露包むランタン

奈月遥

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Neglected problem

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 灯理とうりがバイクを停車させると、らんは右側の家に露繁つゆしげの表札を見て、それから二階建ての様相を見上げて感嘆する。
「ほれ、早く降りろ。嵐が降りないとバイク仕舞えないんだから」
「あっ、はい、ごめんなさい」
 嵐はひょいと灯理のバイクを跨いで、夕忍ゆうしのぶ穏やかな夕蜜ゆうみつ光景ひかりかぐアスファルトに足を付けた。
「ありふれた家だろ、なにがそんな物珍しいんだか」
 バイクを門の中へと押して行く灯理はそう言うが、嵐にとっては彼が生まれ育った家というだけですごく関心を惹かれる。
 それに、どちらも意識してないが、下町とは言え二十三区の中で二階建ての一軒家を持っている家庭はそれなりに裕福な証拠だ。
 バイクを置いてきた灯理は道の真ん中で家を見上げてばかりいる嵐の手を取って、玄関まで引っ張っていく。
 灯理は玄関のベルも鳴らさずにドアを開けた。
「ただいま」
「め、あ。おじゃまします」
 堂々と帰宅を屋内へと伝える灯理とは対称的に、嵐はいさよわしく声を潜ませて体を縮こませている。
 そんな二人を、きゃんきゃんと騒がしい声が出迎えた。
「お、キャラメル、ただいま」
 灯理は廊下を駆けて来た毛玉を腕を広げて迎え入れて抱き上げる。
 嵐が目を丸くしている横で、その名前通りに甘そうな色合いのポメラニアンは嬉しそうに灯理の頬をぺろぺろ舐める。
「キャラメル……?」
「ああ、ポメラニアン。犬は平気、か?」
 ぼんやりと呟いた嵐に可愛いペットをちゃんと見せようと体を捩った灯理は、嵐の表情を見てキャラメルと一緒に凍り付く。
 嵐は今にも涎を垂らしそうな、それこそ灯理が作ったおやつを目の前にした時と同じく、だらしなく表情筋を緩ませてそれでいて視線だけは爛々と砥ぎ澄ませていた。
 灯理の中で硬直が解けたキャラメルが、大声で喚き、手足も体幹も暴れさせて、必死の形相で逃がしてくれと騒ぎ出す。
 灯理の腕が恐怖で緩むのと同時にキャラメルが床を転がって嵐に吠えたてる。逃げないのは、腰が抜けてもう歩けないからだった。
「にぃに、嵐ちゃん? なんでこんなにキャラメル騒いで……」
 キャラメルが飛んで来たのと同じ奥から現れた朱理しゅりが、嵐の顔を見るなりキャラメルの前で仁王立ちした。
「うちのキャラメル、食べないでくれる?」
 今はもう懐かしいとまで思える、朱理の低い声が嵐を牽制した。
 その声でやっと、嵐はハッと正気を取り戻し、手の甲で涎を拭う。
「た、食べないよ! 甘そうで、美味しそうだけど、二人の大切なペットだもん、食べないよ!」
 うちのペットじゃなかったら食うのか、という疑問を、灯理は恐ろしくて口に出せなかった。
 朱理も信用出来ないと瞼を伏せて、キャラメルを優しく足で、少しでも嵐から離そうと後ろに押しやる。
「た、食べないよ! 我慢するから!」
「嵐、お前、もう口を開くな」
 必死に訴える度に食い気が本気だとボロを出す嵐を、灯理は冷たい声で窘めた。
 朱理がキャラメルを抱き上げて、嵐から目を離さずに、ずりずりと摺り足で後ろに下がっていく。
「にぃに、朱理はキャラメルをケージに入れてくるから、その間にその女、リビングに連れて行ってくれる?」
「ああ、わかった」
 折角上がったはずの朱理の好感度を来て早々失った嵐だった。
 灯理は朱理とキャラメルの姿が廊下から消えて、三呼吸程置いてから、嵐に靴を脱ぐように促す。
「玄関上がる前から問題起こすなよ、このばか娘」
「めぅ……ごめんなさい」
 しょんぼりと自分のと灯理の靴を揃えるのに嵐はしゃがんだ。それから灯理の背中に付いて奥へと進む。
 リビングでは灯理の母親が立って出迎えてくれて、父親らしい男性は椅子に座ってむすっと口を結んでいた。
「いらっしゃい、嵐ちゃん。灯理もお帰り。なんだかキャラメルがすごい騒いでたけど、平気だったの?」
 灯理の母親からしたらキャラメルの方が嵐に粗相をしたのではないかと気掛かりなようだ。
 実際は嵐が捕食者の気配を隠そうとせずにキャラメルをビビらせたのだが、嵐も灯理もそんな嘘のような本当のことは言えずに、乾いた笑いだけで誤魔化そうとする。
「キャラメルちびってたから、掃除してくるね」
 そんな気まずい空気の間を朱理が掃除シートを片手に颯爽と通り抜けていった。
「あら、キャラメルが漏らすなんてもう何年もなかったのですけど……ごめんなさいね。普段は躾のできたいい子なのよ?」
 灯理の母が困ったように頬に手を当てているが、嵐の方が罪悪感で顔を背けてしまう。
 しかも灯理から叱りつけるような重たい視線をジッと刺されているから、尚更居たたまれなかった。
「君が篠築しのづきさんか」
 話が行き場をなくしてしまったのを見計らったのか、灯理の父親がこちらへ顔も向けずに口を開いた。
「あ、はい。はじめまして」
 嵐はいそいそと灯理の父親の背中に向かってお辞儀をするが、相手は少しも興味無さそうに鼻を鳴らした。
「そいつはまともに働きもしないボンクラだぞ。将来性なんてものはちっともない訳だが、もう一度ちゃんと考えたらどうだ?」
「……はい?」
 前振りもなく灯理を貶されて、嵐は頭が付いていかなかった。
 灯理の母親を見れば彼女は申し訳なさそうに目を伏せるばかりで、灯理を見れば父親を射殺さんばかりに睨み付けている。
「まぁ、大学時代の遊び相手にはちょうどいいのかもしれんな。灯理もせいぜい金だけは騙し取られないようにしろよ。借金なんぞしても、助けんからな」
「――んのなぁ!」
 父親の物言いに灯理が声を荒げて拳を振り上げたから、嵐は慌ててその腰に抱き着いて暴力を止める。
「ちょ、ちょっとあかりさん、落ち着いて!」
「ざっけんな、てめぇ! 言いたいことあんなら、せめてこっち向けよ、こら!」
「あかりさんーーー!」
 それはもう、親の仇でも前にしたみたいに荒む灯理を、嵐は懸命に押し留めた。
 現実問題、その相手こそが親な訳だが、それが尚更嵐を混乱させる。
 灯理は本気で父親に文句を言いたくても実際には拳を振り下ろすのを寸止めしてしまうし、まして今は嵐を振り払って怪我をさせる訳にもいかなくて、苛つきを舌打ちで父親に投げてからキッチンに向かう。
「母さん、晩飯手伝うよ。今日は何?」
「……灯理、嵐ちゃんの前で、ああいうのは止めなさい」
 灯理と母親が二人連れ立ってキッチンに向かうのを嵐はやるせない気持ちで見送る。
 灯理はあんなに素敵なランタンを作っていてれいの所でもちゃんと働いて生活も出来ているのに、あんなふうに父親に言われるのも意味が分からないし、それで母親が灯理ばかりを叱るのも納得がいかない。
 取り残された嵐は、ここは自分が灯理の良さを伝えるべきかと思い、灯理の父親の方へと足を踏み出そうとして。
 その直前に、いつの間にか戻っていた朱理が嵐の腕に絡み付いた。
「嵐ちゃん、晩ご飯まで朱理の部屋に行こうか」
「めぁ、あ、でも、お父さんに」
 嵐の言葉は、ずりずりと朱理に体を引き摺られていって置き去りにされた。
 リビングを出て階段を半分行ったところで、やっと朱理は口を開く。
「ごめん、あのくそ親父はだめだから。嵐ちゃんもあんまり話しなくていいよ。聞き流して」
 朱理の声がいつになく乾いていて、嵐は胸が苦しくなる。
 今日こうして灯理の家に来たけれど、灯理にお願いした当初、それはもう嫌そうで苦そうな顔をされた。
 それはあの父親を見られたくなかったんだと、やっと嵐も理解が及んだ。
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