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06.

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「お前いつまで笑ってんだよ?」

バイクを操る佑京くんの背中が怒っている。

「笑ってないよ?」
「嘘つけ」

というか、拗ねている。

「いやちょっと、嬉しかったというか、…」

佑京くんのバイクに乗せてもらって移動する途中、つかまらせてもらっている背中が愛しくて困る。この綺麗な外見をして武骨な中身のお兄さんは、コーヒーを淹れられないのだ。

今朝、いつまでもベッドでぼーっとしている私のために、佑京くんが昨日コンビニで買ったばかりの豆でコーヒーを淹れてくれた。んだけど、

「…苦っ」

めっちゃくちゃ濃くて、真面目に吹きそうだった。

「え、…ダメか?」

なんか昨日からリベンジに燃えていた佑京くんには言い難いけど、飲めるレベルじゃない。苦すぎる。

「豆って三杯入れるんだよな?」
「…えーと、一杯だよね」

なんでそんな張り切っていっぱい入れちゃったんだろうと思う私の前で、ショックを絵に描いたような顔をして、佑京くんがマグカップに手を伸ばす。

「…淹れ直す」
「え、いいよ。勿体ない」
「お前、俺にはできないと思ってんだろ」
「ええー、…」
「俺だってやれば出来るんだ。自分がちょっと飲まないだけで」
「あ、いや、うん、…」

ムキになっている佑京くんが可愛くて、苦手なコーヒーを私のために淹れようとしてくれたことが嬉しくて、その最初の一杯は捨てられずに、砂糖とミルクを鬼のように入れて飲んだ。苦くて甘い。まるで佑京くんそのもので、ちょっと泣きそうになってしまった。

そんな愛しい背中が、眩しい太陽が降り注ぐ幹線道路を駆け抜ける。

「こいつならちゃんと、…」

佑京くんが何か言ったような気がしたけど、

「え――――――!?」
「何でもね――――――っ」

耳をよぎる風の音に紛れて、よく聞こえなかった。

幹線道路沿いにある喫茶店で朝食をとり、佑京くんが最初に向かったのは『西野』さんというお宅で、都心から2時間の田園が広がるのどかな都市にあった。この家に住む春香さんというお嬢さんが季生くんと同じように背中に羽があるということだけど、…

「…亡くなった!?」

春香はるかが亡くなって、3年になります。生まれて間もない健診で背中の皮膚が一部隆起していると言われて、やがてそれが羽のように見えることから、天使の子として一時期マスコミにもてはやされました。でもそれ以外は特に変わったところもなく、健康で、病院でも心配ないと言われてたんです。羽も皮膚の一部に紛れて目立たなくすることもできましたから、あまり気にせず、周囲にも言うことはなくなったんです」

応対してくれたのは彼女のお母さんで、本人は亡くなっていた。

「明るく快活な子でした。でも20歳の誕生日を間近に控えた頃から、羽の辺りがむずむずすると言うようになって、それから眠い眠いと繰り返し、本人も無意識のうちに寝てしまうこもありました。過眠症ナルコレプシーではないかと病院を受診して、…羽化ではないか、と言われました」

同じ症状にある季生くんに同情してくれたのか、春香さんの母親は応接間に通してくれてお茶も淹れてくれた。仏壇には輝くばかりの笑顔で春香さんが写っている。

「…羽化」

今朝、佑京くんもそんな話をしていた。羽化すれば、飛べるようになるんじゃないか、と。

「背中の羽の状態が、昆虫が羽化するときの状態に似ているんだそうです。それで結局、様子を見ようということで、そのままだったんですけど、ある時、丸2日眠り込んで、心配していたところを夜中、春香に起こされました。『飛べる』と言って」

春香さんのお母さんが、遠くを見るように目線を上げた。

「しっかりした羽をもって夜の空を高く遠くまで、自在に飛び回っていました。すごくきれいで、この子は本当に天使だったんだと思いました。でも、家に戻ってきて間もなく、突然羽が身体から抜け落ちて、春香が倒れ、そのまま動かなくなったんです」

その時のことを思い出すとつらさも甦るのか、お母さんの声が震えた。

「その後、全世界にいる羽をもつ子どもたちのために春香の身体を研究したいと言われて、羽は大学病院に預けましたが、…春香自身は埋葬しました」

「つらいことを思い出させてしまってすみません。最後に一つだけ。その大学病院というのは、令和大学病院、ですか」

「そうです。羽に詳しい専門家がいるそうで」

「分かりました。お話、ありがとうございました」

深々と頭を下げる佑京くんに倣って、私も頭を下げた。
心臓がこれ以上ないほど嫌な感じに鳴り響いている。

「いいえ、…あの」

春香さんのお母さんが佑京くんを悲しそうな目で見る。

「…どうかお大事に」
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