露包むランタン

奈月遥

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 灯理とうりは街灯に照らされた夜闇を早足で抜けていく。太陽はとっくに沈んでいるのに服の中がぐっしょりと濡れる程に暑いのは眩しい街灯が光だけでなく熱も太陽のように吐き出しているんじゃないかと、しょうもない愚痴が胸に渦巻く。
 蒸し暑さに息締いきしめられて、いつもよりも自分の歩みが遅く感じられて。
 一秒でも早く家に帰って、らんがどうしているのかを確認しないといけないと気が急いてばかりいた。
 灯理はマンションに辿り着くと、荷物を負っているのも構わずに階段を二段飛ばしで駆け上がり、自宅のドアが目に入った瞬間に体当たりして飛び込んだ。
「ただいまっ」
 息が切れたのを吐き出すのに合わせて勢い付けて、灯理は部屋の中へと呼び掛け、そしてそのまま肩で息をして、喘ぎながら必死に体温を吐き出す。
「おかえり、にぃにー!」
朱理しゅり? お前、まだ帰ってなかったのか? 明日学校どうすんだよ。もう九時半だぞ」
 真っ先にリビングから飛び出してきた妹に面食らいながらも、灯理の視線は廊下の奥をまさぐっていた。
「にぃに、もう夏休みなんですけど」
「早くね?」
「早くないよ。今日、二十六日なんですけど。にぃに、たった二年で高校時代のこと忘れたの?」
 朱理が灯理に呆れているのは、灯理の時間感覚がすっかり抜け落ちていることに対してか、それとも灯理が何かを気にしていて気もそぞろなのが丸分かりなことに対してだろうか。
 朱理は一向に自分に目を合わせない灯理に、仕方ないとばかりに溜め息を吐いた。
「はいはい、嵐ちゃんならお風呂に入ってるよ。にぃにを待つって駄々こねてるのを、やっと放り込んだんだから。タイミングわるくてざんねんでしたー」
「ああ、そうなのか……らんちゃん?」
 灯理はいつも朱理が、あの女、とか、あいつ、とか、ぞんざいな扱いで呼んでる嵐の名前を呼んでいるのを聞いて、声を裏返らせた。
 驚きがやっと灯理の視線を妹に向けさせる。
「ふふん。とりあえずぼーっと突っ立ってないで、上がったら? りくろーおじさん買ってきてくれたよね?」
「ああ、ほれ」
 灯理は朱理に促されて手にした紙袋を一つ手渡した。
 朱理は中身を確認して、にこにこと笑みを浮かべて跳ねながらリビングに戻っていく。
「やったー。もう、これその日のうちに食べないといけないんだから、待ってるに決まってるじゃん。もう、にぃにって変なとこ抜けてるよねー」
 朱理の跳ねる髪を見失ってからやっと、灯理は玄関先に残りの荷物を降ろした。ずっと左肩にばかり荷物を掛けていたせいで、外した途端に苛潜いらひそんでいた鈍い痛みが浮き上がってくる。
 汗で服が張り付いて気持ち悪いが、風呂は嵐が使っているから入れないのかと少し気落ちしながら視線を風呂場に投げれば。
 がちゃりと、その扉が開いた。
「めっ」
「あっ」
 続けて、髪をタオルで巻いた嵐が未水まだみずで濡らした手足の肌をシャツとハーフパンツの先に晒して現れた。
 二人揃って間の抜けた未声みこえを上げて、一呼吸、時間が無意味に過ぎる。
「お、かえりなさい、灯理さん」
「ああ、嵐、ただいま」
 何故だかぎこちなく挨拶を交わして。
 嵐はもじもじとタオルを解いて髪を拭い。
 灯理はまた熱くなった肺の空気を口から逃がす。
 二人の間に続く言葉は無く。
「ねぇ、にぃに、チーズケーキ食べるから飲み物淹れてよー! あ、嵐ちゃん! 出たの? ほら、チーズケーキあるから早く食べるよ。髪、乾かさなきゃ」
 再び突風のようにリビングから吹き出した朱理が嵐の手を引いて攫っていくのを、灯理は成す術もなく見送った。
 続けてリビングからひょっこりとゆいが顔を出す。
「灯理さん、おかえりなさい。さっきから、なんでずっとこっちに来ないんです?」
「あ、ああ。なぁ、あの二人、なんで急にあんな仲良くなってるんだ?」
 戸惑う灯理の耳にはドライヤーの音が聞こえてきた。
 唯はリビングの中にいる二人を振り返り、困ったような和やかなような曖昧な笑いを浮かべる。
「なんか、お泊まりでずっと朱理ちゃんが嵐ちゃんの世話をしてましたよ?」
「あいつ、年下に世話されたのか……いや、朱理が人の世話? あ、でも、あれか友達からは面倒見がいいとか言われたっぽいしな、ほんとだったのか」
「灯理さん、灯理さん。身内故に普段見ないところを見て戸惑ってるようですけど、早く来てコーヒーとか淹れてもらわないと、また朱理ちゃんに怒鳴られますよ?」
 灯理は唯にやることを提示されてやっと、曖昧に頷いてキッチンに足を向けた。
 リビングを通り抜ける時に、嵐の髪を手に取って一房ずつ丁寧にドライヤーを当てる朱理を見て一瞬足を止めるけども、唯に背中を押されてどうにかキッチンに立った。
 手を洗い、ヤカンを火に掛ける。
 そこまでやって、やっとまだ注文を聞いてないと気づいて、灯理はリビングに振り返った。
「えっと、何が飲みたいんだ、お前ら?」
「カフェモカ! 生クリーム乗せて!」
「え、なにそれ、美味しそう!」
「え、嵐ちゃん、まだ飲んだことないの!? あれ、ものすっごい美味しいんだよ! にぃに、なんで飲ませてあげないの!」
「灯理さん、あたしもそれ飲みたい!」
 灯理は一番手間の掛かるのが二人に増えたのを目の当たりにして、気が遠くなった。
 遠征から急いで帰って疲れてるのに、普段に上乗せして甘えてくる妹二人の姦しさをぶつけられて、灯理は軽く絶望を抱く。
「あの、私はこの時間ですから、普通に紅茶で……ケーキも少しでいいですから」
 一番縁遠い唯だけが灯理を気遣ってくれて、思わず泣きそうになった。
「嵐ちゃん、にぃにったら、二つも買って来たから、これで半分以上食べれるよ、やったね!」
「うそ、いいの! 唯ちゃんも遠慮しなくていいんだよ?」
 分け前が増えると聞いて表情がゆるっゆるになっている嵐がいくら唯に気を回しても、説得力は一つもない。
 それと、買ってきたのは俺だと、灯理は胸の内だけでぼやいた。
 重たい気持ちが圧し掛かって動けないでいる灯理の横に、ちょこちょこと朱理がやって来る。
 朱理は灯理の腕を掴んで背伸びして、耳に秘音言ひとことそよがせた。
「いつもは夜行で朝帰りなのに、わざわざ新幹線で帰ってくるくらいに嵐ちゃんに早く会いたかったんだもんね? なんでもしてあげたいんでしょ?」
 妹に思いっきり図星を付かれて、灯理はがくりと首が崩れ落ちた。
 顔を持ち上げる時に、わくわくと目を輝かせる嵐が愛鏡まなかがみに映る。
 そして唐突に想う。
 嵐がいつも通りに笑っている、と。
 少しも気負いとか、卑下とか、罪の自責とかで陰を差すこともなく。
 あの真っ直ぐに恋を追い駆けていた時と同じ、笑顔を輝かせていた。
 この二日で何があったのか、灯理はまだ聞いていないけれど。
 何があったんだとしても。そこに自分が全く関わっていなかったとしても。
 ただひたすらに、嵐が元気を取り戻して、悲しみから抜け出したんだと、その事実が見られただけで。
 灯理は何よりも嬉しくて。
 心臓に火が入ったみたいに血が全身を駆け巡った。
「めっぇ?」
 戸惑う嵐の未声みこえが、灯理の耳のすぐ側で零れた。
 強く、強く、灯理は嵐の体を抱き締めて、その胸に顔を埋めていた。
「よかった、あり、がとう、嵐、ありがとう」
 灯理の声は、涙で震えていた。
「元気になってくれて、ありがとうっ」
 嵐は一瞬、呆けた顔をして、お風呂上りの胸が灯理に熱い雫で濡らされるのを感じていて。
 そしてふわりと微笑み、両腕で灯理の頭を包み込んだ。
「はい、心配おかけしました」
 灯理と嵐は、二人きりで、二人だけが分かる心を交わしていて。
「ねぇ、にぃにー。いちゃつくのはいいんだけど、妹の朱理が見ているんですけどー?」
「それと嵐ちゃんも、他人の私も見ているのも、忘れないでねー?」
 傍観者にさせられた二人、幼い頃からたくさん面倒を見てきた朱理と、嵐の子守り頼み込んでお願いした唯から少し棘のある声で非難された。
 灯理は背中に冷や汗を掻きながら、いつ嵐から離れたらこの後の説教が減るだろうかと恐れ慄いていた。
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