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第三章

第三話

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 結局先生はタブレットで黒板の写真を撮ることを許可してはくれなかった。

「とにかく、親御さんから何も聞いていないのに勝手にそんなことはできません」

 逃げたのだ。と思ったが、俺が性急すぎたのは否めない。
 何事も順番というものがあるし、まずは芙美に相談すべきだった。
 子どもが直接言っても取り合ってくれる先生もいるのだろうが、このクラスの担任はそうではなかった。
 もっと相手をよく知り、作戦を立ててから実行すればよかった。

 それに担任が何を危惧しているかもわからないわけではない。
 学校から配慮を申し出たり、関係機関への相談などを勧めたりすると、そんなものは必要ない、発達障害だというのかと親が怒る、ということがしばしばあるらしい。
 困っているのは子どもなのだから、何故その手助けをしてやらないのかと不思議で仕方ないが、俺に親の気持ちなど語る資格はない。
 思い起こせば芙美だって健治だって泣いていたし、まあ、俺だって最初は『発達障害? なんだそれ?』って思ったし、障害という言葉にビビったわけで、受け入れるのだって時間がかかったし、まあナイーブな問題なのだということはわかる。
 それに今の時代は合理的配慮というものがあるが、『重すぎない範囲』でしか求められないらしい。
 重いか重くないかはどう判断されるのか。
 人手が多いとか設備が整っているとか専門知識があるとか、できることも環境によるのかもしれないが、担任が無理だと言えばそれは重すぎるということにもなるのかもしれない。

 なんにせよ、いい方法があるからといって人の気持ちを無視して進められないということはよくわかったし、まあ無理なものは無理というのもある。
 便利な道具があってもそれが即解決じゃないのと同じように。頑張っても忘れ物がなくならないのと同じように。

 しかし、発達障害というのは本当にいろいろあるものだ。
 多動、というのは前世でも聞いた覚えがなかったが、授業中や食事中に立ち歩いてしまうとか、じっと待つのが苦手とか、机にじっと座っているのがしんどいというのもそうらしい。
 じっとしているのが辛いのなんて、子どもはみんなそんなものなのだと思っていた。
 実際に俺が子どもだった頃はあまりに前のこと過ぎてどうだったかは覚えていないが、大人として生きた記憶がある分、授業というものは静かにじっと座ってなければならないというあるべき姿も強くあり、なんとか椅子に自分を縛り付けていたが、そうするととにかくイライラする。
 保育園の頃、イライラして杏奈を突き飛ばしてしまったことを思い出す。
 あの頃からやりたくないこと、できないことを無理にしてきた。
 よくみんな我慢していられるものだと思ったが、誰もが同じように我慢していたわけではないのだ。

 不公平だと思う。
 もちろん、喋りすぎたりうるさいとかは人の迷惑になるから我慢しなきゃいけないのはわかるが、半袖を着てたって、一人で遊びたくたって、誰に迷惑をかけるわけでもないのに。
『普通』からはみ出ないためには、人とは違う我慢をしなければならない。
 それが普通じゃない人なんてたくさんいるのに。
 誰が普通を決めたのか。――それは多数決のようなものなのだろう。
 多数決がいつでも正解とは限らないが、常識は多数決で決まる。
 言葉だって、時代によって違う意味で使う人が多くなればそれが辞書に載るようになるのだ。

 もっと言えば、常識は声の大きい人の多数決で決まっているようにも思う。
 それは正義だとか道徳だとかいうものが味方をすることもあるだろう。
 そう考えれば、クラスに数人いるという割合の発達障害の人たちも、その人たちの普通はこれだと声を上げたら『いろいろあるのが常識』になっていくのかもしれない。
『多様性』という言葉がよく聞かれるようになった時代でもある。
 現代だってセクハラやパワハラが非難されるようになり、数十年前とは当たり前が変わっているのだから、いつかそんな未来もあるだろう。
 だが今目の前にある現実は、たった一人の担任とさえうまく交渉できなかったという事実だけである。

「なあ。たった一人の先生が聞いてくれなかっただけで、絶望すんなよな。小学校だって六年いれば六人の担任と関わることになるんだし。まあ同じ先生になる年もあるかもしれんが……」

 俺は自分の部屋の机に座り、そう口に出した。
 返事はなかった。

 その時家の電話が鳴り、階下で芙美がぱたぱたとスリッパを鳴らす音が聞こえた。
 それから何やら話しているのがわかった。
 そっと階段を下りていくと、「え……優がそんなことを……?」と聞こえた。
 しばらくじっと芙美の声を聞いていたが、また自室へと戻った。
 やはり思った通りだ。担任が今日のことで電話をかけてきたのだろう。
 それから間もなくして、芙美が俺の部屋のドアをコンコンとノックした。

「優。ごめんね。学校でたくさん不便な思いをしてるのね。またお母さんが尻込みしてる間に、優は一人で悩んで、調べて……。一人で頑張らせて本当にごめん。今度、優を手助けしてくれるところに行こう」

 芙美はいつでも咎めるのではなくどうしたいのかを汲み取り、悩み、どうしたらいいのかを考えてくれる。
 この人が優の母親になってくれてよかったと心から思う。

「うん、わかった」

 そう答えたが、その日の電話はそれだけではなかった。
 ルキアの母親だ。

『先生からお電話をいただきました。優くんがルキアに発達障害だと言ったんですか?』
「いえ、そうは言っていないようですが」
『先生にあれこれやり方を変えてくれと言ったそうですね。そんなの、恥ずかしい! 私がモンスターペアレントみたいじゃないですか。私はそんなこと言ってないのに……。大体ルキアが練習不足なんです。真面目にやらないから悪いんです。うちのルキアを巻き込むのはやめてください。怠けて駄目な大人になったらどうするんです?』
「いえ、あの」
『ただでさえ忘れ物や不注意ばかりで、できないことばかりなのに。でもそれはルキアがぼーっとしてるから失敗が多いだけです。やればできます。叱ればできるんですから、怠けているだけなんですよ。それを発達障害だなんて。周りに変な目で見られたらどうしてくれるんですか? ルキアに障害なんてありません。普通です。ちょっとそそっかしいだけの普通の男の子です』

 怒涛の勢いでまくしたてるルキアの母親に、芙美は電話を両手で支え持ち、じっと耳を傾けていた。
 そして相手が言うことがなくなったのだろうタイミングで、落ち着いた声で話し出した。

「お母さまにご不快な思いをさせてしまって申し訳ありません。ルキアくんはどうされていますか? 優が辛い思いをさせてしまっていますか?」

 そう水を向けると、ルキアの母親の声からは途端に勢いがなくなった。

『いえ……それは別に』
「そうですか。それはよかったです。今後は言葉に気を付けるようにと、優とも話します。ルキアくんは学校でもいつも一生懸命で、何事も諦めずに頑張っていると優から聞いています。優のこともよく遊びに誘ってくれて、とても優しくしてもらっているようです。そんな素敵な子と仲良くさせていただいていて、優も私もとても嬉しく思っておりました。できれば今後もどうぞ仲良くしてやってください」
『別に……二度と優くんと遊ぶなとは言っていません。でも二度と変なことは吹き込まないでくださいね』

 そう言って電話は切れた。
 すべてを傍で聞いていた俺は、腹の底からため息を吐きだした。

「お母さん、ごめんなさい」
「ルキアくんは喜んでたんでしょう? それなら謝ることはないわ。学校で生活を送っているのはルキアくんよ。困っているのも頑張っているのもルキアくん。そのお母さんじゃないわ。そのルキアくんが喜んでいるなら、ルキアくんにとってはよかったということ。ルキアくんのお母さんのことは親の問題だから、優は気にしなくていいの」
「ありがとう……。ルキアがかわいそうだ。世間体なんてルキアは気にしてないのに。学校が辛いって言ってるのに。家のことはあんまり話さないけど、あんな……叱ればできるなんて、そんなことあるわけないのに」

 自分でも次こそは失敗しないようにと何度も何度も思うのに、どうにもならない。
 ただやみくもに頑張ったって、疲弊するだけでできるようになるわけじゃない。
 叱られたすぐ後は、もう叱られないようにと神経を張り詰め、一時的には失敗しなくなるかもしれない。
 けどそのことだけに集中するから他のことはおろそかになるし、ずっとそれを保てるわけじゃない。
 だから困っているのに。
 だから道具や工夫でどうにかならないか試行錯誤しているのに。
 叱られれば何でもできるなら、頑張れば何でもできるなら、俺たちは既にできるようになっている。
 ルキアは人の三倍も四倍も頑張っているのだ。

 そうして頑張っても駄目なのだと気づくほどに、傷は深くなっていく。ボロボロになっていく。
 そんなルキアを見ていられなかった。
 優と重なるからってだけじゃない。
 入学したころは優しく明るく笑っていたルキアが、だんだん困ったような笑いを浮かべるようになって、どうにかしてやりたいと思うようになった。

「叱ってもできないことはできない。お母さんもそう思うわ。だけど、たとえ正解がわかっていたとしても、そこにたどり着くまでの道は人それぞれよ。誰かに道を教えられても、その人の目には道なんて見えないこともある。結局は自分で辿って行ったほうが、その後迷子にならないっていうことだってある。逆に誰かに手を引かれないと辿り居つけないこともあるでしょうし、ある時突然新しい道ができることもある。回り道に見えても、それが無駄とは限らないのよ」
「でもルキアのこと、見てられないんだよ……」
「そうね……。でも優にはできることがあるわ。友達にしかできないことよ。傍にいてあげること。味方でいてあげること。一緒に遊んであげること」

 そうか。
 支えるのは家族だけじゃない。
 友達にだってそれができるのだ。
 そしてそれができるのは俺じゃない。

「ありがとう、お母さん」

 そう言って自室に戻ると、机に向かい優に語り掛けた。

「なあ。さっきの、聞いてただろ? 昼休みだけでも優が出て来いよ。最初に仲良くなったのは優なんだから、ともやとルキアと責任もってちゃんと遊べよ。それに、保育園だって通ってたのはほとんど俺なんだから、今くらい思いっきり遊べって。子ども時代なんて短いんだからな。俺はさ、三十歳過ぎたおっさんだったわけ。そんな奴と遊ばなきゃいけないのもあいつらがかわいそうだろう?」

 返事はなかった。
 だがそれからの昼休みは記憶がとぶようになった。
 次第に、授業と授業の間にニ十分だけある中休みも。

 ある時、俺は意を決してともやとルキアに聞いた。

「なあ。二人とも、俺のことどう思う?」
「うん? なんで?」
「いいからさ」
「ぼくは、優くんは、優しいと思う」
「そうだな。俺も。いろいろ知ってるし。何より一緒に遊ぶのが楽しい」

 その言葉に、俺は言葉には出さず優に語り掛けた。

 なあ。何かできないことがあったって、人生はそれだけじゃないだろ?
 優には優にしかできないことがある。
 優だからいいって奴がいる。
 それはともやもルキアも芙美も健治も、俺だってそうだ。
 だから早くこの体から俺を追い出せよ。
 おまえの人生を生きろよ。

 俺はいつでも、ずっと、待ってるからな。
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