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第二章

第八話

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 俺は腹立ちをそのままに、だが足音は忍ばせてそっと部屋を出た。
 芙美と健治に気づかれる前に、寝室に戻らなければ。
 そうして慎重に足を運んでいると、鼻をすするような音が階下から聞こえて足を止めた。

 泣いている? 芙美が?
 先ほど健治が帰ってきたようだから、今日のことを話していたのかもしれない。

 俺は足音を立てないように階段を下りた。
 そっとリビングを覗くと、両手で顔を覆って号泣しているのが見えた。健治が。
 芙美はその背中を優しく撫でてやっていた。

「どうして……、どうしてあの子ばかりこんな苦労をしなければならないんだ……」
「優だけじゃないわ。統計的にクラスに何人かいるものだと言われたもの」
「だとしても、あの子は産まれた時からずっとこんな……」
「だから私たちで幸せにしようって誓ったんじゃないの」
「だが俺たちの子どもで優は本当に幸せなのか? あの子は笑いもしないし、何をしていても心から楽しんでいるようには見えない」

 いやちょっと待て。これはどっちの『優』だ?
 さっきの今でやや混乱したが、最近の記憶はほとんど俺が持っているのだから、きっと俺のことを言っているのだろう。
 だとすると、それはすまないとしか言えない。
 いや、本人たちには言えるわけもないのだが。

 なるべく『普通』に見えるように笑うようにしていたが、それが作り笑いであるということまでバレていたとは。
 しかし、クラスに何人かいるというのは何のことだろうか。
 それに、何をそんなに泣くようなことがあるというのか。
 たぶんあのテストの結果について話しているのだろうとは思うが、いくつか平均を上回っている項目もありつつ、平均を下回っている項目もあったから、全項目平均は全国平均に近い。
 普段から思わせぶりに知識を披露しておきながらこの結果では落胆するのも仕方ないが、健治だってそんな親ではないはず。
 だったら何故――

「優が発達障害だなんて、思いもしなかった」

 健治の嗚咽交じりの声に、俺は首を傾げた。
 発達障害? 言葉は聞いたことがあるが、どういうものなのかは知らない。
 そのままの意味で捉えれば、発達に何らかの障害あるってことだろうから、だとしたら俺は関係なくないか?
 だってこれまで普通に育ってきたはずだ。
 何も問題なんかない。

「だけど、調べれば調べるほど、優に当てはまるのよ。あなたもこの本と検査結果に書かれていることを読んでみればわかるわ」

 検査――。

 あの結果は発達障害であることを示していたのか?
 もしかして、平均を上回る項目があったから年齢よりも発達しすぎているということなのか。
 それとも平均を下回る項目があったことが問題なのか。

 わからない。
 それは健治も同じだったようだ。

「この結果に書かれた紙の――ここのところを読んで。得意なことと苦手なことにあまりにも差があって、発達に凸凹がある。そういうのを発達障害というそうよ」
「確かにすんごい上と下に振れたグラフだなとは思ったけど……」

 戸惑ったような顔の健治に、芙美が本を開いて見せる。

「それだけじゃないの。発達障害の人たちにはいろいろな『特性』というのもあって、人によってどんな特性があるか、その強さも弱さも、現れ方も違うらしいんだけど、優に当てはまるなって思うものがたくさんあるの」
「確かに、前から優は変わってるってよく言われてはいたが……」
「私たちから見ても気になることはあったわよね? やたら口調は大人びてるし、あまり人と目を合わせないし、おもちゃも興味ないみたいだし。かと思えば、いきなり九九を言い出すし……」

 いや、それは違う。
 待ってくれ。
 全部前世の記憶があるからだ。
 人と目を合わせないのも自覚はなかったが、たぶん中身がおっさんだということを隠している後ろめたさから無意識に人の目線を避けていたんだろう。
 まさかそんなことでこんな風に疑われることがあるとは、思ってもいなかった。

「ああ。確かに俺も気にはなってたが。保育園の先生も心配してたんだろう? お友達とも全然遊ばないし、保育園でもマイペースっていうか、みんながやってることをやろうとしないって」

 違う。それもこれも全部、ただ中身がおっさんなだけだ。
 俺は発達障害というやつではない。
 そう言ってやりたいが、だが待て。中身がおっさんだと打ち明けられるほうがショックを受けるのではないか。
 そうだ、だめだ、こんな衝動的に明かしていい話じゃない。よくよく考えてからでないと。
 そうしてぐっとこらえるが、芙美と健治の会話は続いている。

「そうなの。それにね。あの子、字を書くのが苦手でしょう? 何歳の時だったか、色鉛筆がうまく持てなくて、まだ早かったなって反省してクレヨンを渡したのよ。だけどクレヨンもやっぱり持ちにくそうだし……。今も、すごく書きづらそうに書いてるわ」

 そりゃあ得手不得手くらいあるだろう。
 六歳になったとはいえまだ子どもだし。
 だが次の言葉に俺は固まった。

「ひらがなもね、なかなか覚えられないみたい。カタカナはもっとね……」

 そんなはずはない。
 ひらがなもカタカナも、そんなものは何も見なくたって書ける。
 だから雑に書いていて、うっかり間違えていたのだろう。
 それだけの話だ。

「それと、本に書いてあったんだけど、感覚過敏っていうのがあってね、ほら、ここ」

 芙美が本を開いて見せると、健治はそれを覗き込み、やや眉をしかめた。

「視覚、聴覚、触覚……いろいろあるんだな」
「ここにどんなものか例も書いてあるわ。人より眩しく感じるとか、特定の音が嫌だとか、たくさんの音が混じっていると会話が聞き取れないとか、人に触れられるのを嫌がったり、服とか肌に触れるものにこだわりがあるとか……。ねえ、あの子も長袖を嫌がるじゃない? 暑くなるからだって言ってたけど、袖が肌に触れるのが嫌だっていうのもあるんじゃないかしら。痛みや暑いとか寒いとかの感覚が鈍感だったり敏感だったりっていうこともあるみたいだから、感触と暑さの両方が嫌なのかもしれないけど」

 まあ、確かに手首や肘に生地がかかるのは嫌だ。
 それを説明するのも面倒で『暑いから』で済ませていたのもある。
 そして暑いから着たくないのも本当だ。
 しかしとにかく教室は体温が高い子供たちが密集しているからそもそもが暑く、俺の他にも半袖の子どもはいる。

「不器用というかなんというか、お風呂掃除をしてもすぐ滑って転ぶし、洗濯物を畳んでくれようとするんだけどぐちゃぐちゃのしわしわだし」

 だから、俺は六歳なんだからそんなもんだろう。

「どろだんごも優だけいつまでも完成しなかったみたいだし、今もハサミをうまく使えないわ」

 それはまあ確かにそうだが、そんなに騒ぐことでもないだろう。

「すごくマイペースで自分のやりたいことしかやらないし」

 子どもなんてみんなそういうものじゃないのか?
 その中で俺は他の子どもたちが好んでやることをやりたがらなかったというだけだ。

「一人で黙々と遊ぶのが好きな子もいるみたいなんだけど、優もほら、保育園の時だって、歌は歌わないし外に遊びに行かないし、お友達ともほとんど遊ばないって聞いてたじゃない? 家でも私やあなたに遊んでとねだることなんてなかったし」

 だから、それもこれも全部、俺の精神年齢が大人だからだ。
 それらがたまたま当てはまってしまっただけのことだろう。
 芙美の心配しすぎだ。
 俺は別に何も困ってはいない。

 検査を受けたのは『優』だ。俺じゃない。
『優』にはこの体はいろいろと辛いことが多くて、表に出てきたがらないのかもしれない。

 だが俺はこの体でも楽しく生きていける。
 そのはずだ。
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