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The Unproven Love ― 壊れた君を、抱きしめる
しおりを挟む極上の絹を、緻密な平織りに仕立てたような心地がした。
曇りガラスの内側に、ほのかな灯りをともしたような。
ひそやかでありながら、心躍らせるような光を放っている。
オズボーン・ウィットは、その思索的な瞳を伏せた。
ベルベットより心地よいその肌に、ゆっくりと唇を落とす。
かすかな呻きがもれる。オズボーンの顎に細い指が触れる。かすかな声で、彼は訴えた。
「そんなこと…、するな…」
肌を合わせてベッドに沈んでおきながら、言うことだろうか。
誘ってきたのは、十三歳の龍威のほうだった。飛び級で大学にやってきた天才児だ。
オズボーンは二十一歳をむかえた。ほかの学生より年長なのは、起業して売りはじめたコンピューター販売が軌道に乗って休学したからだ。
掌のなかにおさめた、彼の手首の細さにおののいた。
『…ためしてみるかい』
丈高い男にたじろぐこともなく、言い捨てる。
その目は、こう告げていた。
ほかの奴らと、何がちがうのかと。
絶望の色が染めあげる。その目は深く、心臓を貫くように突きささる。
そのとき、オズボーンは決めたのだ。
この子どもを、あたためてやろうと。
彼の中の氷を、溶かせるものなら溶かしてやりたいと。
龍威とは、事業を通じて接点が生まれた。
彼はプログラミングに長けており、主催するサークルを通じて仕事を請け負っていた。
最初は個人でやっていたものを、友人たちと共同事業にして軌道に乗せる。
表向きはそうした理屈だったようだが、まもなくオズボーンは実態を知った。
龍威の運営するサークルが活動拠点にしている屋敷では、メンバーによる乱行パーティーが折々に開かれていた。
龍威自身は冷ややかな態度で広間を泳ぎ回り、愛欲にまみれる人々の姿を観察していた。
龍威の保管するデータには、メンバーたちの痴態がおさめられている。
『いつ何時、裏切られるかわからない。データはそのときのために保険をかけてあるだけだ。使うつもりはない』
そう言い切った龍威の、凍ったような声音はオズボーンの胸に痛みをあたえた。
…なぜ。なぜ、そんなことをする。
いつだって、言葉は無力だ。龍威が屋敷中に設置したカメラが、どんな秘めごとも暴くだろう。
それを承知で、オズボーンは龍威の策に乗った。
最初のきっかけは、なんだったのだろう。
友人に紹介される前から、アジアからきた天才児の噂は聞いていた。
彼が軽いフレームの車体にひらりとまたがり、残照の川縁を走ってゆくところを何度か見た。
短く整えた髪を立てて、唇をひきしめて歩くところを。
青白く凍ったような頬に、笑みはなかった。
彼が笑ったところを見た者は、誰もいない。
それが、龍威についての噂だった。
まだ、ほんの子どもなのにな。
校庭で、サッカーボールを追いかけていそうな年齢ではないか。
細いうなじからゆらめき立つ気配は、明確な拒否。
――誰も、おれに触れるな。
オズボーンは彼の、聞こえない声を聞いてしまった。
それからどうも、龍威のことが気になってしかたがない。自分でも妙だと思いながら、目で追ってしまう。
追いかけて、不審者に狙われていないか確かめたい。
さいわい彼は教授たちにかわいがられ、秘蔵っ子扱いされていた。主催するサークルの連中に囲まれていることも多い。
幼さの隙を突かれ、襲われることはなさそうだ。
オズボーンはほっとした。そして同時に、かなしくなった。
彼がサークルで何をしているかを、知ってしまったから。
そんなことをしては、いけない。
君はもっと、君自身を大切にするべきだ。
おためごかしを口にしながら、その肉体を貪り蹂躙してきた輩と、一体どこがちがうといえるのか。
オズボーンは、青さの残る手首を握る。唇の熱を、肌に乗せて滑らせる。
龍威が、かすかに呻いた。
苦しむような声だった。
その声音が、オズボーンの深い部分に火をつける。
もっと。もっとだ。
その声が、聞きたい。
我を失い、取り乱す声が。
氷の仮面を、外してほしい。
やわらかい素顔を、みせてほしい。
お願いだから…。
背中を丸め、シーツと肌に頭をすりつける。愛を乞う。心を捧げ、こいねがう。
…いやだ…と彼が言った。
そんなこと、するな…。もっと、……。
もっと、なんなのか。
もっと早くしろと。荒々しくことをすませて、立ち去れというのか。
そんなことはしないと、心に決めていた。
東洋からきた、神秘の絹に頬を寄せる。
なんという、無垢の輝きだろう。なんて愛おしいのだろう。
なめらかさの頂点に、わずかに添えられた彩りに目を留めた。甘やかすように、口に含む。
野生の果実が秘密裏に甘さを加えてゆくのを、うっとりと愛でた。
軽く吸いあげたとき、細い腕が背中を打ち叩いた。
「…っ、そんな、こと…。やめ、ろ……」
なぜ、やめなければならないのか。誘ったのは君で、応じたのは僕だ。
そんな理屈を、オズボーンは口にしなかった。顔をあげて、孤独な少年を見つめる。
「きみの体は、嫌がっていないみたいだけど…」
カッ、とその頬が染まった。
「いいから、やめろ…」
「なぜだ」
「…そんなこと…しなくていいんだ。もっと早くすませてくれ。みんな、そうする…」
なんて苦しげな顔をするのだろう。
せっかくみつけた東洋の宝石を、そんなに急いで飲み下したらもったいないじゃないか。
瞳で愛で、舌で味わい、喉で味わい、五感を尽くして味わうべきだ。
オズボーンは思ったが、口にだしてはこう言った。
「それじゃ、楽しくないな」
「楽しい、もんか。こんなこと…」
「…きみはなぜ、その楽しくないことに自分の体を差しだすんだい」
ひるんだ目が、こちらを見た。瞳の奥で、言葉にならない苦しみが揺れている。
彼は答えようとし、言葉に詰まった。
「無理に答えなくていいよ。じっとして」
オズボーンは言って、彼の体をすくいあげた。
「なに、する…っ」
抗議にばたつかせる手足をそのままに、かかえて抱きあげた。背中をぽんぽんと撫でてやる。
ベッドを出て部屋の中を歩き、子守唄をうたった。母が聴かせてくれたものを、まだおぼえていたことに少し驚く。
「…赤んぼうあつかい、するな」
くぐもった声で彼が言う。オズボーンは笑った。
「いいじゃないか。きみには必要なことだよ」
「ガキだと思って…」
「かつてはみんな、ガキだったのさ。そのことを忘れて、ヒゲなんか生やしていばってるけどね」
オズボーンの顔は、ヒゲが濃い。きれいに剃っても夕方には濃くなってしまうので、親しい友人には熊とあだ名されていた。
龍威は虚をつかれたように目を開いた。それから、小さく笑った。
「あんたのことかい」
「そうさ」
「笑った顔を、はじめて見たよ」
そう指摘すると、とたんに真顔に戻ってしまう。残念がりながらオズボーンは言った。
「きみは、もっと笑うべきだね。魅力的なんだから」
「…女を口説くようなことを言うな」
「口説いてるんだよ」
「なんで…」
「きみが、好きだからさ」
龍威は目を開いてから伏せ、ぼそりと言った。
「もう、子どもじゃない。いいかげんに下ろしてくれ」
オズボーンは笑って彼に従い、ベットの端に下ろしてやる。
ひょろりと長い足はぽきぽきして、筋肉をうっすらとまとわせはじめたばかりだ。
分厚いマットレスを敷いたキングサイズのベットから、爪先だけがようやく床に着きそうでいて届かない。
龍威は落ち着かない様子で両手をつき、不安定な体を支えている。
オズボーンは許しを乞うように、彼の前にひざまずいた。微笑みを保ってこう言った。
「…どうか、愛することを許してもらえないだろうか」
龍威はまじまじとオズボーンを見つめ、あきれたように言った。
「なにを言ってるんだ」
「もちろん、愛の告白さ」
「そんな手間をかけずに、さっさと抱けばいいじゃないか」
ほかの奴らみたいに。
凍える瞳は、そう言いたげにこちらを射る。
オズボーンは黙って、彼の手をとった。
見つめながら微笑み、手の甲にゆっくりと唇を落とす。
磨かれた翡翠のような肌が、ぴくりと震えた。
「ひとつだけ、願いごとがある。…きみがほしい」
「…だったら、早く…」
「あいにく、僕は贅沢なんだ。きみのぜんぶがほしいのさ」
「ほかの奴らとは、つきあうなってことか」
「察しがいいね」
「支配欲の強いやつなんて、お断りだ」
「支配欲じゃない。きみを、きちんと愛したいだけだ」
大男は身を屈め、龍威の足首を押しいただくようにして持ちあげた。足の甲に頬をよせ、口づける。
「…っ、やめ…ろ……」
「愛しているから、やめない」
「…いや…だ……」
龍威は顔を覆い、呻いた。…、なんて…。愛なんか、いらない……。
「それは、どうして。愛はきみから、なにも奪いはしないよ。僕はただ、勝手にきみのことを好きになっただけなんだから」
「…愛なんか、嘘つきだ。みんな、裏切る。おれを騙す…」
「こっちを見てごらん、龍威。たとえきみが僕をナイフで刺しても、決して傷つけないと誓うよ」
薄目を開けた、子どもが見ている。
指の隙間から、流すことのできない涙を呑みこみながら。
オズボーンは静かに言った。
「…信じてほしい。僕は、きみを裏切らない。たとえきみが、僕のもとからいなくなったとしても」
「…なんで……、そんな……」
「愛とは、本来そうしたものだからさ。さあ、隠してないで、ちゃんと顔を見せてくれないか。僕はきみが、大好きなんだから」
青白い月は、雲間を透かして真珠色に輝く。雲が割れて、極光のような輝きがゆらめいた。
オズボーンの差しだす厚い手のひらに、そっと彼が触れてきた。
薄氷の張った湖面を歩くように、ひどくおずおずとしていた。
「信じて、くれたのかい」
「…まだ、わからない」
ぶっきらぼうに少年が言う。オズボーンは笑った。
「結論をだすには、早計すぎるな。きみはゆっくり、愛とやらの真偽をたしかめるといい」
変わり者が、我らがサークルに入りたいんだとさ。
いいとも。興味のあるやつなら、だれでも歓迎さ。
入会を許可するかどうか訊かれて、龍威は拒みもしなかった。だれが来ようが、関心がなかったのだ。
やってきた背の高い男を見るなり、龍威は眉をよせた。
有名人だから、さすがに名前と顔ぐらいは知っている。
オズボーン・ウィットじゃないか。留年してまで商売をやってる。近々退学して、事業に本腰を入れるらしいぜ。
そのうち、いなくなるさ。そのうちに…。
メンバーは声を落としてささやきあう。
龍威は、すぐに関心を失ったように目を逸らした。
いなくなるのなら、気にすることもないか。
しかし、折に触れて彼の視線を感じていた。
温厚そうな榛色の目が、肩に止まる。うなじに止まる。小鳥のように、蝶のように。
寝たいのなら、最初からそう言えばいいのだ。
なにも求めない、その目はなんだ。
謎めいた男は、なにをするでもなく滞在していた。
壁ぎわの本棚をながめたり、プログラムを弄ってみたり、メンバーとなごやかに談笑していた。
目的が、見えない。
そのことが、龍威を不安にさせた。
だから、誘った。
あっさり乗ってくるようなら、見限ってやる。
そう決めていたのに。
龍威を拍子抜けさせたことに、この男は乱行の輪からひとり抜けだした。
なにをしているのか見に行くと、月光が降る前庭でバイロンの詩を口ずさんでいた。
もう、さまようのはやめよう。
心はなお愛に満ち、
月もいまだに明るいというのに。
『やあ、龍威。眠れないのか』
僕もだよ…とのんきに言って、小枝が絡んだ龍威のシャツに触れた。
反射的に身構えたのに、びりっと来なかった。
虫唾が走るぐらい、いやなやつなら電気が走るものなのに。
熊と呼ばれた男は、月明かりで小枝をそっと外した。折りとることをしなかった。
『きみも詩を誦んじにきたのか』
そんなわけ、ないだろう。
顔色でそう告げて、龍威は口をつぐむ。彼はなにごともなかったように、詩の続きを口ずさんだ。
薄明かりの庭に、静かな声が落ちる。青い空気に染められてゆく。
景色みたいな男だ。
害のない、空気みたい奴だ。なにがおもしろくて、生きている。
そう思った瞬間に気づいた。
おれは…。おれこそ、わからないのに。
いったい、なんのために生きているんだ。
なにもないのに。
他人のことなんか、えらそうに言えるもんか…。
木の実の色の瞳が泳いで遠くをみた。思いだせない箇所があるらしい。
龍威が先を続けてやると、膝を打って静かに笑った。
二人の声が重なり、夜の空気に溶けてゆく。
龍威は、オズボーンの声が嫌いではないことに気づいた。
まったく、変な男だった。
その、変な男は素肌を夜にさらしている。
龍威も同じだ。
さっきまで、寝ようとしていた。
それを中断して、子守唄をうたう。
挙げ句の果ては、騎士のようにひざまずいて『愛することを許してもらえないだろうか…』などと。
愛に、許可がいるのだろうか。
抱くのには、理由が必要か。
欲望には、なんの裏づけがあるのだろうか。
凍えることのない愛は、あるのだろうか。
おれの知らない、肌の温度はあるのだろうか。
…たしかめ、たい。
龍威は手を伸ばして、目の前にある盛りあがった肩先に触れた。勝手に口が動いた。
「…いいな、筋肉があって」
なにを言ってるんだ、おれは。馬鹿なことを言うな。
龍威は自分で自分に文句を言った。この男といると、どうも調子が狂うみたいだ。
「きみだって育つさ。ちゃんと飯を食っていれば、そのうちに」
「…食うのが面倒だ」
「育ち盛りなのに、これだ。夜食でも作ろうか」
オズボーンはそう言って、のんきな微笑をみせた。おだやかな瞳に満ちた光が、暗がりを照らす。
健全な肉体に、健全な精神。
おれはいったい、なんなのだろう。
折れて壊れてどうにかなって…心のほうが複雑骨折してる。
食べて立派な男になりましょう、だと。
男になって、強姦するのかい。
立派な持ちものは、とっておきのピストルなのかい。
いらない、なにもいらない…。
おれは、おれ自身をいらないのだと感じている。
何もかもが、無駄だと感じられる。
父の期待にそむき、果てしない虚空をどこまでも落ちてゆくのだと決めた。
なのに、バイロンを口ずさむとぼけた熊が言うのだ。
「パスタなら得意だ。ペペロンチーノとバジリコ、どっちがいいかな」
そんなの、どっちでもいい。
というか、おれは。
龍威は、不機嫌そうに口を尖らせた。
「…ナポリタンがいい。あと、カレー」
「ナポリタンってのは、なんだい」
「…ケチャップをぶちこんで、炒めたパスタ。日本の喫茶店とかなら、どこにでもあるやつ」
「きみは、日本人なのかい。台湾籍だと聞いたが」
「…半分、日本人」
言ってしまった。だれにも、言ったことがなかったのに。なぜだ。
膝がしらを包んでいる、大きな手のひらが重くて熱い。閉じようとしたのに、たしなめるように開かれる。
「…ちゃんと見せてくれ」
変な男に、かかわってしまった。
ペペロンチーノの話をしながら、おれを抱くな。
そんなこと、どうだっていいじゃないか。
いいや、よくないよ…。
おれは、おれがわからない……。
龍威は、黙って顔を覆った。
茶色いボタンの目が、月みたいに光っている気配がした。
「ずっと見ていたいけど…」
なんだよ。なにが言いたんだ。
「僕はとても空腹だから。食べていいかな」
猶予は、あたえられなかった気がする。
熊は広すぎる背中を丸めて、なんのためらいもなくそこを口に含んだ。
パスタをこねるように押し揉んで、筒先にやさしく触れた。
雨滴を待つ乾季の生きもののように、押しいただいてから吸い口に唇を当てた。
おれを、パスタだと思っているのか。
「きみのからだは、ちゃんと健康だよ。だが、痩せすぎだね。きちんと栄養をあたえたら、心が笑うようになるよ」
おれは…、やつを笑ってやろうとした。だって、おかしいだろう。
喉にひっかかる、変な声がでた。しゃっくりみたいで、サマにならない。
顔を覆った手を外されそうになったので、反射的に背中を丸めた。
いきなり抱きしめられ、体温が満ちた。
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なにも言わない。
まだ、なにもしていないじゃないか。なにも……。
黙って包みこみ、抱いている。
役に立たない子どもの、おれを…。
月のように、ひそやかな声が告げた。
「僕は、きみが好きだよ。龍威…」
光は、そこにあったのだ。
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雲に覆われ、隠されても。
光は、ある。
絶えず静かに降り注ぐ…。
痩せた体の奥に、涙に似た光が満ちた。
龍威の喉が、裂けるような音を立てた。
オズボーンは黙って、腕に力をこめた。
オズボーン・ウィットが屋敷を訪ねると、サークルのメンバーが使っていたコンピューターやデスクが洗いざらいなくなっていた。
大理石の床はがらんとして、パーティーの気配もない。
龍威はホースで、庭木に水やりをしていた。
「やあ、龍威。サークルは解散したのかい」
彼はむっとしたように水流を強め、文句を言った。
「あんたが言ったんじゃないか。ほかの奴らとつきあうなって」
オズボーンは口笛を吹き、にやりとした。
こんなに早く、聞き入れてくれるとは思わなかったのだ。しかし、口にだしてはこう言った。
「…ありがとう、龍威。とてもうれしいよ」
正面から熱心に見つめると、龍威はふいと背を向けてぼそりと言った。
「べつに、あんたのためじゃない」
「そうなのかい」
「あんなこと、おもしろくもなんともなかった。飽きて、退屈になっただけさ」
なんでもいいのだ。
彼が自分自身を傷つけることを、やめてくれるなら。
オズボーンは笑って空を仰いだ。
「まったくだ。この晴天に、部屋に閉じこもっている場合じゃないな」
彼らの午後は、めちゃくちゃになった。
龍威がふざけて、オズボーンに水をかけたからだ。
十三歳の少年と二十一歳の青年は、サマーバケイション中の子どものようにはしゃぎ回った。
夏の太陽はゆるやかに傾いて、地平線をなお明るませている。
オレンジの輝きに輪郭を切り抜かれた少年は、不意に思いだしたようにオズボーンに言った。
「…あんたの愛ってやつが、どうもわからない」
オズボーンは、ゆっくり瞬きをした。
この瞬間を、この光の加減を。今すぐ撮影して、動画に記録して…一生とっておきたい。
龍威は、はじめて正面からオズボーンを見たのだ。
彼は、勉強でも教えてくれと頼むような調子で言った。
「ちゃんとしたやつを、教えてくれないか。一度でいい」
オズボーンはひどく驚いたものの、それを悟らせないように静かに言った。
「僕のほうは、いっこうにかまわないが。きみは、後悔しないかい」
龍威は唇の端をもちあげた。…後悔なんか、するもんか。反射的に言いかけて、こちらを見た。瞳が揺れる。
「…わからない…。おれの知ってるそれが、だいぶ歪んでるってことはわかってる」
今のうちに、歪みを修正しておきたいと思ったのか。
すこやかな性の感覚を、とりもどせるものならそうしたいと願ったのか。
龍威は言葉を探し、しまいに困ったようにオズボーンを見た。
「…よく、わからない。…あんたが嫌じゃなかったら、頼む」
バスルームの床を、水流の雨が叩いている。
二人は競うようにして、体に張りつく衣類を脱ぎ捨てた。
ランドリーに投げこんで、乾燥までの工程をセットする。小一時間もくつろいでいれば、快適に着られるようになるはずだ。
裸のままで、笑いながらベッドルームに駆けこんだ。
「龍威――…」
オズボーンがなにかを言いかけた。少年は笑って、魚のようにそばをすり抜ける。
「気が変わらないうちに、早くしろよ。この前だって途中でやめたんだから」
怖くは、ないのか。
きみの中で。
きみを裏切り傷つけてきた者たちの、足跡はもう見えないのか。
きみはもう、夏の日差しに輝いて。
象牙色の肌を、惜しげもなく太陽に焼かせたりするのか。
龍威、きみは――…。
水底のいちばん深い場所で、呼吸がとまる。
水泡を集めて交換しあい、息継ぎをする。
ゲームのように。
唇をかわし、離れてはふたたび触れあわせた。
「…ん…っ、………」
極上の絹よりなめらかな、平らな胸に頬をよせる。ヒゲが痛いと、文句を言われながら。
頂きにある小さな果実の輝きを、オズボーンは見つめた。
ゆっくりと舌先で掻きとり、喉に送る。…甘い。とても、甘くて…。
かすれた甘い声が、脳に響く。
いや…ぁだ…。
拒む言葉を選びながら、清潔なラインを描く腰が揺れている。
芯を突いて、溢れる果汁を吸うごとくに頬をすぼめる。愛して、いる…。
「…っ、あっ、……あぁ…、くっ……」
溺れる者のように、さまよう指先がすがりつく。
…大丈夫だよ。僕はここにいる。きみも、ここにいる。どこにもいかない…。
「…ぁあ、あ…」
禁欲的な膝頭を、左右に開く。そこには眩いばかりの、まだ汚されていない真珠が輝いている。
オズボーンは息を詰め、深い場所にもぐった。
潜航してゆく。
この宝物は、誰にも渡さない。
二度と汚されてはならない。
なぜなら……。
――死――…。
愛していると、言いながら殺す。
なぜ――?
引き裂かれる、割れてしまう――。
龍威は虚空につながれて、名前のない死を垣間見た。
最初は、父親から。
頭をつかんでバスタブに漬けられ、忠誠を誓うまでは許さんと詰られた。
母を人質にとられているから、逆らえない。
ようやく浮上できたと思ったら、アメリカに留学させられた。
そこで龍威は、二度目の死を見た。
最初は味方の顔をしていて、肩にやさしく触れてきた。じきにそれはおぞましい感触に溶け、化け物へと変じてゆく。
おまえが、悪い。
おまえの、せいで――。
滑稽なことに、彼らの言うことはいつも決まっている。龍威の目がしむけたのだと、罵るのだった。
おれはなにも、していない。望んでもいない。
あんなこと――。
逃げ場のない壁に頭をぶつけたら、体の底部から赤黒くて熱い異物が入ってきた。腐った内臓の匂いがする。
みりみりと、音がする。
裂けてしまう――!
龍威はボロ布のように横たわり、虚ろなガラスの目で天井を見た。
『…どうだ。俺のピストルは良かったかい』
――殺してやる――!
おれをこんな目にあわせた奴ら、みんな。
まとめてブタ箱にぶちこんで、火をかけて。
二度とそんなことが言えないように、喉を焼く。
二度と汚い目で見てこないように、焼き尽くしてやる。
…許さない。
…絶対に、許さない――…。
肩に乗せられた、大きな手が震えていた。
「――殺してやるんだ」
無機質な声が、つぶやいた。壊れた装置は、同じ場所で再生をくりかえす。
カタカタと、同じ震えを吐きだして。つかえるようにして、止まるのだ。
なんで抱いているんだ。
なんで、泣いているんだ。
おかしいだろう。いい大人が、熊みたいに大きな体をして。
声をあげて、泣くんだ。
おれの上に、かぶさりながら。
愛とやらを、ぜんぜん教えてくれもせずに。
熱いものが、落ちてきた。
さっきからもう雨ばかりで、びしょ濡れなのに。
声をあげようとして目を開けたら…熱いと感じたのは水じゃなかった。
おっさんみたいにヒゲだらけの熊が、おれにかぶさったまま降りてきた。熱い幻がすり抜けるみたいに、体の中に入ってきた。
なあ、オズボーン…。あんた、二人になってるよ。
分裂してるんだ。
もう一人のあんたがおれの中に入ってきて、空っぽな魂の埋め合わせをするみたいに、重なっている。
体のほうは、どうなっているのか。
境目から、溶けてきた。
虫唾が走るぐらい、嫌なやつじゃなくて。
なんでもないやつだ。
あったかくて、おせっかいで。少しだけほっとして、なんかため息のでるやつ。
心臓のへんに、熊の魂が重なっている。
そのうち、一つに溶けてしまうんだろう。
そのことを、おれは当たり前みたいに感じていて。
奴は奴の半分がなくなってしまうのに、それはいいのか…とか。
ありあまってるエネルギーをくれてるんだから、素直に受けとっておけばいいのかな、とか。
ぼたぼた落ちてくるオズボーンの汗と匂いにまみれながら、そんなことを考えていた…。
指を引き抜かれると、どろりとするものが溢れてシャワールームの床にたまった。
前もそんな感じだったけど、今度は嫌じゃない。
それどころか、膝が笑ってまっすぐ立てなくなった。
オズボーンが腕を伸ばして、おれを支えた。
「大丈夫かい、その…」
指先に、彼の腕の毛が触る。ほんとうに熊みたいだと、おかしくなって笑った。
体の感覚が、もどってきた。
アメリカに来てから、凍ったままになっていたやつだ。
頭の芯はいつも、きいんと鳴るように冷えていてた。
なにを見ようがどこをどうされようが、ほとんど感じなかった。
乱行、なんて。
感じることに愉しみを感じる奴の、ガーデンパーティーにすぎない。
苦痛だった、ずっと。
それなのに、目をふさぐことを許さない何者かがいた。
おれが、おれ自身に命じていた。
――忘れるな。
――覚醒せよ。
狂乱の中の、本質を見極めよ。
最下層に降りて、この世の汚穢にまみれよ。
切先のごとく鋭く確かな、叡智の光を見いだせ。
仕える者を、探しだせ。
「…もう、一回……」
戸惑う瞳が、訊ねている。
そんなことをしたら、きみは壊れてしまう。食事と休息が必要だよ。
頬を包む大きな手に指を添えて、龍威は命じた。
「…オズボーン。おれを抱け」
光の中に、洞窟があった。
中心には小さな立像があって、片手は天を、片手は地を指している。
のちに出家する、高貴な少年王は言った。
何者にも、魂を支配されてはならない。
人は皆己が頂点に立ち、それぞれ星のごとくに輝くべきなのだ。
さあ、行って成すべきことをせよ。
愚者の惑う、地平を制圧せよ。
額に輝く、星の徴を忘れるな。
闇を貫きどこまでも、遥かな天地を駆けてゆけよ。
オズボーンは額を地につけ、少年王にかしずいた。
今は幼なくとも、高貴なる魂は香るごとくであったから。
きみはきみの、空をゆけ。輝くごとくに。
僕の頭上をこえてゆけ。
ただひとときの、止まり木として。
きみをくつろがせる時を得たことを、至福に思うよ。
………………。
龍威はやがて、眠りに落ちた。
その頬にはまだ、涙の痕がある。
百万回の生死を超えて、きみは行くだろう。
僕の手の届かない、高みの空へ。
僕はきみを想い、そして誇りに感ずるだろう。
いつかその日がくるまでは。
つかの間の眠りを、きみに。
かたちのない花束として、ささげよう。
愛しているよ…。
小さな龍が、目を覚ました。
彼はいきなり言うのだった。
「…オズボーン。なんか、変だ。腹が鳴ってる」
「疲れたんだろう。なにか作るか。材料はなにがあるんだ。冷凍食品か」
「そんなのはいいよ。あんたをもう一回食ってやる」
まっさらな絹でできた子どもの額を弾いて、彼は言って聞かせるのだった。
「いいか、龍威。腹が空いたときは、きちんとご飯を食べるんだ。偏食すると大きくなれないぞ」
彼は猫のように唸りながら、眠そうに頭をすりつけてきた。
「…なんだ。愛は、食えないのか」
「人間には、体ってものがあるからな。体と心と、両方に栄養をあげなけりゃならないよ」
「……面倒くさい」
のちの龍威が、恋人にいそいそと手料理を作る姿など、誰が想像できただろうか。
オズボーンはため息をつき、王族のごとく自堕落な少年に服を着せてやったのだった。
〈終〉
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山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
連理の枝と約束~あなたと月の下で
夏目奈緖
BL
真面目青年×妖艶系天使。明治の世。武家の名残を持つ黒崎家は、海運業と機織り工場を営んでいた。16歳の冬、秀悟の前に現れたのは、月から来たと語る美貌の青年・アンリ。機織りに魅せられた彼は黒崎家に住み込み、やがて家族同然の存在となる。しかし、アンリは、この星を観測する軍人であり、故郷には婚約者がいるという。10年の歳月の中で、秀悟は決して口にできぬ想いを募らせていく。やがて訪れる帰還の時。天では比翼の鳥に、地では連理の枝に。月の光の下、二人が選ぶ未来とは。「青い月の天使~あの日の約束の旋律」に少し出てくるカップルです。
十七歳の心模様
須藤慎弥
BL
好きだからこそ、恋人の邪魔はしたくない…
ほんわか読者モデル×影の薄い平凡くん
柊一とは不釣り合いだと自覚しながらも、
葵は初めての恋に溺れていた。
付き合って一年が経ったある日、柊一が告白されている現場を目撃してしまう。
告白を断られてしまった女の子は泣き崩れ、
その瞬間…葵の胸に卑屈な思いが広がった。
※fujossy様にて行われた「梅雨のBLコンテスト」出品作です。
病弱の花
雨水林檎
BL
痩せた身体の病弱な青年遠野空音は資産家の男、藤篠清月に望まれて単身東京に向かうことになる。清月は彼をぜひ跡継ぎにしたいのだと言う。明らかに怪しい話に乗ったのは空音が引き取られた遠縁の家に住んでいたからだった。できそこないとも言えるほど、寝込んでばかりいる空音を彼らは厄介払いしたのだ。そして空音は清月の家で同居生活を始めることになる。そんな空音の願いは一つ、誰よりも痩せていることだった。誰もが眉をひそめるようなそんな願いを、清月は何故か肯定する……。
《完結》僕が天使になるまで
MITARASI_
BL
命が尽きると知った遥は、恋人・翔太には秘密を抱えたまま「別れ」を選ぶ。
それは翔太の未来を守るため――。
料理のレシピ、小さなメモ、親友に託した願い。
遥が残した“天使の贈り物”の数々は、翔太の心を深く揺さぶり、やがて彼を未来へと導いていく。
涙と希望が交差する、切なくも温かい愛の物語。
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