完璧な生徒

真鉄

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――どうしてこんなことになっているのか……。

  後ろ手に拘束された状態では、額や腋窩えきか鳩尾みぞおちの辺りからぷつぷつと湧く嫌な汗を拭うことすらできやしない。顎先から滴り落ちた脂汗が、俺の脚の間にひざまずく城沢の目の前を通り過ぎ、便器の中に溜まった水に波紋を描き出す。

  熱病に浮かされたような城沢の大きな瞳は、表情の変化を何一つ逃すまいと言わんばかりにじっと俺を見つめていた。

――ああ、どうして……。


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「――まあ、何はともあれ入学おめでとう」

  俺はそう言うと、目の前の元教え子を感慨深く見つめた。制服ではないカジュアルな私服姿が目新しく、改めて眩しく思えた。

  城沢昴という少年は、俺が教師になってから出会った中で、最も優秀な生徒だったと言っても過言ではない。成績は全教科トップで、俺の勤める公立学校から輩出された数少ない一流大学進学者。バスケ部ではキャプテンを、生徒会では副会長を務めた。

  更に爽やかなイケメンで、協調性が高く穏やか。そして、当然のように可愛い彼女もいるという、天は二物を与えずとは一体何だったのかと思わざるを得ない傑物だ。……こうして思い返してみると、本当に、いつ勉強する暇があったのだろう、と首を捻らざるをえない。

「ありがとうございます、先生。どうぞ、一杯」

  城沢はにっこりと笑うとキンキンに冷えたビールの栓を開け、俺の前に置かれたグラスになみなみと注いだ。汗をかいたコップを片手に、城沢がこの春から住んでいるという室内を見回す。一人で住むには寒々しいとも思えるほどに広い高級マンションだ。正直、俺のアパートよりも広くて綺麗だった。

「でも、あの大学、お前の実家から近いだろ?  何もわざわざ一人暮らしをしなくてもいいんじゃないのか?」
「一人暮らしとは言っても、このマンションも親の持ち家の一つですから」

  城沢はそう言って自嘲気味に笑った。俺は思わず溜め息をついた。そうだった。その上、ご両親は医者で家は金持ちなのだった。最初はこんな子がどうして特に進学校でもない、平均レベルの公立高に来たのか不思議に思ったものだ。

  一気にコップを空にすると、すかさず城沢がおかわりを注ぐ。細やかな気配りも忘れない。本当に少し前まで高校生だったのかと疑いたくなるほどにそつがないが、泡ばかりのコップを見るにお酌に慣れているわけではないのが見て取れた。ちらりと本人を見ると、ジンジャーエールを片手に綺麗な笑顔を俺に向けた。改まって頭を下げてくる。

「先生、今日は来てくださってありがとうございます」
「約束しただろ?  まあ、本当に呼んでくれるとは思わなかったけどな」
「色々と準備を整えていたら入学式が終わっちゃいました。遅くなってすみません」

  入学できたらお祝いしてくれませんか。大学入試の前に城沢はこっそりと俺に言った。おかげで、お高めの昼食を奢り、城沢の新居に場を移して、こうして真昼間からビールとジンジャーエールで乾杯しているというわけだ。

  教師として、えこひいきはよろしくない。それは分かっていたが、三者面談のときのひどく投げやりな城沢の母親の態度を思い出し、可哀想になって俺はつい頷いてしまったのだ。

  あの時会った母親は、どうやら典型的な長男信仰のようで、三男である城沢のことにはまるで興味がないといった顔をしていた。進学先に関しても、そうなの、まあ別にいいんじゃないの、と今初めて聞いたといった様子で頷くだけ。一流大学の中でもトップクラスの学校だというのに驚き喜ぶ様子もなく、とは言え医学部ではないことに怒り嘆く様子もなかった。放任主義というよりは、俺の目には育児放棄ネグレクトにすら見えた。だから、親代わりと言うにはおこがましいが、俺で良ければ祝ってやろう、とそう思ったのだ。

  この全てが完璧な少年は、なぜか俺によくなついていた。バスケの顧問で三年の時の担任だったのだから当然といえば当然なのかもしれない。それに他の生徒たちの態度を見ていても、教師陣の中でも年若な三十代前半の俺は取っつきやすいほうなのだと思う。

  それでも、先生、先生、と出会えば話しかけられ、こう言ってしまうのも何だが、現国なんて読解力のある子にはつまらない授業もきちんと真面目に聞き、時には授業内容の質問をしてきたり、話の弾みで小説の貸し借りなどもした生徒は城沢が初めてだった。俺の誕生日のプレゼントをクラスの代表として渡されたときなんかは、恥ずかしながら感激で少し涙ぐんでしまった。授業や行事で特別扱いをしないようには努めていたが、はたから見ればえこひいきと言われても仕方がなかったかもしれない。だが、教師はおろか生徒からすらもそう糾弾されたことはなかった。城沢は特別待遇が当然だと周囲が自然と思えるほど、それだけ「完璧な生徒」だったのだ。

「……しかし、お前ももう大学生かぁ。色々と感慨深いなぁ」
「色々ありましたね。弁論大会で遠征したときのこと、覚えてますか?」
「あれなぁ。俺、実は初めての大阪だったんだよ」
「実は、僕も行事以外で初めての外泊でした。……あ、弁論大会も行事と言えば行事でしたね」

  当時を思い出したのか、ふふ、と城沢は楽しげに笑った。

  城沢が二年生の頃だったか、弁論大会に応募したいと俺に打診し、仕上げてきた原稿の内容を添削したり話し合ったりしたものだった。本番では、それは見事に聴衆に語りかけ、結果は見事優勝。その表彰が主催の新聞社の本社がある大阪で行われるというので、わざわざ新幹線に乗って二人で休日に遠征したのだ。あの時、宿泊費などは学校側が出してくれたが、最低限の出費で留めるように釘を刺され、男二人で一部屋に泊まらされた。まあ、未成年を一人で泊めるわけにもいかないし、仕方のないことだろう。土産を買うときにやたらと楽しそうだったのはそういう事情があったのか、と俺は少ししんみりした。みんなから好かれる「完璧な生徒」でも、庇護者からの愛情には飢えているのかもしれない。

「で、どうだ?  大学の方は」
「始まったばかりですからまだよく分かりませんけど、一限の授業を詰めちゃって朝起きるのが大変です」
「大学の一限って、そういややたら早かったよな」

  他愛のない世間話をしながら城沢の顔をつくづくと眺めた。

  正直言うと、城沢が卒業してしまって少し寂しかった。

  彼のように存在自体が華々しく、しかも自分に何かと懐いてくれるような生徒は今までにいなかったし、少なくとも今年度の受け持ちには見当たらない。みんな似たような顔をした平凡な子たちばかりだった。もちろんそれが悪いというわけではない。

  一人の人間として――ただ、寂しかったのだ。

  今までに何度か卒業生を見送ってきたが、学校という小さな箱庭の中でほぼ毎日のように顔を合わせていた存在が卒業していなくなる、ということにここまで感傷的になったことはなかった。城沢には教師と生徒と言うよりは、一回りほど歳の離れた出来のいい弟のような感覚をいつに間にか覚えていたのだ。卒業生にとって俺たち教師など、記憶に仕舞われた箱庭の中の書割のひとつに過ぎないと言うのに。

「――先生?」

  呼びかけられて、はっと我に返った。本人が目の前にいるというのに思い出にひたっていたようだ。城沢が少し困ったような顔で笑っていて、俺は照れ隠しに少しぬるくなったビールを一気に呷あおった。身体がほかほかし始めていた。酔いが回りつつあり、ふわふわとして気持ちが良い。俺は思わず、だらしなく頬を緩めた。

「昼間から般若湯はんにゃとうを聞こし召し――ご機嫌なようで何よりです」

  澄ました顔で雅な揶揄を繰り出す城沢に、俺は上機嫌に笑った。

「何とでも言え。大人の楽しみってやつだ。それに仮に宿酔ふつかよいになっても、明日は何の予定もないから問題ないさ」

  さすがに他人の家で泥酔する気はないが、俺はそううそぶいた。そんな俺を城沢が大きな瞳で何かを探るようにじっと見つめている。

  皮膚がさわりとさざめいた。前々から、城沢は俺のことをこうやって奥の奥まで観察するような眼で見てくることがある。そうすると俺は、丸裸にされたような、妙にそわそわした気持ちになってしまうのが常だった。圧に負けて、ふと目を逸らす。

「先生、お酒強いんですか」
「いやー、普通だな。酔って気持ちよくなって寝るタイプだ」

  目を上げると、城沢はいつもの微笑を浮かべていて、俺は軽く安堵の息をついた。

「お前は……分かるのはこれからか。酒が飲める歳になったら、いつか飲みに行こうな」
「――はい!」

  ああ、これはおっさんが若者によく言うありがちな台詞だな、などと瞬時に反省したが、城沢があまりにも嬉しそうな顔をするものだから不問にすることにした。綺麗な顔が更に輝いていて、酔いのせいもあって胸があたたかくなった。ありがちな台詞が陳腐化するには、そうなるなりの良さというものがやはりあるのだ。

「サークルとかで無理に飲まされたりするなよ。急性アルコール中毒で搬送、とか聞くだろ」
「サークルに入るつもりは今のところないんですけど……まあ気をつけます」
「バスケは?  もうやらないのか?」

  あれだけ熱心にやっていたのに、と俺は目を丸くした。遅くまでシュート練習をしているのを見つけ、早く帰るよう指導したことも何度もあった。あまりに遅いので、車で自宅まで送ってやったことも二度や三度では済まないだろう。城沢は困ったように笑った。

「バスケが好きというよりは、部活が楽しかっただけなんで……。先生は?  相変わらず生徒と一緒に筋トレしてるんですか?」
「おう、やってるぞ」

  俺は笑って分厚い胸板を叩いた。本を読むのも好きだが、身体を動かすのも同じぐらい好きだ。だが、家に帰ってから筋トレ、となると時間を捻出するのが難しい。校内活動時間中にできるのならそれに越したことはない。それに、指導する立場の者が率先してやれば、生徒たちもそうそうサボれないものだ。

「僕、初めて先生を見たとき、体育の先生だと信じて疑いませんでした」
「ああ、よく言われる」

  俺は苦笑した。だが、もう三十も過ぎたが、まだまだ体型が維持できていることは、実はちょっとした自慢でもある。例えば目の前の城沢に比べれば、背の高さは似たようなものだが、体格は一回りはがっしりとしているはずだ。まあ、女性の目には、顔を抜きにしても城沢のようないわゆる細マッチョ体型のほうが好ましいのだろうが、そもそも骨格からして違うのだ。前向きにも後ろ向きにも筋肉をつける方向に行かざるを得ない。

「先生、どうぞ」
「おう、ありが……何だこれ?  黒ビールか?」

  差し出されたコップの中には濃い茶色の泡立った飲み物が入っていた。城沢が半分空けたコーラの缶をちゃぷりと振って笑う。

「これとビール、混ぜちゃいました。でも僕、まだ飲めないんで先生飲んでください」
「食べ物で遊んじゃいけないと――お、これ美味いな」

  意外にも苦さと甘さがいいバランスで、妙なクセはあるものの、苦もなくぐいぐいと行けた。何だか頭がほかほかふわふわする。空になったコップを差し出すと、城沢は嬉しげに笑い、新たに飲み物を作り出す。缶からビールを注ぐ指は、長くて綺麗な形をしていた。特に爪の形がいい。長方形でピンク色の、ほどよく三日月のある、短く切りそろえられた綺麗な爪だ。いいな、俺の手は何だか手の甲と掌の境目が黒パンみたいであんまり好きじゃないんだよな――。

「――先生?」

  ぐらぐらと視界が揺れた。倒れかけた俺に腕を伸ばした城沢の顔が間近に迫る。くっきりとした二重に、目尻へと流れる長い睫毛の下、城沢の黒い瞳がじっくりと俺を観察している気がした。

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