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time.69

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「じゃあ、また後でね」

会社に戻り、エレベータで千晃くんと別れて、3階フロアに降り立った。

帰りは迎えに行くから、絶対に知らせるようにと千晃くんに念を押された。

千晃くんが甘やかしてくれたおかげで、
緑川さんから逃れて数時間しか経っていないけれど、会社に戻っても落ち着いていられた。

千晃くんの温もりが残る手を握りしめてホールを横切り、通路を歩く。

とりあえず。
チーフに会えたらお礼を言いたい。

と思いながら歩いていたせいか、
非常階段に続く通路の曲がり角に、モノクロスーツの影を見つけた。

なぜか緊張して、呼吸を整え、姿勢を正してから近づく。

高野チーフの後姿を確認して、声をかけようと足を速めると、話し声が聞こえた。

他にも人がいることに気づいて、急ブレーキをかける。

…出直そう。

踵を返して、通路を戻りかけた時、

「…俺が佐倉に本気になると思うか?」

まぎれもなく高野チーフの、低く艶やかな声が耳に届いて心臓が止まる。

え、…

今。なんて、…

一瞬の後。
今度は狂ったように早鐘を打ち始めた鼓動の音が、頭にこだまして、

「…ホント、悪い男ですね」

甘えるように続けられた声が、誰のものかよく分からなかった。

けれど。

すごく身近にいる人の声に似ていた。

天使で、オシャレで、気が利いて、
優しくて、大人で、仕事もできて。

大好きな。

足音を立てないように細心の注意を払って通路を引き返し、
心を落ち着けるために女子トイレに駆け込んだ。

胸をえぐられるような痛みってこういうのかもしれない。

胸に手を当てて深呼吸を繰り返す。

そう言えば。

来週の30周年記念パーティー。
チーフはまりな先輩をエスコートするんだっけ。

ぼんやりと頭が余計なことを思い出した。

どうしてか、理由は聞いていないし、聞く権利もないけれど、

理由なんて一つしかないような気がする。

『いいじゃない、高野チーフ。仕事は出来るし、面倒見いいし、大人で優しくてかっこよくて、社内人気NO.1の究極イケメン、…』

思えば、最初からまりな先輩はチーフ推しだった。

『高野チーフは社内人気NO.1だけど、会社の子には手を出さない』

チーフ事情もよく知っていた。

そっか。そうかあ、…

まりな先輩なら、チーフにもふさわしい。

迷惑かけてばかりで、2歳児より手がかかる私とは違って。

「…そう、だよね」

これだから、モテないオンナは困る。
慣れてないから、優しくされたらすぐにその気になってしまう。

全然違うのに。
ただの同情と親切心なのに。

『俺は、お前の強さが、…』

分かってるのに。
ちゃんと理解しているのに。

『お前を守りたい』

泣くことなんて何にもないのに。

『何があっても、お前の味方でいてやる』

…嘘つき。
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