由子が同じ聞き方をしたなら何も思わなかっただろうに、堀内さんだとどうしてこんなにいやらしくなるのだろう。そして、その苛立ちは次の言葉で衝撃に変わった。
「私たち、将来の話をしてるんです。江藤さんはもうお聞きになったかなと思って」
やはり鏡は残酷だ。奥深くに隠した本心も一瞬の動揺も、すべてを赤裸々に映し出す。鏡に映る二つの顔の色は、明らかに勝者と敗者のそれだった。
私の表情の微細な変化も逃さず捉えようとする意地の悪い視線から逃げも隠れもできず、必死の演技で口を開く。
「あ……聞いてなかったですけど、おめでとうございます」
「えっ、お聞きになってなかったんですか? ごめんなさい、フライングしちゃった」
堀内さんと一緒に笑おうとしたが、鏡の中の私は到底笑顔に見えなかった。
「江藤さんは大事な仕事仲間だから、真っ先に報告してるかなって思ってました」
持ち上げているようで、さりげなく言葉の端々で私の立ち位置を強調してくる。それには答えず、鏡から顔を逸らしてポーチに歯ブラシを押し込んだ。
「そういえば彼、最近の江藤さんは元気がないって心配してたから、プライベートの報告は遠慮してるのかも」
この会話を切り上げるにはもうここを出るしかない。
しかし、トイレを出ようとする私に彼女も歩調を合わせてついてくる。私は意地を振り絞って笑顔を作った。
「仕事で色々あった時ですかね? 今は全然、元気ですよ」
「そうなんですか? 良かった」
堀内さんは肩をすくめて微笑み、じっと私の目を見つめた。
「元気がないって聞いて、もしかして私、江藤さんに無神経なことしちゃったのかなって……」
やはり私の東条主任への気持ちを見抜かれていた……? 私のプライドの一番大切な部分が暴き出されたような気がした。
「まさか、違いますよ、そんなことあるわけないじゃないですか」
はっきり言われる前に否定してしまったのでは、かえって認めたようなものだ。わかっているが、堀内さんの狡猾な誘導に耐える余裕がなく、苦し紛れに言葉を連ねる。
「東条主任は上司ですから」
「ですよねー」
しかし語るに落ちる状況に耐えられなくなり、廊下に出たところでついに自分の限界を悟った。
「あ、すみません。リップ塗るの忘れちゃったから戻ります。じゃあここで」
彼女の目を見ずに笑顔を作り、踵を返す。わざとらしくてももう構わない。
ところが、堀内さんははるかに上手だった。
「そうだ、江藤さん」
これで解放されると思ったのも束の間、離れるかに思えた足音が軽やかに翻ったのと同時に、腕に甘い香りが巻き付いた。
「さっきの話、彼には内緒でお願いしますね。フライングしたのがばれたら怒られちゃう。ふふ」
小声でさらなる毒が流し込まれた。
「じゃあ、またお話ししてくださいね。楽しかったです」
耳元の甘い声と巻き付いていた腕がふわりと離れ、優雅なヒールの靴音が去っていく。残り香を纏う腕を、痛みを感じるほど強く擦った。
午後の始業間近な廊下は人通りが多かった。涙腺が崩壊しそうな顔を上げることもできず、私は俯いたままトイレに戻った。
第三章 冷徹男の救いの手
眠い。……眠い。ものすごく、眠い。
数日後、金曜日の午後四時。私はマーケティングセミナーに出席するため、大手リサーチ企業のオフィスビルを訪れていた。さすが一流企業で、経費削減で空調を抑えているうちの社と違い、最上階にあるセミナーホールは暖房がほどよく効いている。
例によってこの日も徹夜で企画書を仕上げた私の瞼は鉛のように重く、何度持ち上げても落ちてくる。
うちの部署には事務職がいないので、諸々の雑用は若手だからという理由で──暗黙には女性だからという理由ですべて私がやっている。今週はそうした雑用が集中していて、自分の仕事の持ち帰り残業が多かった。セミナーで眠気に襲われないよう、普段は苦すぎて飲めないブラックコーヒーを無理して胃に流し込んできたのに、溜まった疲労には焼け石に水だった。
寝てはいけない。聞いていないと報告書を書けないのだから。
しかし目を皿のように開いて必死にメモを取っていても、文字も音声も頭に入ってきてくれない。
このマーケティングセミナーは様々な業種の企画担当者がヒット商品の開発体験談や開発手法などをレクチャーするもので、月に一度開催されている。元々は東条主任と一緒に参加していたが、先月からは私一人だ。だから責任重大だというのに、この眠気では報告書が危うい。受付で渡されたレジュメに目を凝らし、何度も手の甲をつねった。
セミナーを主催しているのは人材開発からコンサルティング業、情報サービスまで多岐にわたって事業を展開している大手企業グループだ。あの皆川佑人が所属している会社でもある。つまり、ここにいると彼と遭遇する危険が非常に高いということだ。
それなのに、今日は茉由子から例の皆川情報が入ってきていない。うちの会社にいるのか、他のクライアント先を訪問しているのか、それともこのビルに潜んでいるのか、彼の所在は不明だ。
だからこのビルに入る時はまるで敵地に潜入するようで、かなりびくびくしてしまった。うちの社と違って全員スーツ男子なので、遠くからでは見分けにくいのだ。
しかし彼がコンサルティング部門の人間ならばマーケティングセミナーとは無関係だろうし、このホールにいる限りは安全に違いない。
そう考えると余計に瞼が重くなる。何度も首がかくんと折れ、慌てて頭を起こすこと数回。ペンを落としかけては握り直し、自分を叱咤して必死にメモを取る。セミナーは中盤にさしかかっており、ここからが講演の山場のはずだ。しかし、昨夜だけでなくここのところずっと持ち帰り残業で過労だった私は、ついに力尽きてしまったらしい。
「終わりましたよ」
誰かが遠くで何か言っている。
〝着きましたよ〟なら、何度か言われた経験がある。徹夜が続いた週の後半、帰りの電車で運良く座れた時などは特に危ない。県境をはるかに越えた終着駅の風景を私が知っているのはそのせいだ。
(え……〝終わりましたよ〟?)
頭の隅で鳴り響くただ事ではないという警告にはっと目を開けると、そこは電車ではなくセミナーホールだった。満席に近かったホールにはもうほとんど人の姿がない。
「もうすぐ空調が切れますので」
頭上で響くこの声には聞き覚えがある。ほとんど確信に近かったが、別人であることに一縷の望みをかけて、身を縮めながら怖々と視線を上げる。
よりにもよってこんな場面を見られてしまうとは。冷ややかに私を見下ろしているのは、隣の机に寄りかかって腕組みをした皆川佑人だった。
「すっ、すみません」
慌ててノートと筆記用具を片付け始めたが、そうしている間に立ち話をしていた最後の数名がセミナーホールを出ていってしまった。
「僕が施錠します。クライアント先の方ですので、少し話を」
ばたつく私の頭上で彼の声がした。私ではなく、出席者を見送るため出口で待機しているセミナーの担当者に言ったらしい。
「わかりました。では、よろしくお願いします」
女子社員のしとやかな声が返ってくる。行かないでという私の心の叫びが届くはずもなく、私たち二人を残してドアは恭しく閉じられてしまった。
静まり返った広いセミナーホールに二人きり。聞こえるのは空調の音だけだ。
「……申し訳ありません」
蚊の鳴くような声で謝り、身を縮めて断罪の時を待つ。会社の貴重な経費で参加させてもらっているセミナーで居眠りするとは。仕事で徹夜続きだったというのは言い訳にできない。そもそもそれ以前に、破廉恥な醜態を晒して逃げた前科もある。きっとここでは皆川氏から遠回しに警告を受け、後日部長からお叱りを受けるか、最悪の場合は〝明日から来なくていいよ〟的な意味合いの通告を受けるのだろう。
「江藤奈都さん、ですね」
彼がいきなり私の名前を口にした。
「……はい」
やはり面が割れていたのだ。警察に逮捕状を突き付けられた犯人のように観念して項垂れる。
「申し遅れましたが、皆川です。僕がいることに驚かれたようですが、こういったセミナーの講演者の選定にも関わっているので」
怒っている様子ではないが、それがかえって恐ろしい。あの夜を共通の認識としながら、触れそうで触れてこないところも。
「本当に申し訳ありません……」
「いいえ。参加費用は貴社よりきちんと頂戴していますから、それをどうなさるかはご自由です」
私の頭がいよいよ下がる。誰がどう聞いてもこれは嫌味だ。私たちのような管理部門は特に、コストに対する意識が甘くなってはいけないのに。
「それより、困るのでは?」
彼はそう言って、私が握り締めているノートを指差した。報告書を書けるのか、という意味だろう。メモを取れたのは中盤までで、終盤の結論が抜けている。
「大丈夫です! レジュメを見て何とか……」
そう言いながらレジュメを開いた私の言葉はそこで止まった。
講演者によってレジュメの作り方は様々だ。内容を詳しく書く人もいれば、見出しタイトルのみで、詳細はすべて口頭で語る人もいる。今日の講演者は後者だった。ホッチキスで綴じられた数枚はほとんどがメモのための余白で、〝ヒット商品の芽とは?〟というような見出しだけがまばらに並んでいる。
「今日の方は慣れておられて、聴衆の反応によって内容を自由に変えるんですよ」
「…………」
追い討ちをかけるような言葉に黙り込む。結論部分がなければ、報告書の意味がない。
「報告書は……無理みたいです……」
ついに私は小さな声で正直に認めた。リストラの鬼の前でこの体たらくでは、もうおしまいだ。
「ク……クビですよね……」
たとえそうでも、こんな情けない仕事ぶりで最後になるのは悔しすぎる。
「最後に報告書だけはちゃんと仕上げて提出したいです。できればあの、終盤の内容を……」
どうせクビになるならと捨て身で縋る。しかし〝教えてもらえませんか?〟という言葉は口の中で不明瞭に消えた。どう考えても虫が良すぎるだろう。私がもたもた喋っている間、ずっと彼が黙っているのは呆れ返っているからに違いない。
ところが、彼が発したのは意外な言葉だった。
「何か勘違いをされているようですが、僕の仕事はだめ社員を見つけて、一人一人首を切って歩くことではありません」
思わず顔を上げた私は氷のように光る銀縁眼鏡に慄き、また俯いた。ならば職務は何ですか、とは怖くて聞けない。〝だめ社員〟と揶揄されたことに、一瞬遅れて気づいたのもある。
「まあ、組織の改変は遠からずそのような結果を生むかもしれませんが」
要はそんなみみっちい仕事ではないと言っているだけで、首切り人であることに変わりはないようだ。そこで突然話題が変わった。
「ICレコーダーはお使いではないのですね」
「セミナーは録音しないんです。その時間に集中すべきだと上司が言っていたので」
それでこのザマなのだから我ながら〝どの口が〟だ。
会議では議事録を正確に作成する必要があるので必ずレコーダーを使う。しかし商品開発セミナーの目的は正確さではなく、その場で得られるインスピレーションだ。だから東条主任は、こうしたセミナーではレコーダーを使わない主義だった。
「僕もそう思います。その場の空気で聞くのが一番ですから」
同意されている形だが、貴重なものを無駄にしてしまった自分の失態に改めて落ち込んでしまう。
ところが、ここで彼は思わぬ助け船を出した。
「ですが、事務局では記録のため録音しています」
そう言って彼は小さなレコーダーを私の机に置いた。暗闇に一筋の蜘蛛の糸。私も単純なもので、項垂れていた顔が途端に上がる。
「ただ申し訳ないのですが、規則で社外への貸し出しはできません。このあとは帰社予定ですか?」
「いえ、直帰です」
「でしたらこの場所をそのままお使いいただいて結構ですので、良ければお聴きください」
「は……はいっ! ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げた私は、隣の椅子の背もたれに額をぶつけてしまった。
社員食堂で思い出す内容ではない。頭を抱えた私を眺めながら、いつの間にか食べ終えていた茉由子が冷静な顔でお茶をすすった。
「お互い裸だったんだから、何もないってのはありえなくない?」
「…………」
それだ。だとすれば、私はやはり救いようのない魅力ゼロ女ということになる。しかもそれだけでなく、リストラの鬼に醜態を晒すだけ晒したことになる。
無言で落ち込む私の気持ちなどお構いなしに、茉由子は痛いところを突いてくる。
「それで、それ誰よ? 五階で出くわしたんなら部署はわかってるんでしょ?」
返答に窮した私は煮魚の骨取りに気を取られているふりをした。しかし茉由子の追及は核心に近づいていく。
「五階っていったら人事本部と知的財産権本部と、あと何だっけ?」
「…………」
「まあ人事本部はさすがにまずいとして、えーと、どこだろ」
「…………」
「ねぇナツ、どこよ?」
「……人事本部」
あっさりと観念したのは、あの事件の深刻度が冗談の域を超えて、いよいよ切実になってきたからだ。私の周囲で皆川佑人の情報をもたらしてくれそうなのは茉由子しかいない。
「やだ、それまずくない? そもそも何で会社の人間を狙っちゃったのよ? 同じフロアにいたら顔ぐらい覚えてるでしょ」
「だって……酔ってたし、今まであの人、見たことなかったし」
「だから誰」
「あの……その……」
茉由子の反応が怖くて、下を向いて答える。
「……皆川って人」
恐ろしく長い沈黙が落ちた。煮魚はもうとっくに食べ終えてしまっている。茉由子がなかなか反応しないので、仕方なくお皿の端に小骨を並べた。大して自慢にならないが、昔から魚を綺麗に食べるのだけは得意だ。こりゃ猫泣かせだねと、よく祖母に感心されたものだった。
どうでもいい回想に逃げていると、茉由子がようやく口を開いた。
「……そんな寒いホラ吹いてると首が飛ぶよ」
「ホラじゃないよ。妄想でもないし。だから落ち込んでるんじゃない」
「嘘……」
また少しの沈黙ののち、茉由子が重々しく言った。
「ナツの首に線が見える」
「え?」
「リストラ線」
「やめてよ! 本気で悩んでるんだから」
涙目で抗議すると、茉由子は真面目な顔で声をひそめた。
「お互いさまだし、会社の外で起きたプライベートなことにとやかく言われる筋合いないよ。……と思いたいね」
笑い飛ばしてくれた方がまだ良かったかもしれない。真面目に慰められると余計に落ち込んできた。
「本当に、何であんなバカなことしたんだろう。もうお酒なんか飲まないから、職だけは失いたくない。結婚もできそうにないし、ずっと一人で生きていかなきゃいけないのに」
嘆いている間に本気で半泣きになってきた。
「大丈夫だって。ナツは真面目に頑張ってるし、職奪われるようなことしてないじゃん」
ついさっき〝まずいよ〟を連呼した口で大丈夫だと言われても説得力がない。
「それに彼はあんまり社にいないみたいだよ。週に二、三日しか来てないって。だからそんなに出くわすことないよ」
「どういうこと?」
思わず涙目を上げて食いついた。
「人事コンサルタントとして期限付きで来てるの。常駐だけどベッタリじゃないって」
「うちの社員じゃないの?」
確かにこの間ちらっと見た彼のIDカードには所属部署名の記載がなかった気がする。
「正確にはね」
そこで茉由子は有名なリサーチ系の企業グループの名前を挙げた。私もマーケティングセミナーで月一回通っている大企業だ。
「そうか……しばらくの辛抱なのね」
期限付きと聞いて、ようやく希望が湧いてきた。
「よし。今後は出くわさないように気をつけて、これ以上粗相がないようにすれば、一介の平凡女なんてそのうち記憶から抹消されるよね」
自分が平凡であることに感謝するのは初めてだ。
「いやいや、それはないな」
しかし茉由子は顔をしかめて手を振った。
「この間言わなかったっけ? 皆川氏は一度見た社員データを完璧に記憶するって」
「茉由子、慰めてくれてるんじゃないの?」
「実はちょっと面白がってる。だって、心配したってもう遅いじゃん」
茉由子はにやりと笑った。彼女の関心は私のクビどうこうとは違うポイントに移ったらしい。
「あの冷徹男がナツみたいな平凡女子をいじってくるなんて、わくわくするよ」
「しない」
無愛想に答えた私に、茉由子はここからが美味しい部分とばかりに身を乗り出してきた。
「それで、どんな感じだった?」
「何が?」
「彼のベッド」
語尾にハートがついていそうな茉由子の声に、飲みかけていたお茶を思わず噴き出しそうになった。
「切れ者らしいし、謎が多いし、どんな感じか興味あるわぁ。ナツには刺激が強かったんじゃない?」
「だから覚えてないんだってば」
「ほんとに?」
「ほんとに」
少し嘘だが力を込める。
「あーあ、もったいない。あ、でもキスは覚えてるんでしょ?」
「おぼろげにしか」
思い出しただけで顔が火照ってきたので、苦しまぎれに話題を茉由子に振る。
「それはそうと、茉由子は? 誰か見つかった?」
少し前に恋人と別れてからというもの、茉由子は合コンに行きまくっている。どこで見つけてくるのか、茉由子には合コンのツテがたくさんあるのだ。
「うん。実はね。ふふふ」
簡単には皆川氏の話題から逸れてくれないだろうと思ったのに、茉由子は嬉しそうに乗ってきた。
「私が一方的に気に入ってるだけなんだけどね。席が遠かったし、あまり話もできなかった。でもほんと、私の好みど真ん中なのよ。格好いい上に真面目なの!」
「へえ」
いつになく茉由子に力が入っている。いずれ落としてしまうのだろう。とびきりの美人というわけではないのに、次々と男性を射止めてしまう茉由子は羨ましいほどの恋愛体質だ。
「迫田って覚えてる? 前にナツも来た合コンで幹事だった人」
「ああ……たしか損保の人だよね。ちょっと賑やかな感じの」
「うん。迫田がリベンジでまた幹事やってくれたの。ナツも来た前回の合コンは最悪だったじゃん?」
「かなり前だよね。軽い人ばっかりだったかな」
「そうそう。いくらエリートでもあんなに女遊び激しいのは無理だわ」
その誰彼かまわぬチャラ男たちですら私を素通りしていった、寂しい合コンを思い出す。
「だから今回は厳選してねって念押ししたの。そしたら、迫田の先輩で合コン嫌いっていうその人を引きずり出してきてくれてさ」
茉由子の話に相槌を打ちながら、社員食堂の入口をチラリと窺う。初めて社内で皆川佑人に遭遇した時はこのぐらいの時刻だった。つい入口を気にしてしまうのは、怖いもの見たさと彼に遭遇する危険を回避するためだ。
「そしたらその人、誰とも連絡先を交換しないで一次会であっさり帰っちゃったのよ」
そこで急に茉由子が大袈裟な身振りで私の手を取り握り締めてきたので、上の空で聞いていた私は驚いて跳び上がった。
「な、何よ、急に」
「そこでナツの出番なのよ」
「何で私」
「その人を食事に誘い出すのに協力してくれない?」
「どうやって?」
「迫田とナツとその人と、四人でご飯に行くの。迫田がナツ狙いのふりしてさ、私とその人が協力するって設定で」
早口で一気に言い終えると、茉由子は期待で目をきらきらさせて私を見つめた。ちょっと待てよと視線を逸らし、言われたことを頭の中で反芻する。
「あのさ……。迫田くんが私狙いって、少し無理があるよ」
自慢ではないが、合コンで見初められた経験は皆無だ。
「大丈夫、大丈夫! 迫田なら乗ってくれるし」
しかし茉由子は私の懸念などお構いなしだった。
「ていうか、これ迫田の提案だし。ナツは私の人選だけど」
「私なら本命を横取りされる心配ないってことだよね?」
「まあまあ、そう卑下なさらず」
茉由子は当たらずとも遠からずといった風に笑ってごまかした。女の友情などこの程度だ。
「ほら、皆川情報が入ったら流すからさ。今日は来てるよとか、今週は大丈夫とか」
渋っていた私はこの条件で呆気なく陥落した。
「……わかった」
「ありがと、ナツ!」
〝皆川情報をよろしく〟と念押ししたところでお昼休憩をお開きにして茉由子と別れ、私はポーチを片手に五階のトイレに向かった。気分は昼食前より少し上がっていた。
迫田くんは茉由子の大学時代の同級生で、私とも同い年だ。一度しか会ったことはないが、女子を露骨に選り好みする男性たちと違って分け隔てなく接してくれる、ノリのいい明るい印象の人だった。失恋相手の東条主任を眺めていなければならない毎日では、心がなかなかトンネルから抜け出せない。他の男の人と楽しく喋るのはいい気晴らしになりそうだ。それに何より、あの皆川佑人の動向が入るのはありがたい。
五階のトイレには誰もいなかった。ところが、軽い足取りでトイレの鏡の前に立った私は、続いて入ってきた人物を見てぎょっとした。
「あ、江藤さん! 偶然ですね」
入ってきたのはこのフロアの住人である野暮ったい作業服女子ではなく、鮮やかなスーツ姿の堀内さんだった。なぜ五階のトイレに一階の受付嬢が? それまでの気分が一気に萎む。
「お疲れさまです」
なるべく会話したくないし、早くメイクを直してトイレを出よう。テンションの低い笑顔とともに会釈し、私は鏡に視線を戻した。しかし堀内さんは私の隣にポーチを置き、鏡越しに話しかけてきた。
「最近、お仕事どうですか?」
どうと聞かれても曖昧すぎて答えづらい。
「ああ……まあまあです」
「江藤さんは東条主任とまったく同じ仕事内容なんですか?」
「一部同じなだけですよ。会議事務局とマーケティングだけ一緒です」
「事務局って、商品戦略会議ですか?」
「そうです。月一回定例の」
こちらは早く歯磨きをしたいのに、堀内さんは鏡越しにがっつり視線を合わせて質問ばかりしてくる。
「商品戦略会議って、取締役が全員出席する会議ですよね? あれの事務局さんなんだ? すごーい」
「いえ、そんなことは」
東条主任と二人で事務局を務めているのは、十年先までの長期開発戦略を扱う重役会議で、会議内容は極秘だ。とはいえ事務局がすごいわけではないのに、堀内さんは大袈裟に目を丸くしてみせた。表情の作り方にわざとらしさを感じてしまうのは、私の心の問題だろうか。
「ああいう会議って情報の扱いが大変そうですね」
「そうなんです。私たちは守秘義務の誓約書を書かされるぐらいですから」
〝私たち〟とわざわざ東条主任との連帯表現を入れたのは、私のくだらない意地だ。でも、共有することが仕事しかないのがかえってみっともなくて、言ったあとで自己嫌悪に陥る。
「ちょっと失礼しますね」
それでも東条主任との仕事は私の聖域だ。これ以上は話す必要もないので、私は彼女に一言断ってから歯磨きを始めた。
しばらく嫌な沈黙が続く。彼女はここに何をしに来たのか、出ていく気配もなくスマートフォンを取り出していじり始めた。私が歯磨きを終えて会話を再開できるまで時間を稼いでいるようにしか見えず、だんだん腹が立ってきた。五階トイレは我々作業服女子の貴重な休憩場所だ。早く出ていってよと、意地になって歯を磨きまくる。
ところが堀内さんは涼しい顔で、もう直す必要もないぐらい綺麗なメイクにさらに手を加えたあと、髪を丁寧にブラッシングし始めた。
磨きながらつくづく思う。鏡って残酷だ。向かい合っていると相手しか見えないのに、こうして並ぶと二つの顔の造作の違いを嫌というほど自覚させられる。
しばらくしても堀内さんが出ていく様子がないので、私は諦めて先に撤収すべく口をすすいだ。しかし、彼女はそれを待っていたのだろう。それまで黙っていたのに急に口を開いた。
「あの……東条主任からお聞きになってますか?」
何を? 肝心な部分を意味ありげに伏せた聞き方に内心苛立った。鏡の中の堀内さんは可愛らしく小首を傾げて私を見つめている。茉由子が同じ聞き方をしたなら何も思わなかっただろうに、堀内さんだとどうしてこんなにいやらしくなるのだろう。そして、その苛立ちは次の言葉で衝撃に変わった。
「私たち、将来の話をしてるんです。江藤さんはもうお聞きになったかなと思って」
やはり鏡は残酷だ。奥深くに隠した本心も一瞬の動揺も、すべてを赤裸々に映し出す。鏡に映る二つの顔の色は、明らかに勝者と敗者のそれだった。
私の表情の微細な変化も逃さず捉えようとする意地の悪い視線から逃げも隠れもできず、必死の演技で口を開く。
「あ……聞いてなかったですけど、おめでとうございます」
「えっ、お聞きになってなかったんですか? ごめんなさい、フライングしちゃった」
堀内さんと一緒に笑おうとしたが、鏡の中の私は到底笑顔に見えなかった。
「江藤さんは大事な仕事仲間だから、真っ先に報告してるかなって思ってました」
持ち上げているようで、さりげなく言葉の端々で私の立ち位置を強調してくる。それには答えず、鏡から顔を逸らしてポーチに歯ブラシを押し込んだ。
「そういえば彼、最近の江藤さんは元気がないって心配してたから、プライベートの報告は遠慮してるのかも」
この会話を切り上げるにはもうここを出るしかない。
しかし、トイレを出ようとする私に彼女も歩調を合わせてついてくる。私は意地を振り絞って笑顔を作った。
「仕事で色々あった時ですかね? 今は全然、元気ですよ」
「そうなんですか? 良かった」
堀内さんは肩をすくめて微笑み、じっと私の目を見つめた。
「元気がないって聞いて、もしかして私、江藤さんに無神経なことしちゃったのかなって……」
やはり私の東条主任への気持ちを見抜かれていた……? 私のプライドの一番大切な部分が暴き出されたような気がした。
「まさか、違いますよ、そんなことあるわけないじゃないですか」
はっきり言われる前に否定してしまったのでは、かえって認めたようなものだ。わかっているが、堀内さんの狡猾な誘導に耐える余裕がなく、苦し紛れに言葉を連ねる。
「東条主任は上司ですから」
「ですよねー」
しかし語るに落ちる状況に耐えられなくなり、廊下に出たところでついに自分の限界を悟った。
「あ、すみません。リップ塗るの忘れちゃったから戻ります。じゃあここで」
彼女の目を見ずに笑顔を作り、踵を返す。わざとらしくてももう構わない。
ところが、堀内さんははるかに上手だった。
「そうだ、江藤さん」
これで解放されると思ったのも束の間、離れるかに思えた足音が軽やかに翻ったのと同時に、腕に甘い香りが巻き付いた。
「さっきの話、彼には内緒でお願いしますね。フライングしたのがばれたら怒られちゃう。ふふ」
小声でさらなる毒が流し込まれた。
「じゃあ、またお話ししてくださいね。楽しかったです」
耳元の甘い声と巻き付いていた腕がふわりと離れ、優雅なヒールの靴音が去っていく。残り香を纏う腕を、痛みを感じるほど強く擦った。
午後の始業間近な廊下は人通りが多かった。涙腺が崩壊しそうな顔を上げることもできず、私は俯いたままトイレに戻った。
第三章 冷徹男の救いの手
眠い。……眠い。ものすごく、眠い。
数日後、金曜日の午後四時。私はマーケティングセミナーに出席するため、大手リサーチ企業のオフィスビルを訪れていた。さすが一流企業で、経費削減で空調を抑えているうちの社と違い、最上階にあるセミナーホールは暖房がほどよく効いている。
例によってこの日も徹夜で企画書を仕上げた私の瞼は鉛のように重く、何度持ち上げても落ちてくる。
うちの部署には事務職がいないので、諸々の雑用は若手だからという理由で──暗黙には女性だからという理由ですべて私がやっている。今週はそうした雑用が集中していて、自分の仕事の持ち帰り残業が多かった。セミナーで眠気に襲われないよう、普段は苦すぎて飲めないブラックコーヒーを無理して胃に流し込んできたのに、溜まった疲労には焼け石に水だった。
寝てはいけない。聞いていないと報告書を書けないのだから。
しかし目を皿のように開いて必死にメモを取っていても、文字も音声も頭に入ってきてくれない。
このマーケティングセミナーは様々な業種の企画担当者がヒット商品の開発体験談や開発手法などをレクチャーするもので、月に一度開催されている。元々は東条主任と一緒に参加していたが、先月からは私一人だ。だから責任重大だというのに、この眠気では報告書が危うい。受付で渡されたレジュメに目を凝らし、何度も手の甲をつねった。
セミナーを主催しているのは人材開発からコンサルティング業、情報サービスまで多岐にわたって事業を展開している大手企業グループだ。あの皆川佑人が所属している会社でもある。つまり、ここにいると彼と遭遇する危険が非常に高いということだ。
それなのに、今日は茉由子から例の皆川情報が入ってきていない。うちの会社にいるのか、他のクライアント先を訪問しているのか、それともこのビルに潜んでいるのか、彼の所在は不明だ。
だからこのビルに入る時はまるで敵地に潜入するようで、かなりびくびくしてしまった。うちの社と違って全員スーツ男子なので、遠くからでは見分けにくいのだ。
しかし彼がコンサルティング部門の人間ならばマーケティングセミナーとは無関係だろうし、このホールにいる限りは安全に違いない。
そう考えると余計に瞼が重くなる。何度も首がかくんと折れ、慌てて頭を起こすこと数回。ペンを落としかけては握り直し、自分を叱咤して必死にメモを取る。セミナーは中盤にさしかかっており、ここからが講演の山場のはずだ。しかし、昨夜だけでなくここのところずっと持ち帰り残業で過労だった私は、ついに力尽きてしまったらしい。
「終わりましたよ」
誰かが遠くで何か言っている。
〝着きましたよ〟なら、何度か言われた経験がある。徹夜が続いた週の後半、帰りの電車で運良く座れた時などは特に危ない。県境をはるかに越えた終着駅の風景を私が知っているのはそのせいだ。
(え……〝終わりましたよ〟?)
頭の隅で鳴り響くただ事ではないという警告にはっと目を開けると、そこは電車ではなくセミナーホールだった。満席に近かったホールにはもうほとんど人の姿がない。
「もうすぐ空調が切れますので」
頭上で響くこの声には聞き覚えがある。ほとんど確信に近かったが、別人であることに一縷の望みをかけて、身を縮めながら怖々と視線を上げる。
よりにもよってこんな場面を見られてしまうとは。冷ややかに私を見下ろしているのは、隣の机に寄りかかって腕組みをした皆川佑人だった。
「すっ、すみません」
慌ててノートと筆記用具を片付け始めたが、そうしている間に立ち話をしていた最後の数名がセミナーホールを出ていってしまった。
「僕が施錠します。クライアント先の方ですので、少し話を」
ばたつく私の頭上で彼の声がした。私ではなく、出席者を見送るため出口で待機しているセミナーの担当者に言ったらしい。
「わかりました。では、よろしくお願いします」
女子社員のしとやかな声が返ってくる。行かないでという私の心の叫びが届くはずもなく、私たち二人を残してドアは恭しく閉じられてしまった。
静まり返った広いセミナーホールに二人きり。聞こえるのは空調の音だけだ。
「……申し訳ありません」
蚊の鳴くような声で謝り、身を縮めて断罪の時を待つ。会社の貴重な経費で参加させてもらっているセミナーで居眠りするとは。仕事で徹夜続きだったというのは言い訳にできない。そもそもそれ以前に、破廉恥な醜態を晒して逃げた前科もある。きっとここでは皆川氏から遠回しに警告を受け、後日部長からお叱りを受けるか、最悪の場合は〝明日から来なくていいよ〟的な意味合いの通告を受けるのだろう。
「江藤奈都さん、ですね」
彼がいきなり私の名前を口にした。
「……はい」
やはり面が割れていたのだ。警察に逮捕状を突き付けられた犯人のように観念して項垂れる。
「申し遅れましたが、皆川です。僕がいることに驚かれたようですが、こういったセミナーの講演者の選定にも関わっているので」
怒っている様子ではないが、それがかえって恐ろしい。あの夜を共通の認識としながら、触れそうで触れてこないところも。
「本当に申し訳ありません……」
「いいえ。参加費用は貴社よりきちんと頂戴していますから、それをどうなさるかはご自由です」
私の頭がいよいよ下がる。誰がどう聞いてもこれは嫌味だ。私たちのような管理部門は特に、コストに対する意識が甘くなってはいけないのに。
「それより、困るのでは?」
彼はそう言って、私が握り締めているノートを指差した。報告書を書けるのか、という意味だろう。メモを取れたのは中盤までで、終盤の結論が抜けている。
「大丈夫です! レジュメを見て何とか……」
そう言いながらレジュメを開いた私の言葉はそこで止まった。
講演者によってレジュメの作り方は様々だ。内容を詳しく書く人もいれば、見出しタイトルのみで、詳細はすべて口頭で語る人もいる。今日の講演者は後者だった。ホッチキスで綴じられた数枚はほとんどがメモのための余白で、〝ヒット商品の芽とは?〟というような見出しだけがまばらに並んでいる。
「今日の方は慣れておられて、聴衆の反応によって内容を自由に変えるんですよ」
「…………」
追い討ちをかけるような言葉に黙り込む。結論部分がなければ、報告書の意味がない。
「報告書は……無理みたいです……」
ついに私は小さな声で正直に認めた。リストラの鬼の前でこの体たらくでは、もうおしまいだ。
「ク……クビですよね……」
たとえそうでも、こんな情けない仕事ぶりで最後になるのは悔しすぎる。
「最後に報告書だけはちゃんと仕上げて提出したいです。できればあの、終盤の内容を……」
どうせクビになるならと捨て身で縋る。しかし〝教えてもらえませんか?〟という言葉は口の中で不明瞭に消えた。どう考えても虫が良すぎるだろう。私がもたもた喋っている間、ずっと彼が黙っているのは呆れ返っているからに違いない。
ところが、彼が発したのは意外な言葉だった。
「何か勘違いをされているようですが、僕の仕事はだめ社員を見つけて、一人一人首を切って歩くことではありません」
思わず顔を上げた私は氷のように光る銀縁眼鏡に慄き、また俯いた。ならば職務は何ですか、とは怖くて聞けない。〝だめ社員〟と揶揄されたことに、一瞬遅れて気づいたのもある。
「まあ、組織の改変は遠からずそのような結果を生むかもしれませんが」
要はそんなみみっちい仕事ではないと言っているだけで、首切り人であることに変わりはないようだ。そこで突然話題が変わった。
「ICレコーダーはお使いではないのですね」
「セミナーは録音しないんです。その時間に集中すべきだと上司が言っていたので」
それでこのザマなのだから我ながら〝どの口が〟だ。
会議では議事録を正確に作成する必要があるので必ずレコーダーを使う。しかし商品開発セミナーの目的は正確さではなく、その場で得られるインスピレーションだ。だから東条主任は、こうしたセミナーではレコーダーを使わない主義だった。
「僕もそう思います。その場の空気で聞くのが一番ですから」
同意されている形だが、貴重なものを無駄にしてしまった自分の失態に改めて落ち込んでしまう。
ところが、ここで彼は思わぬ助け船を出した。
「ですが、事務局では記録のため録音しています」
そう言って彼は小さなレコーダーを私の机に置いた。暗闇に一筋の蜘蛛の糸。私も単純なもので、項垂れていた顔が途端に上がる。
「ただ申し訳ないのですが、規則で社外への貸し出しはできません。このあとは帰社予定ですか?」
「いえ、直帰です」
「でしたらこの場所をそのままお使いいただいて結構ですので、良ければお聴きください」
「は……はいっ! ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げた私は、隣の椅子の背もたれに額をぶつけてしまった。
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◆◇◆◇◆◇◆
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