遊牧少年、シャンバラを征く

土ノ子

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子殺しの《悪魔》

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 それからしばらくの間、カザル族は平穏に過ごしていた。
 ジュチは族長家の天幕に赴いて朝から夕まで働きづめ、日が暮れる前にバヤンから渡された働き分の分け前を土産にツェツェク達のいる天幕へ帰る。モージとツェツェクは日々生きるために過ごしながら、《舞い手》としての技量を高めるため修行に精を出す。

「ケホッ…」

 始まりは族長家の末妹トヤーが零した小さな咳だった。

「どうした、何処か悪いのか?」
「んっ…。ちょっと喉が痛いの…ちょっとだけ」

 たまたまその場にいたジュチが心配そうに声をかけると、トヤーは何でもないと首を振った。その顔色を見ても病気らしき兆候はない。咳もたまたまかと流し、特に思うことはなかった。そのまま何事もなかったように仕事に戻ろうとするが、視界の隅で動いた異物に注意が向く。

「ん…?」
「クル……クアァァァァァ―!!」

 いつもはジュチの周囲で寝そべるばかりの火蜥蜴が珍しくと体を起こし、ジュチめがけて大きな鳴き声に合わせて視界が真っ赤に染まるほど多くの火の粉を吹きかけてきた。

「熱っ…くないけど、いきなりなにすんだお前は!?」

 ジュチ以外の誰にも見えずほのかな熱を周囲に振りまいた幻想の炎は一瞬で掻き消え、余韻のような温もりだけが残った。突然の奇行に下手人を当然問い質すが、後に残るのはいつも通りのんびりとした様子の珍獣とジュチの大声に向けられた訝しそうな視線だけだ。
 相変わらず訳が分からん奴、と胸の内で呟きながら向けられる視線に何でもないと手を振る。そのまま言いつけられていた手仕事を再開し、その日はそれ以上何も起こらずに終わった。

「……おい、本当に大丈夫か?」
「どうだろ…大丈夫、かな?」

 だが日が経つに連れてトヤー以外の子ども達に似たような咳をするものが現れ始め、遂に今日トヤーが倒れたという知らせが部族の巫女であり医者であるモージの元へと届いたのだった。老女は報せを受けるや急ぎ族長家の天幕まで牝馬を駆けさせ、トヤーの元へと駆け付けた。

「これは…」

 そのまま横たわるトヤーの病状を診たモージが額に手を当て、絞り出すように見立てを告げた。

やまいだ…。この子は《子殺しの悪魔アダ》に取り憑かれてしまった」

 トヤーが倒れたという報せを聞いて集まった周囲の人だかりが、とどよめく。それは悲嘆であり、警戒であり、憐憫だった。
 《子殺しの悪魔》と名付けられた病はその名の通り、子供が主に罹患しけして低くない致死率を誇る草原の病である。その忌み名を耳にした者たちがネガティブな空気を醸したのも当然であった。

「モージ、それは……本当なのかい?」
「ああ、残念ながらね。だがまだ気を落とすには早い、《悪魔》に憑りつかれた者が皆命を落とすわけじゃあない。尽くす手はまだまだあるんだ」
「……頼むよ、モージ。あんたしか頼れないんだ。私に出来ることなら何でも言っておくれ」

 沈痛な顔をして頭を下げるバヤンもこの時ばかりはいつもの豪放磊落さは影を潜めていた。その縋りつくような頼みにモージは胸を張って頷いた。

「もちろんだよ、バヤン。部族の子はみな私の子だ。決して諦めないさ」
「ありがとう、恩に着るよ…」
「辛気臭いねぇ、らしくもない。あんたはいつも通り胸を張って子どもの面倒を見ているだけでいい! 後のことは私に任せておきな」

 何でもないことのように胸を叩いて請け負うモージは流石部族の長老にして巫女を務める女傑に相応しい頼もしさがあった。とにかく堂々と胸を張って喋り、安心感を与える語り口なのだ。

「ひとまず私の天幕ゲルに戻って、取り急ぎ必要なものを取ってくるとしようかね。ジュチも手伝いに使わせてもらうよ。それと天幕ゲルをここのもっと近くに移したい。すぐに動ける若い衆を見繕っておいておくれ」
「ああ、任せておくれ。すぐに人を遣るとしよう」
「それじゃ、ジュチ、天幕まで急ぐよ」
「了解」

 モージの呼びかけに短く応えを返し、すぐに天幕の外に繋いである牝馬と大角エウェルの手綱を引いてモージの元へと連れていく。二人はそのまま鞍に跨ると天幕へ向けて乗騎を駆けさせ始めた。
 その疾走の中ジュチは一人静かに今回の一件に感じた違和感の源を探ろうと思考を回していた。

(病…? 一体どこから来た?)

 ジュチが考えたのは感染経路だった。感染症が前触れもなく突然流行することはない、目立たず見落としてしまったのだとしても前兆となるがあったはずだった。故に前世の知識がこの状況の訝しさを感じていた。ここしばらくカザル族と外部の人間の間に交流が持たれた記憶はない。数か月前に言葉を交わした他部族から持ち込まれ、この時まで潜伏していたと考えるのは奇妙に思える。

(いや、ボルジモルとのいざこざがあった…。でもアゼルは馬を分けたらすぐ離れたって言ってたよな?)

 それに他部族と緊張した状態のまま話し合う場面で馬から降りるとは考えにくい。警戒して互いに距離も取っていたのではないだろうか…。もちろん後でアゼルに確かめる必要はあるが、この考えが正しければ人から人へ感染したとは考えづらい。

「モージ、《子殺しの悪魔》ってどんな病なんだ?」
「お主…。良かろう、話してやろう」

 モージを乗せた牝馬と並走しながら手掛かりを求めて問いかけると、老女は若干の迷いを見せたあとに淡々と知識を与えてくれた。
 この病に罹った者は全身の倦怠感と微熱、食欲不振が長期的に続く。罹り始めは風邪に近い症状だが、徐々に空咳が多くなり、遂には吐血する。吐血に至るまで重症化すると治癒は困難となり、大体は死に至る。重症化するまでに自然治癒する者はモージの経験則では概ね七割程…。
 子殺しの忌み名は厳密に言えば子供に加えた老人や病人など体力の低い人間がかかりやすいのだが、真っ先に罹る子供が目立つためだ。

「厄介なのは病が広がる早さだ。気付けば病に憑りつかれた者と全く関わりの無い者さえ同じように憑りつかれていることがある」
「……治すにはどうすれば?」
「……養生することだ。精を付け、身体を休めるのが最も確実に快復が見込める」

 何故かやけに苦々しい顔をしたモージがジュチを見ていたのが印象に残った。少なからず違和感を感じたが、実際下手な民間療法に頼るよりもモージが言う通り養生する方がよほど快復には効果があるのは確かだろう。

(…病に罹った人間は出来るだけ隔離したいところだけど、出来るか? 大体何を根拠にどんな風に皆を動かす? 俺自身どれくらい効果があるかも分からないのに? 困ったら助け合うのが部族の掟で、誇りだ。病人の看病に物々交換、労働力の貸し出しとかのやり取りを断ち切るのはどうやっても起こるだろ)

 今回一人目の罹患者であるトヤーが暮らすのは当然族長ソルカン・シラが家長を務める天幕だ。まとめ役である族長の天幕だけあって、ジュチがいた期間だけでも多くの部族の者たちが顔を出していた。そこから感染が広がっていったと仮定すれば、最早誰が感染者予備群で誰がそうでないのか確かめようがない。
 特に厄介なのがこの病がと認識されていることだ。恐らく健康な大人は罹患しても症状が出ないだけで、保菌者キャリアとして感染を広げてしまうことは十分に考えられる。

(…防ぐのは相当難しいぞ、これ。前世二ホンじゃどうやって対処してたんだ?)

 感染爆発パンデミック、ウイルス、隔離政策などなど無数の言葉が脳裏を過ぎるが、いずれの知識を追っても具体性に欠け、実効力は期待出来そうにない。

(クソ、前世なんてもの思い出したところで肝心な時につっかえねー! ああもう、ヤメだ。感染を止めるのは無理だ、諦めよう)

 かける労力の割に成果が期待できない。出来るかどうかも分からない最善策よりも対症療法程度でも良いのでやれることを一つでも多く考えて実行に移すべきだ。衛生観念、手洗い消毒、経口補水液など前世ではごくごく基本的な知識だが、やるかやらないかで同じ病気にかかった人でも回復の度合いに相当な差が出ていたはずである。《悪魔》退治の特効薬にはならなくともそれなりに有効なはずだ。
 だがその実行にあたって問題点も一つあった。

(俺がそれを口にして、誰が従ってくれる? 誰もいないだろうな。賭けてもいい…あ、ツェツェクがいたか)

 例外が一人いたが、この場合一人いたところで大差はない。
 命の懸かった問題なのだ。そうした反発や疑問を黙らせるほどの権威や説得力をジュチが持ち合わせているはずがない。
 そのとっかかりとして期待できそうなのは……モージぐらいだろう。止むを得ない、子どもは黙っていろとの叱責を覚悟で自分なりの考えを口にする。

「モージ!」
「なんだい?」
「……トヤーは倒れるまで元気そうだったけど、その数日前から頻繁に咳をしていた。多分咳が《子殺しの悪魔》のかかり始めに出る症状なんじゃないかな」
「……続けな」
「だから咳をしている子供には特に注意して、気付いたら仕事も休ませよう。兄弟がいたらそいつも同じようにするべきだと思う」
「ふ、む…」

 所詮は対症療法に過ぎないが、仕事で消費する体力を温存できる分多少は効果が見込めると考えられる。果たしてモージの反応は、と鞍の上で揺られながら器用に横目で様子をうかがうと逆にギョロリとしたおっかない視線が向けられた。

「それだけかい?」
「それ、だけ…?」

 病に対する祈祷・治療も司る巫女モージの職分に対し、我ながらかなり踏み込んだ発言をしている自覚があるだけにその返しは予想外であった。

「いいかい、出し惜しみは無しだ。絞れる知恵があるなら、頭が割れるくらい絞り出しな」
「―――分かった」

 容赦なくお前を使い倒す、あるいはという端的なメッセージにジュチは一言、諾と返す。
 そして思いつくままにひたすら感染症対策に使えそうな知識を吐き出し続ける。それは二人が自らの天幕に辿り着き、驚くツェツェクを落ち着かせ、かき集めた物資一式を持って族長家の天幕へ取って返す道の半ばまで続いたのだった。
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