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2.奇妙な雑貨店
しおりを挟む――ようこそ、雑貨店【Glace】へ
そう言って微笑む女性のあまりの綺麗さというか、絵になるその様に、俺はしばし呆けたように見惚れていた。
「さ、こちらへどうぞ」
と、女性が店の扉に向かいかけた時になってようやく俺ははっと我に返った。
「あ、いや、えっと……俺、その猫が木から降りられなくなってて、そんで降ろしただけなんですけど……っ」
何か言わないとという気持ちが逸ったせいで言葉が上手く出てこない。女性の腕の中にいる猫を指さし、しどろもどろになりながら言うと、女性は驚いたように軽く目を見張った。
「そうだったの? メル、あなたまた高いところに登ったのね?」
もう、自分で降りられないんだから気をつけてっていつも言っているのに、と女性が困ったように腕の中へ視線を落とす。当の本猫はフニャッとひと声上げただけ。あまり反省しているようには聞こえなかった。いや、猫の言葉などわかるはずもないのだが。
今までの流れから察するに、この女性が猫の飼い主で間違いないだろう。女性は愛おしそうに猫を抱えているし、猫自身も女性に相当懐いているように見受けられた。
「あー、それで、なんかここに連れてこられた感じで……信じられないかもですけど」
後半になるにつれて声が小さくなっていく自覚はあった。言っていて、自分でもおかしく思えたのだ。
連れてこられた、だなんて、よくよく考えればあり得ないだろう。全部自分の勘違いだったのかもしれない。あの猫には実はそんなつもりはなく、俺が勝手にそう解釈して、つけてきてしまっただけなのではないだろうか。なにせ、俺は別に猫とか動物の言葉がわかるわけではないのだから。
「なんで、その、目的があってここまで来たわけじゃなくって……あ、失礼だったらすんません」
今になって自分の行動に疑念が差す。まずい、おかしな人間だと思われたらどうしよう。なんだか気まずくなってぺこりと頭を下げ、ちらと女性の顔を窺う。
しかしそんな俺の心配とは裏腹に、女性はただ一言そうと呟いた。そこに、俺に対する不信感などの色は感じない。むしろ、俺の言葉をすんなりと信じ、受け入れてくれたかのようだった。
「それがあなたの意志なのね?」
女性の紡がれた言葉は、俺に向けられたものではない。目線は再び、腕の中の小さい生命に落とされている。
猫が再びフニャッと鳴く。さっきとは違い、なんだか力強い声音のように感じた。これはおそらく気のせいではないだろう。
「――わかった」
女性がこくりとひとつ頷く。そうして、女性は顔を上げて俺をまっすぐ見つめた。
「よかったら、少し寄って行って? メルを助けてくれたお礼がしたいの」
女性が扉に手をかけて押した。すると、カランッというドアベルの軽快な音が微かに響く。まるでグラスに入った氷同士がぶつかり合ったかのような音だ。
どうぞ、と女性がこちらを振り向く。その様もなんと絵になることか。
なんて、女性に目を奪われてやや反応が遅れてしまったせいで断るタイミングを完全に見失い、俺は誘われるがままに【Glace】へと歩を進めた。
扉をくぐり、店内に足を踏み入れた瞬間、なんとも形容しがたい不思議な感覚が一瞬だけ身体に走った――気がした。
思わずキョロキョロとしてしまうが、今は特に何も感じない。身体に異常もなく、至って普通だ。
気のせいかと思い直し、改めて店内を見渡す。ショーウィンドウと同じく中にも棚が数台置かれ、その上に数多くの雑貨が並んでいた。
あまり統一感がないような印象を受ける。しかし、雑多なように見えて小綺麗さもまた感じる。どうにも不思議な感覚だ。
「ここに座って」
室内の端のほうに丸テーブルが置かれていた。椅子が二つ対面に置いてあるのを見るに、二人掛けテーブルのようだ。
片方の椅子を引かれたため、俺は失礼しますと一言言って着席する。すると、女性はちょっと待っててと言って奥に引っ込んでいった。
それをぼけっと眺めていると、突如目の前に黒いものが現れた。
「おわっ……ってなんだ、お前いたのか」
例のオッドアイの猫だ。いつの間にか女性の腕から抜け出していたらしく、ひょいとテーブルの上に飛び乗ったのだ。
「お前、メルって名前なんだな」
手持ち無沙汰というのもあって俺が話しかけると、猫が返事をするかのようにフニャッと鳴く。こうして見ると、けっこう愛嬌のある顔立ちをしている。毛づやもいいし、なかなかどうして可愛らしい。さぞ人間受けがいいことだろう。ひょっとしたらこの店の看板娘ならぬ看板猫なのかもしれない。いや、それなら文字通り招き猫か?
「お前はメス? いや、オスか?」
「男の子よ。三歳になったばかりなの」
などと考えながらメルと戯れていると、女性が戻ってきた。その手にはトレーを持っており、テーブルの上に置くとその上に乗っていたティーカップを差し出してきた。
「どうぞ」
「あ、すんません。ありがとうございます」
出されたティーカップに視線を落とす。中に入っているのはお茶だろうか。特にそういったものに詳しくはないので、この飲み物が何であるかはわからないが、とてもいい香りがした。
ちらと周りを見渡しても女性の他に人影はない。客はもちろん、他の店員の姿も。
「あの、お姉さんがここの店長さんなんですか?」
問いかけると、向かいに座った女性はっと気づいたような顔をした。
「ごめんなさい、そういえばまだ名乗っていなかったわね」
女性は居住まいを正し、自身の胸元に手を当てた。
「私はこの雑貨店【Glace】で店主をやっている、氷高海涼っていうの」
そう名乗り、どういう漢字で書くのかまで教えてくれた。
氷高海涼。見た目だけでなく、名前まで清涼感たっぷりだった。名は人を体現するというのは、まさにこの人のためにあるのだろうと思ってしまうほどだ。
「きみのお名前を聞いてもいいかしら」
「あー、と、三ヶ嶋栄路です」
「栄路くんね。よろしく」
思わず肩がピクリと跳ねる。栄路くん。その呼ばれ方は久々だ。大学に入ってからは、ひとりにしか呼ばれたことがない。ふっと、彼女の姿が思い浮かぶ。
苗字に呼び捨てかくん付け、もしくはそのまま名前呼び捨てが多く、いきなり下の名前で呼ばれたからびっくりした。だが、嫌悪感はない。むしろ、すっと胸の中に入ってくる。
「改めて、メルを助けてくれてありがとう」
「え、あ、いやそんな……」
真摯なお礼とともに頭を下げられ、俺はへどもどとしてしまう。
こうやって面と向かって礼を言われると照れる。そんな大したことはしていないという遠慮がちな気持がありつつも、自分の行動を認めてもらえた気がしてどこか嬉しかった。
最近では懺悔や卑下ばかりだった。そこで、知らず自己肯定感がかなり下がっていたことに気づく。俺は元々ネガティブな性格ではないという自己評価を持っていたのだが、どうやらその情報は更新せねばならないようだ。
いつからこうなってしまったのだろう、だなんて考えるまでもない。理由はひとつしかないのだから。
「……栄路くん?」
不思議そうに呼びかけられ、はたと我に返った。
「すんません、ちょっとぼーっとしちゃって」
疲れてるのかもしんないです、と言わなくてもいい余計な一言までつい添えてしまう。初対面でいきなりそんなことを言われても困らせるだけだとわかっているはずなのに。上手くいかない、本当に。
いろんなことに落ち込みそうになるが、さすがにこれ以上情けない姿を見せるわけにはいかない。意識して背筋を伸ばす俺を氷高さんはじっと見つめたかと思いきや、おもむろに視線を下げた。
「よかったら、飲んでみて」
「え?」
「私のお気に入りの紅茶でね。とっても美味しいの」
一瞬何を言われたのかわからなかったが、彼女の視線が俺の手元にあるティーカップに向けられていることに気づいた。
「あ、ありがとうございます。いただきます」
そろそろとカップに口をつける。少し含んだだけなのに、口の中にふわりと芳醇な香りが広がった。紅茶特有の甘みはあるものの、さっぱりとした味わいで飲みやすい。優しい味とはこのことを言うのだろうかと思うほどで、そのせいなのかひどく落ち着く。吐息とともに自然と言葉がこぼれ出た。
「美味い……」
「気に入ってくれたみたいね。よかった」
俺の反応を見て、女性がふわりと微笑んだ。その表情の可憐さにドキリと心臓が跳ねる。
条件反射だ、仕方がない。こんなふうに微笑まれれば、男なら誰だってときめくもんだろう。などと、一体誰に言っているのかわからない言い訳めいた言葉たちが心中で渦巻く。
おかしいな、紅茶を飲んで落ち着いたはずなのに、また落ち着かなくなってしまった。それならまた紅茶を飲めばいいではないか、というコントをひとり勝手に脳内で繰り広げて紅茶を飲む。我ながら非常に滑稽である。
「さっきの質問にきちんと答えられてなかったね。栄路くんの言うとおり、ここは私ひとりでやっているの」
見てのとおりこじんまりとした個人経営店だから、従業員を雇うほどでもないのだと、氷高さんは続けた。
たしかに、今も俺以外に客はいない。タイミング的にちょうど静かな時なのかもしれないが、失礼を承知で言えば立地的にもそこまで繁盛するようには思えなかった。
「お客さんも来ないだろうな、とか思った?」
「え!?」
思考が見透かされたかのようで、今度は別の意味で心臓が跳ねた。
「あ、いや、そんなことは……っ」
「ふふ、いいの。そのとおりだから」
慌てふためく俺を見てくすっと笑った氷高さんは、落ち着き払った様子で店の扉のほうへ視線を向けた。
「ここにはね、特別なお客さんが来ることがあるの」
「特別な、お客さん?」
俺が首を傾げると、店主はそうだと頷いた。
「引き寄せられてくるっていうのかな。たまに、メルが連れてくる時もあるけど」
氷高さんの言うとおりなら、やはりメルは俺をここに連れてきたのか。助けてくれたお礼がしたくて飼い主の元まで連れてきた、と。さながら猫の恩返しとでも言わんばかりに。
しかし、気になったのはそこではない。導かれるとは、一体どういう意味なのだろう。そう思って聞き返そうとした時だった。
ボーン、ボーン、と。低い音が響いたのは。
驚いて音の出所を探すと、カウンターの後ろに欠けられたアンティーク調の振り子時計からだった。針の位置を見るに、どうやら十五時を知らせてくれているようだ。
…………待てよ、十五時?
「ああ!?」
俺は咄嗟にテーブルに手をつき、椅子をガタンと鳴らしながら立ち上がった。氷高さん、それにメルもびっくりしてこちらを見ている。
「め、面接……!」
そう、十五時にバイト先候補の面接の予定だった。顔から血の気が引いていくのがわかる。
「やっべぇ……すっかり忘れてた……」
今から行っても間に合わない。絶望して頭を抱える俺に、氷高さんが心配そうな声をかけてくる。
「栄路くん? どうしたの?」
「実は、十五時からバイト先の面接があって……」
うめくように説明すると、氷高さんは驚きつつも冷静に俺が今やるべきことを提案してくれた。
「とりあえず、電話したほうがいいかも」
たしかに氷高さんの言うとおりだ。俺は一言断ってから席を外し、スマホ片手に一旦外に出た。
「おかえりなさい。……やっぱり、怒られちゃった?」
「やー、怒られはしなかったんですけど、もう受けられそうにないですね……」
電話を終えて店内に戻った俺は、心配そうに尋ねてくる氷高さんに電話でのやり取りを伝えた。
さすがに助けた猫について行った先の店でのんびりしていましたなどとはいろんな意味で言えるはずもなく、ひとまず電車を乗り過ごしたことにして必死に謝ると、相手は特段怒っている様子はなかった。苦笑気味にいいよいいよと言ってくれたのだ。
しかし、リスケの都合を聞かれずにさらっと切られてしまった。そこで察せないほど俺は馬鹿ではない。それが意味するところとはつまり、次がないということだ。
まぁ面接に遅刻してくるようなやつは信用ならないと思われても仕方がない。俺が面接する立場だったとしたら、おそらく同様に落とすだろう。
ただ、かなりいい条件だっただけにショックはそれなりに大きい。電車が大幅に遅延したとか講義が長引いたとか、そういった類だったならまだチャンスはあったかもしれない。慌てるあまり全然頭が回らなかった。つくならもうちょっとマシな嘘をつけばよかったと後悔しても後の祭りだ。
となると、俺に残された道は別のバイト先を探すこと。そこまで伝えると、氷高さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい、そうとは知らず引き留めちゃったから……」
俺は慌てて首と手をぶんぶん振った。
「いやいやいやっ、俺もすっかり忘れてたんで、百パー俺のせいですって! 氷高さんは一ミリも悪くないですから! マジで!」
そうだ、今回のことは完全に自分が悪い。大学生にもなって自分の予定も管理できないなんて、自分で自分が情けなくて仕方がない。本当に何をやってるんだ、俺は。
ここまでうまくいかないことが続くともはや笑えてくる。むしろ、笑い話にでもしないと心が死にそうだ。
「まぁ、バイトなんてまた探せばいいだけですしね。まだ夏休みまで時間もあるし」
俺が平気そうにへらりと笑ってみせると、氷高さんは何か考え込むような仕草をする。そんな彼女へ、メルがフニャッとひと声上げる。それを見て、海涼さんは頷いた。
「そうよね。……よし、決めた」
「あの……?」
「栄路くん、よかったらここで働いてみない?」
「……はい?」
俺はぽかんと口を開けた。俺の聞き間違いか?
そう思って氷高さんをまじまじと見つめるが、この店の店主は至って落ち着いていた。どうやら聞き間違いなどではないようだ。
「い、いやいやいやっ、え? だって、ここ、他に働いている人いないんですよね!?」
「うん」
「人手なんていらないんじゃないですか? えっと、失礼を承知で言いますけど、人を雇うほどの余裕もないんじゃ……」
「夏休みの間だけなら大丈夫。たしかに、そんなに多くは払ってあげられないかもしれないけど、できる限りのことはしたいと思っているわ」
そこまで言って、氷高さんは小首を傾げた。
「それとも、雑貨店の仕事は嫌?」
「そ、そんなことはない、ですけど……」
別に雑貨店の仕事がやりたくないから断ろうとしているわけではない。ただ、今回の件は俺の不注意が原因であり、氷高さんが罪悪感を抱いて責任を取ろうとしているのなら、それには及ばないというだけの話だ。
「悪いだなんて思わなくて大丈夫ですよ? 俺はたまたまここに来ただけですし、そこまで迷惑かけるわけにはいかないっていうか」
俺がわたわたと遠慮していると、氷高さんはふっと微笑んだ。
「きみは優しい人なのね」
「……っ」
氷高さんの言葉に、ずきりと胸が痛んだ。
――栄路くんって優しいよね
フラれたあの日に、彼女からも同じようなことを言われた。普通に考えれば褒め言葉のはずなのに、その言葉は今や俺の心にぐさりと突き立てられる刃のようだった。
もちろん、氷高さんにはまったくそんなつもりはないだろう。だから表情には出すまいと堪えていたせいで俺が一瞬言い澱むと、【Glace】の店主は凪いだ水面のような瞳でまっすぐ俺を見つめた。
「あのね、栄路くん。きみがここに来たのにはきっと意味があると思うの」
「意味……?」
「そう。だからね、たぶんだけどここで働くことで何かが変わるんじゃないかなって。そんな気がするの」
この人は何を言っているのだろう。俺は少々困惑した。
俺がここに導かれてやって来たとでも言いたいのだろうか。ゲームの世界じゃあるまいし、そんな摩訶不思議なことがあるわけない。
いくらゲーム脳のケがあるとはいえ、幼少期ならともかく大学生にもなって現実と仮想の境がわからないほど末期ではないのだ。店主がいくら優しそうな印象とはいえ、申し訳ないがはいそうですかとは信じられない。
俺がなおも躊躇していると、足元にいつの間にか寄ってきていたメルがフニャッと鳴いてじゃれついて来る。その様は飼い主の発言に賛同し、そうしろとでも言っているかのようだった。
「ちょ、こら……」
一歩引くも、メルは構わずじゃれつくのをやめない。俺が折れるまでこのままのような気がするのはどうしてだろう。
少し考えた俺は、ちらと店主を窺った。
「あの、本当にいいんですか?」
「もちろん。よくないのに提案したりなんかしないわ」
一旦確認を取ってみたが、きっぱりと言い切られる。氷高さんに撤回する気はないようだった。
俺はさらに考える。さっきはああ言ったが、今から別のバイト先を探すのは正直無謀だと思っている。求人誌を眺めてようやく見つけたのがあの店で、他にめぼしいものはなかったのだ。
それに、そもそも俺がバイトしたいのは金銭が一番の目的ではない。無論、給料など高いに越したことはないし稼げることなら稼ぎたいが、虚無の夏休みを過ごすことになるよりは何倍もマシだ。そう思ってのバイト探しなのである。
それが満たされるのなら、氷高さんの誘いをそこまで拒否する理由などあるだろうか。むしろ、ありがたい話でしかないんじゃないか?
そう考えると……ふむ、天秤にかけるまでもないだろう。俺は心を決めた。
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」
氷高さんはぱあっと顔を輝かせた。足元にいたメルもフニャッと鳴きながら、どこか嬉しそうに俺の足に擦り寄ってくる。
「これからよろしくお願いします、氷高さん。……や、店長って言ったほうがいいですかね?」
氷高さんは笑って首を横に振った。
「店長は照れちゃうから、名前でいいよ」
「あ、じゃあ氷高さんで……」
「じゃなくって、下の名前のほう。そっちのほうが呼ばれ慣れてるの。それに、私も栄路くんって呼んでるもの。フェアじゃない?」
彼女は無邪気そうに笑っているが、俺はピシッと固まった。そう来るか。女性は親しくもない男から下の名前で呼ばれるのは嫌がるものではないかと思っていた。まぁ男なら平気なのかと聞かれれば、そういうわけでもないのだが。自分の身近な女性……というか、年頃の女子がそうなのだ。ひと括りで言うのはよくないかもしれないが、女性のほうがその傾向が強いような気が勝手にしている。
「えーっと、じゃあ、海涼さん……」
迷った末に言われたとおりに呼んでみることにした。ひょっとしたら怒られるのではないかと思って遠慮がちだったが、目前の女性は嬉しそうに頷くだけだった。
かわいい――なんて、自然と思ってしまった。氷高さん、いや、海涼さんはどちらかと言えば美人の類なのに、可愛らしい仕草が多い気がする。これがギャップ萌えというやつなのだろうか。
「あ、えっと、仕事内容って、品出しとか掃除とかですかね?」
一瞬見惚れてしまい、我に返った俺は誤魔化すように話を変えた。気を紛らわせる意味はもちろんあるが、仕事内容を把握したいのもまた事実だ。これからここで働くことになるのだから。
だが、海涼さんはうーんと顎に指を当てた。
「それもあるけど、その前にやることがあるの」
「? やること?」
首を傾げる俺に海涼さんはにこっと笑い、視線を俺の足元に移した。
「メル、おいで」
その呼びかけに応じるようにメルが俺から離れる。そうして、海涼さんはメルを抱え上げた。俺のほうにメルの腹を向けて。
「栄路くん、ちょっと目を瞑ってもらえる?」
「へ? は、はい」
わけがわからなかったが、ひとまず言われたとおりに目を閉じる。
海涼さんが近づいてくる気配がする。何をする気だろうかと若干身構えていると、フニャッという鳴き声が聞こえてきたかと思いきや、ほぼ同時に額にぷにっとした柔らかいものが触れた。
驚いて目を開けると、視界いっぱいに猫の腹が広がっていた。
「おわっ!?」
びっくりしてのけぞる。危うく椅子ごとひっくり返るところだったが、少し離れたメルが片手を突き出す格好をしていることに気がついた。
額に手をやる。あのぷにっとした感触って、もしかしてメルの肉球、か……?
「え、な、なんですか、今のは……?」
「んー、儀式かな?」
ねーと海涼さんがメルに笑いかけると、メルもそれに応じるかのようにフニャッと鳴いた。
「ぎ、儀式、すか……」
なんともまぁ可愛らしい儀式だ。てか、なんの儀式なんだ? 契約書に押すハンコのつもりだろうか。ずいぶんと変わった風習があるものだと思うと同時に、どことなく照れくさく感じてしまう。
肉球が押し当てられた額をなんとなくさすっていると、海涼さんが笑顔のまま口を開いた。
「それじゃあ栄路くん。お店の中、見回してみて」
俺は目を瞬かせ、何の気なしに周囲に視線を巡らせた。
そこで違和感に気づく。なんだか視界が若干ぼやけている気がする。目をこすってもう一度よく見ると――そのぼやけが先ほどよりはっきりとしていた。
「な、なんだこりゃ!?」
ぼやけていたわけではない。室内に光の粒のようなものが浮かんでいたのだ。それもひとつふたつではなく、けっこうな数だ。さっきまでは確かになかった。
ふよふよと浮き、辺りを泳ぐようにゆっくりと動いている。これらは、もしかして――。
「ひ、飛蚊症……?」
目ヤニかと思って何度目をこすっても、浮遊する数多の光の粒は目に映ったまま。むしろ、さっきよりもさらにはっきりと輪郭を持った気さえする。だから、俺は真っ先に自分の目がおかしくなったのだと思ったのだ。
疲れているだとか、無意識的に現実逃避を求めた結果だとかでないのであれば、俺の貧相な頭であと思いつくのは飛蚊症ぐらいだ。
そこまで詳しい知識があるわけではないが、どこかで聞きかじった話だと飛蚊症は放置しても問題ない場合が多いが、中には重大な病気の可能性がなきにしもあらずだったような。たしか、網膜が剥離していたりもするとかなんとか。
だとするとまずいな、何日か続くようであれば一度病院に……いや、もう明日にでも行ったほうがいいだろうか。
などとぐるぐる頭を回転させていると、突如笑い声が室内に響いた。
驚いてそちらに目をやると、視線の先で海涼さんが声を上げて笑っているではないか。
「ひ、飛蚊症って……っ、あはは、待って、それはちょっと予想外……!」
言いながらも笑い続ける海涼さんは目に涙を浮かべている。
腹を抱えて、という表現が適切なほど思いっきり笑っているのに、その笑い声はどこか涼やかで品を感じた。ただ、いまだその腕の中にいるメルは若干苦しそうだった。
「はぁ……こんなに笑ったのいつ振りかな」
ひとしきり笑った彼女はやや落ち着いたようで、目尻の水滴を拭った。
そこまでバカウケするようなことを言っただろうか。何が何だかわからない俺は唖然とするしかない。
「ごめんごめん。そうよね、そういう反応になっちゃうよね」
まだ喉の奥でクスクス笑いながらも、目を白黒させている俺に海涼さんは説明してくれた。
「大丈夫、目の病気とかじゃないから。栄路くんは見えるようになったのよね、この精霊たちが」
「え、てことは、海涼さんも!?」
海涼さんはうんと頷く。よく見ると、彼女の視線は何かを追うように動いている。この謎の光たちは、俺だけでなく真実海涼さんにも見えていることの証左だった。
というか、海涼さんは今なんて言った?
「今、精霊って言いました?」
「うん。この子たちのことね」
そう言って海涼さんはどこか優しい表情で浮遊する光を見ている。
精霊なんて、ゲームの中では当たり前の存在だ。ファンタジーの世界観なら、必ずと言っても過言ではないほどよく登場する。
しかし、現実となるとそうもいかない。だって、精霊はフィクションの存在であり、俺が生きているこの世界では現存しえないものなのだから。
「悪さはしないから安心して」
海涼さんはどうやら混乱している俺を、こいつらがよくないものなんじゃないかと不安がっているからだと思っているらしい。違う、そうじゃない。有害無害は確かに重要だが、無害だからといってすべてが解決するわけではない。いいとか悪いとかの次元じゃないだろう、こんなの。これらの信憑性というかなんというか……あーもうなんて言えばいいんだ!?
非現実的なあり得ない奇妙奇天烈摩訶不思議な光景を前に、俺は頭をぐしゃぐしゃと掻き回す。ダメだ、このままだと頭がおかしくなりそうだ。
俺は深呼吸を試みる。一旦、一旦な? ひとまず受け入れよう、これらの存在を。日常的に起こりうる、ごく当たり前の光景だと仮定しよう。それを前提に、落ち着いて疑問を投げかけようじゃあないか。
全身全霊をかけて心を落ち着かせた俺は、そっと海涼さんに問いかける。
「あの、こいつら……この精霊、ってのは、一体何なんですか?」
「そうねぇ……応援団、かな?」
やっぱり全然意味がわからなかった。
それからのことは、正直よく覚えていない。気がつけば俺は帰途についていた。
ただ、放心している俺にじゃあ来週からよろしくね、とかなんとか海涼さんが声をかけてくれたことだけはぼんやりと記憶にある。
猫、店主、雑貨店、精霊。それらを一生頭の中で乱舞させながら、アパートに帰って風呂に入って飯を食って。そうしてベッドに横になって寝入る直前に、ふと俺は今日一冴えたことを思いついた。
……え、俺、本当にあのおかしな雑貨店でバイトすんの?
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