30 / 95
second.29
しおりを挟む
翌朝早く、一度家に帰った。
「そばにいるから」
レクサスRXの運転席から身体を回して、助手席に座る私の頭を引き寄せると、桐生さんは唇でそっと腫れた瞼に触れた。
桐生さんはどこまでも優しい。
朝日がまぶしすぎて目を開けることが出来ず、ぼんやりと出社した会社のエントランスで、人とぶつかりそうになった。
「あ、あおちゃん。おはよう」
あろうことか、結子さんだった。
「…結子さん、おはようございます」
「どうしたの? なんか目がブスだよ?」
心配そうにのぞき込んでくる結子さんは今日も美人でそつがないが、心身ともにボロボロの私は戦闘能力ゼロだった。
「総務で氷もらったら? 少しはマシになるかもよ?」
「…へい」
結子さんは張り合いなさそうに先にエレベータホールへと消えていった。
仕事しよう。
仕事しかない。
「清水さん、待てば海路の、ですからね」
「分かってるよ、谷」
「清水さん、大人になりましたね」
「黙れよ、谷」
物言いたげな視線を気力で遮断して、
ともかく仕事に没頭していたら、やがて、青ざめた細田課長に呼ばれた。
「BBAファイナンスって知ってる?」
BBA…
ババアしか思いつかなかったので、とりあえず黙って首を振った。
「そこにうちが300万振り込んでるんだけど、どうやら架空請求らしいんだよね」
架空請求。
…何か得体の知れないねっとりとしたものが足元から立ち昇ってくるのを感じる。
課長が弱り切った顔で私を見た。
「相手は即日現金を引き出して口座は既に解約済み。で、上層部、特に常務が、やらせじゃないかって疑ってる」
常務? やらせ?
甘えるように結子さんに寄りかかっていた常務の姿がぼんやり浮かぶ。
「つまり、経理担当者が実体のない相手先にわざと振り込んで自分で引き出した。…横領じゃないか、って」
急に現実が鋭く私を切り裂いた。
「そのね、全面的に君を疑っているわけじゃないんだが、…」
上階にある役員室は防音で、妙に重厚感のある革張りのソファが設えられていた。
細田課長と共に役員室に呼び出された。
緊張しなくていいから、と座らされたソファは現実味がなくて、居心地が悪い。
課長と並んで座った脇を、社長、副社長、専務、常務といった上役たちがずらりと固める。
「特別に銀行の監視カメラの映像を見せてもらったんだ。この写真なんだがね」
専務が一枚の白黒映像をプリントしたものを私たちの前に置いた。
ATMを操作する人影は、小柄な体型でスーツを着ている。スカートから女性だとわかるが、帽子と眼鏡、そしてマスクで詳しい表情はわからない。
「この眼鏡とスーツが、君のものと似ている、という声があってね」
隣で課長が観念したような息を吐いた。
待って。…ちょっと、待って。
意に反して、自分の動悸が激しくなる。
フレームが太めの眼鏡は、確かに私の眼鏡と似ていると言えなくもない。でも詳細は見えないし、こんなフレームの眼鏡はありふれている。
スーツは。
…心臓が苦しい。
見覚えのあるスーツに似ていた。
『オッケー、あおちゃん。私の着替えとメイク道具貸してあげるから、更衣室行こっ』
自分が狭い四角い檻の中に捕らえられて、唯一のドアが音もなく閉ざされるのを感じた。
「そばにいるから」
レクサスRXの運転席から身体を回して、助手席に座る私の頭を引き寄せると、桐生さんは唇でそっと腫れた瞼に触れた。
桐生さんはどこまでも優しい。
朝日がまぶしすぎて目を開けることが出来ず、ぼんやりと出社した会社のエントランスで、人とぶつかりそうになった。
「あ、あおちゃん。おはよう」
あろうことか、結子さんだった。
「…結子さん、おはようございます」
「どうしたの? なんか目がブスだよ?」
心配そうにのぞき込んでくる結子さんは今日も美人でそつがないが、心身ともにボロボロの私は戦闘能力ゼロだった。
「総務で氷もらったら? 少しはマシになるかもよ?」
「…へい」
結子さんは張り合いなさそうに先にエレベータホールへと消えていった。
仕事しよう。
仕事しかない。
「清水さん、待てば海路の、ですからね」
「分かってるよ、谷」
「清水さん、大人になりましたね」
「黙れよ、谷」
物言いたげな視線を気力で遮断して、
ともかく仕事に没頭していたら、やがて、青ざめた細田課長に呼ばれた。
「BBAファイナンスって知ってる?」
BBA…
ババアしか思いつかなかったので、とりあえず黙って首を振った。
「そこにうちが300万振り込んでるんだけど、どうやら架空請求らしいんだよね」
架空請求。
…何か得体の知れないねっとりとしたものが足元から立ち昇ってくるのを感じる。
課長が弱り切った顔で私を見た。
「相手は即日現金を引き出して口座は既に解約済み。で、上層部、特に常務が、やらせじゃないかって疑ってる」
常務? やらせ?
甘えるように結子さんに寄りかかっていた常務の姿がぼんやり浮かぶ。
「つまり、経理担当者が実体のない相手先にわざと振り込んで自分で引き出した。…横領じゃないか、って」
急に現実が鋭く私を切り裂いた。
「そのね、全面的に君を疑っているわけじゃないんだが、…」
上階にある役員室は防音で、妙に重厚感のある革張りのソファが設えられていた。
細田課長と共に役員室に呼び出された。
緊張しなくていいから、と座らされたソファは現実味がなくて、居心地が悪い。
課長と並んで座った脇を、社長、副社長、専務、常務といった上役たちがずらりと固める。
「特別に銀行の監視カメラの映像を見せてもらったんだ。この写真なんだがね」
専務が一枚の白黒映像をプリントしたものを私たちの前に置いた。
ATMを操作する人影は、小柄な体型でスーツを着ている。スカートから女性だとわかるが、帽子と眼鏡、そしてマスクで詳しい表情はわからない。
「この眼鏡とスーツが、君のものと似ている、という声があってね」
隣で課長が観念したような息を吐いた。
待って。…ちょっと、待って。
意に反して、自分の動悸が激しくなる。
フレームが太めの眼鏡は、確かに私の眼鏡と似ていると言えなくもない。でも詳細は見えないし、こんなフレームの眼鏡はありふれている。
スーツは。
…心臓が苦しい。
見覚えのあるスーツに似ていた。
『オッケー、あおちゃん。私の着替えとメイク道具貸してあげるから、更衣室行こっ』
自分が狭い四角い檻の中に捕らえられて、唯一のドアが音もなく閉ざされるのを感じた。
1
あなたにおすすめの小説
溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?
【完結】僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
小島久遠は、新たな職場で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」
母に紹介され、なにかの間違いだと思った。
だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。
それだけでもかなりな不安案件なのに。
私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。
「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」
なーんて義父になる人が言い出して。
結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。
前途多難な同居生活。
相変わらず専務はなに考えているかわからない。
……かと思えば。
「兄妹ならするだろ、これくらい」
当たり前のように落とされる、額へのキス。
いったい、どうなってんのー!?
三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
*****
千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
*****
表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
【完結】京都若旦那の恋愛事情〜四年ですっかり拗らせてしまったようです〜
藍生蕗
恋愛
大学二年生、二十歳の千田 史織は内気な性格を直したくて京都へと一人旅を決行。そこで見舞われたアクシデントで出会った男性に感銘を受け、改めて変わりたいと奮起する。
それから四年後、従姉のお見合い相手に探りを入れて欲しいと頼まれて再び京都へ。
訳あり跡取り息子と、少し惚けた箱入り娘のすれ違い恋物語
ズボラ上司の甘い罠
松丹子
恋愛
小松春菜の上司、小野田は、無精髭に瓶底眼鏡、乱れた髪にゆるいネクタイ。
仕事はできる人なのに、あまりにももったいない!
かと思えば、イメチェンして来た課長はタイプど真ん中。
やばい。見惚れる。一体これで仕事になるのか?
上司の魅力から逃れようとしながら逃れきれず溺愛される、自分に自信のないフツーの女子の話。になる予定。
Perverse
伊吹美香
恋愛
『高嶺の花』なんて立派なものじゃない
ただ一人の女として愛してほしいだけなの…
あなたはゆっくりと私の心に浸食してくる
触れ合う身体は熱いのに
あなたの心がわからない…
あなたは私に何を求めてるの?
私の気持ちはあなたに届いているの?
周りからは高嶺の花と呼ばれ本当の自分を出し切れずに悩んでいる女
三崎結菜
×
口も態度も悪いが営業成績No.1で結菜を振り回す冷たい同期男
柴垣義人
大人オフィスラブ
ソツのない彼氏とスキのない彼女
吉野 那生
恋愛
特別目立つ訳ではない。
どちらかといえば地味だし、バリキャリという風でもない。
だけど…何故か気になってしまう。
気がつくと、彼女の姿を目で追っている。
***
社内でも知らない者はいないという程、有名な彼。
爽やかな見た目、人懐っこく相手の懐にスルリと入り込む手腕。
そして、華やかな噂。
あまり得意なタイプではない。
どちらかといえば敬遠するタイプなのに…。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる