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5.容器の中身
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「ふーん、藁人間か……。つまり生気のない、お人形さんみたいな意味を含んでるわけですか。なんだか意味深ですね」と、靖川まなみは頬杖をついたまま言った。わしの魂が過去の愁嘆場から舞いもどると、レクリエーションのざわめきも大きくなった。町田氏や梅澤さんたちのかけ声と、女性介護職員たちの嬌声と手拍子がおり重なった。「それでそれで……オチはそれで終わり?」
「オチ」と、茫然たる面持ちでわしはおうむ返しに言った。「わしはなにも、おもしろい話のつもりで、あんたにしゃべったわけじゃないんだが。これといって、思わずのけ反るようなドンデン返しの結末もない。期待させて悪いがね。経験したことを、ありのまま伝えたまでさ」
「結局、奥さんの身体に藁がつまったまま、ご葬儀されたんですか? お医者さんに問いかけたりはしなかった?」
「そう。結局、霊安室で胸の扉を閉めた。ピシャッと、もとに戻ったよ。誰かにあえて聞き出すつもりもなかった。仮に心臓が見えてたところで、心臓マッサージをやったとしても甦る道理はない。どちらにしろ、死後五時間は経ってたからね。結局、妻の扉をピッキングしたのは無駄骨だったわけさ。なんにもかわらない」
「田力さんのお話のなかで気になった点は」と、靖川はうつむいた状態で思いついたように言った。大きな眼が見開かれ、すぐわしに向けられた。「血液の描写がいっさいなかったことです。奥さんの痛ましい事故を思い起こさせて申し訳ないんですけど、事故の際はかなり出血されてたはずです。すでにご遺体が清拭されてたとしても。それに身体の内側に藁がつまってるだけで、藁にさえ血が付着してなかったんでしょ? まるで体内を洗浄したかのように。なんだかそれが腑に落ちない」
「そういや、そうだな」まさに目からウロコの思いにかられた。「藁にはいっさい血がついてなかった。乾いた状態だった。そう、体内の臓器をくり抜き、いったん洗浄したような感じだった。身体の表面にはむごたらしい外傷はあったとしても、内側はきれいなもんだった」
「なんていうか……すごくわかるような気がする、わたし」と、靖川は眼をそむけ、心ここにあらずの表情で言った。「わたしにも身に憶えがある……」
「この話を誰かにしたのは、あんたが初めてなんだが、まさかこれほどついてこられるとは思わなんだ」と、わしは言った。全身から血の気が音をたてて失せるようだ。「そりゃそうと、身に憶えがあるとな、あんたが?」
そのとき、わしの背後に誰かが歩みよる気配がわいた。
つかつかとサンダルの音が聞こえ、盛大なため息がもれた。
「なに深刻な話をしてるんですか、お二人さん」書類一式を抱えた穂積 さと子だった。精進苑ではいちばん古株のケアマネージャーで、職員のみならず、要支援・要介護認定者をふくめ、その家族からも信頼が篤い。が、いささか実直すぎるのが玉に瑕だった。快活な笑みを浮かべ、靖川の背中をどやした。「田力さんったら、どうせお得意の話術で、この子をまるめこんじゃったんでしょ。ダメですよ、靖川さんはちょっと天然なところがあるんですから。感化されちゃったらどうするの」
靖川は穂積を見あげ、
「たったいま、田力さんから、すごい話を聞かされたんです。それが衝撃的で」
「まんまと担がれたのよ、あなたは。田力さんは別のレクで弁論大会をさせたら、名人級の語りを披露して、みごと優勝したこともあるんですから。ぜんぶこの人の作り話にのせられたんです。若い娘を手玉にとってやれってね」
すかさず、わしは手をあげた。
「おいおい待ってくれ。そりゃあない。わしは真実を言ったまでだ。担ぐだなんて、いくらなんでも人聞きの悪い」
「人聞きの悪いことは謝ります。ですが、奥さんの身体に藁がつめられてたなんて、ねえ。冗談をいうにしては不謹慎すぎます」と、穂積は腕組みし、片方の眉を吊りあげてわしをにらんだ。「悪いけど、田力さんは生涯独り身だったはずでしょ。ここへ入居するにあたって、ちゃんとわたしが面談しています。データは頭に入ってて、水も洩らしませんよ。まったくウソばっかり」
「聞いてたんですか、いまの話」と、靖川。
「耳をそばだてるまでもありません。田力さんったら夢中になって熱弁してるんだもの。聞くなという方が無茶な話です」
「わしが生涯独身だっただと?」と、わしは眼をむいて食いさがった。「そんなはずはない。なにかのまちがいだ。妻を事故で亡くしたと言ったろう。混乱させるようなことは言わんでくれ」
「ま」穂積は口を開けたまま、あきれた様子で首をふった。「お好きなように。ただ、くれぐれも若い娘をたぶらかさないようにしてくださいね。この子は感じやすいみたいですから。まわりにも、タチの悪い冗談を広めるのだけはよしてください」
そう言って、事務所の方へ去っていった。
靖川は憮然たる体でわしを真っ向から見据えた。
それを複雑な面持ちで受けとめた。彼女から発される青白い非難を甘んじなけねばなるまい。
だますつもりは毛頭なかったが、結果的に彼女を惑わせてしまったようだ。
穂積 さと子は現実社会における理性そのものだ。あのケアマネが言うことが絶対のマニュアルであり、無条件に正しいのだろう。
――どうやら禍々しい認知症の魔手は、浴室で黒カビが繁殖するようにジワジワとわしの大脳皮質をむしばんでいたのかもしれない。わしはすでに、元気なころのわしではなくなっていたんだ……。
愕然たる思いにかられているところへ、靖川は明るい笑顔でこう言った。
「わたしは信じてます。田力さんが語ってくれた内容を。あなたはうそをつく人じゃない」やれ、よかった。靖川は力強くうなずいてみせた。わしの手を取り、「藁人間について、わたしにも思い当たるふしがあります。よかったら、わたしの話も聞いてくれませんか」と言った。すべらかな感触が、たしかに彼女もわしも、地に足がついている実感を呼び起こさせた。
「どういうことだね、思い当たるふしとは」
「レクが始まるまえ、事務所で雑用をしてたんです。カッターナイフを使ってA4サイズのコピー用紙を四分割にする作業をしてたんですが」と言って、左手を広げてみせた。中指に無残な切り傷がぱっくり開いていた。本来ならば絆創膏だけでは心もとないほどの傷だ。それが包帯もまかず裸のまんまとは……。「手もとをあやまり、指を切ってしまったんです。ごつい業務用カッターで、替え刃を新品にしたばかりだったの。切れ味はバツグンでした。ざっくりやってしまったはずなのに、ほら、このとおり、血が流れない」
「いったい、どういうこった……」
「一滴も血が流れなかったんです。いまもこんなに傷口が開いてるにもかかわらず、わたしは血が通ってないのかしら」
むしろ、あっけらかんと言いきった。
「解せんね。うまいぐあいに厚い皮だけ切ってしまった場合、出血しないこともあるが、それだけ切ってりゃ出ないのはおかしい」
「思えば、わたしは」しかつめらしい顔の靖川は言った。「小学二年生のころ、父親が失踪したんです。理由はわかりません。もともと放浪癖があった人らしいし。母は捜索願を出しました。ですが、いまもって父の行方がつかめない。なにせ、わたしも小さすぎたものだから、よく顔さえ憶えていないんです」
「それとこれとが、どういうつながりがあるんだね」
「父にどんな考えがあったのか、推し量ることもできませんが、結局、わたしたち母子を捨てたも同然でしょ。でも恨んじゃいません。やっぱり父は父ですもの。頭のなかで思い描くと、父の顔だけが真っ黒なベールで覆われたまま、灰色のスーツ姿で浮かぶんです。できることなら記憶を取りもどしたい。父の顔を思い出すことで、傷つくかもしれませんが、それでも知りたいと思うのは罪なことでしょうか」
なるほど、彼女がときおり見せる侘しげな翳りの正体を見つけたぞ。
仕事疲れが重なり、窓辺に立ってカップを両手で包みこみ、コーヒーを飲みながら遠い眼で山なみを見つめているときは、えてして父の面影を探し求めていた瞬間だったのかもしれない。
「ちっとも罪じゃないさ。あんたは悪くない」
「わたしはほんとうに父から生を受け継いだのでしょうか? だって血が流れないんですよ。なにもかも実感がともなっちゃいない」
「実感がともなわない感覚か。たしかにいまのわしにも当てはまるな」
「田力さん」靖川はすがるような眼差しをよこした。「この際、ハッキリ言います。あなたはウソはついていない。かつて鍵師であったことも事実のはずです。裏付ける証拠もあります。あなたはそのピッキング能力を使って、たびたび精進苑の裏口の錠を開け、屋外へ出ていってましたね。ここだけの話ですが、あなたはちょっとした問題児ならぬ問題入居者として、職員のあいだでは知られていたんです。いくら錠をかえてもかえても、そのたびにあなたは開けて、こっそり抜け出していってた……。ご自覚はないのかもしれないけれど。いまさらそれを責めるわけじゃありません。奥さんの身体をピッキングで開けたことは、たしかに信じがたいかもしれない。まるでファンタジーです。……ですが、もしかしたらわたしだって」と、言って、彼女はくるりとうしろを向き、髪をかきあげ、うなじを見せた。かわいい後れ毛の生えたウブなうなじだった。「もしかしたらわたしの身体だって開くのかもしれない。わたしの頭を開いてみせてください。まさか、わたしの頭のなかにも藁がつまっていたら……」
わしの手ごときで、なにするものぞ。
なのに靖川ときたらどうだ。
うなじの中央には、しっかり前方後円墳の形をした穴が開いているではないか。
……まぎれもない、鍵穴だ。
わしの背筋に、冬の冷気とは異なる寒さが忍び寄るのがわかった。
「あんたの頼みとあればやぶさかではない。だったら手を貸すか」と、声をしぼり出した。そしていつもポケットに常備している二本のヘアピンを出した。手のふるえがとまらない。「わしがときおり脱走する常習犯だって? とんとそんな記憶はないんだが。外へ出かけ、いったいどこへ行ってたっていうんだ? それすら憶えていない。いったい、どうなってるんだ……」
「そんなことはどうだっていいじゃないですか。手もとに集中してください。わたしの頭を開け、脳を調べてほしいんです。父の面影を思い出したいんです」
「開けたところで、記憶回路がどうなっているかなんて、わしには専門外だぞ」
「とにかく、まずは鍵穴に挑戦してみてください」
「わけないさ。わしにかかれば。なんてったって、もと鍵師。現役を退いても、腕は錆びちゃいない」
あれよと言う間に靖川のうなじの鍵穴を開けてみせた。
とたんに彼女の頭皮が前方に向けてめくりあがった。頭髪ごとズルリと開閉したのだ。額のあたりに蝶番でもついているようだった。
なんてことだ。
靖川 まなみの頭のなかは容器状になっており、これまた藁、やはりたくさんの藁がつまっていた。
ぷん、と太陽にさらされて乾いた堆肥の匂いがたちこめた。
なぜ藁なのか。
――そうだ。あのとき、あの山の手の屋敷での体験。ウツボカヅラのような魔力的な魅力をもった後家が導いた開かずの間。
あの明治三十五年一月三十日以来、時がとまったままだったあの部屋には、もっと隠された秘密があったはずではないか。
なぜわしはいまのいままで偽っていたのだろうか。あの部屋には、もっと禍々しいものが眠っていたのに。
「そうか、思い出した!」と、わしは苦々しげに言った。
あの開かずの間には、テストの答案用紙や水着姿の女の写真なんて、そんな陳腐なものだけが残されていたんじゃない。
藁人形だ。
呪いの藁人形が、数えきれないほどの藁人形が、壁一面に打ちこまれていたんだ。
どれもが人形の中央に五寸釘が打ちこまれていた。
後家が言うには、先祖にあたる男に、妾とのあいだに生まれた子供がいたと言っていた。
だが生まれつき重い病気で、寝たきりの生活を強いられていた。その子供が誰を恨んだか、こうして呪詛をばらまいていたんだ……。
あの光景が強烈すぎて、わしは記憶を偽っていたのか?
わしはテーブルを叩いて烈しくうめいた。
「しかし、どこまでが真実なんだ。妻の死はどうなんだ。わしは、わしさえもが!」
「……ちょっと、田力さん、なんてことを!」
かたわらで穂積が絶叫していた。
わしは、気が触れたような彼女の顔を見た。
バサリと、手にしていた書類が床に落ちた。
そのあとすぐ、靖川まなみの後頭部に眼を戻した。
蝶番がはずれ、容器状になった頭部には眼にもまぶしいピンク色をして、テラテラと光沢を放つ脳みそがおさまっていた。
わしは安堵の吐息をついて、
「なんだい、さっきのは幻か。あんたはまともだ。どこもおかしくないさね」と、笑いかけ、彼女の細い肩に手をかけた。
次の瞬間、靖川の身体は力なく横に倒れ、デロリと容器の中身をこぼした。
了
「オチ」と、茫然たる面持ちでわしはおうむ返しに言った。「わしはなにも、おもしろい話のつもりで、あんたにしゃべったわけじゃないんだが。これといって、思わずのけ反るようなドンデン返しの結末もない。期待させて悪いがね。経験したことを、ありのまま伝えたまでさ」
「結局、奥さんの身体に藁がつまったまま、ご葬儀されたんですか? お医者さんに問いかけたりはしなかった?」
「そう。結局、霊安室で胸の扉を閉めた。ピシャッと、もとに戻ったよ。誰かにあえて聞き出すつもりもなかった。仮に心臓が見えてたところで、心臓マッサージをやったとしても甦る道理はない。どちらにしろ、死後五時間は経ってたからね。結局、妻の扉をピッキングしたのは無駄骨だったわけさ。なんにもかわらない」
「田力さんのお話のなかで気になった点は」と、靖川はうつむいた状態で思いついたように言った。大きな眼が見開かれ、すぐわしに向けられた。「血液の描写がいっさいなかったことです。奥さんの痛ましい事故を思い起こさせて申し訳ないんですけど、事故の際はかなり出血されてたはずです。すでにご遺体が清拭されてたとしても。それに身体の内側に藁がつまってるだけで、藁にさえ血が付着してなかったんでしょ? まるで体内を洗浄したかのように。なんだかそれが腑に落ちない」
「そういや、そうだな」まさに目からウロコの思いにかられた。「藁にはいっさい血がついてなかった。乾いた状態だった。そう、体内の臓器をくり抜き、いったん洗浄したような感じだった。身体の表面にはむごたらしい外傷はあったとしても、内側はきれいなもんだった」
「なんていうか……すごくわかるような気がする、わたし」と、靖川は眼をそむけ、心ここにあらずの表情で言った。「わたしにも身に憶えがある……」
「この話を誰かにしたのは、あんたが初めてなんだが、まさかこれほどついてこられるとは思わなんだ」と、わしは言った。全身から血の気が音をたてて失せるようだ。「そりゃそうと、身に憶えがあるとな、あんたが?」
そのとき、わしの背後に誰かが歩みよる気配がわいた。
つかつかとサンダルの音が聞こえ、盛大なため息がもれた。
「なに深刻な話をしてるんですか、お二人さん」書類一式を抱えた穂積 さと子だった。精進苑ではいちばん古株のケアマネージャーで、職員のみならず、要支援・要介護認定者をふくめ、その家族からも信頼が篤い。が、いささか実直すぎるのが玉に瑕だった。快活な笑みを浮かべ、靖川の背中をどやした。「田力さんったら、どうせお得意の話術で、この子をまるめこんじゃったんでしょ。ダメですよ、靖川さんはちょっと天然なところがあるんですから。感化されちゃったらどうするの」
靖川は穂積を見あげ、
「たったいま、田力さんから、すごい話を聞かされたんです。それが衝撃的で」
「まんまと担がれたのよ、あなたは。田力さんは別のレクで弁論大会をさせたら、名人級の語りを披露して、みごと優勝したこともあるんですから。ぜんぶこの人の作り話にのせられたんです。若い娘を手玉にとってやれってね」
すかさず、わしは手をあげた。
「おいおい待ってくれ。そりゃあない。わしは真実を言ったまでだ。担ぐだなんて、いくらなんでも人聞きの悪い」
「人聞きの悪いことは謝ります。ですが、奥さんの身体に藁がつめられてたなんて、ねえ。冗談をいうにしては不謹慎すぎます」と、穂積は腕組みし、片方の眉を吊りあげてわしをにらんだ。「悪いけど、田力さんは生涯独り身だったはずでしょ。ここへ入居するにあたって、ちゃんとわたしが面談しています。データは頭に入ってて、水も洩らしませんよ。まったくウソばっかり」
「聞いてたんですか、いまの話」と、靖川。
「耳をそばだてるまでもありません。田力さんったら夢中になって熱弁してるんだもの。聞くなという方が無茶な話です」
「わしが生涯独身だっただと?」と、わしは眼をむいて食いさがった。「そんなはずはない。なにかのまちがいだ。妻を事故で亡くしたと言ったろう。混乱させるようなことは言わんでくれ」
「ま」穂積は口を開けたまま、あきれた様子で首をふった。「お好きなように。ただ、くれぐれも若い娘をたぶらかさないようにしてくださいね。この子は感じやすいみたいですから。まわりにも、タチの悪い冗談を広めるのだけはよしてください」
そう言って、事務所の方へ去っていった。
靖川は憮然たる体でわしを真っ向から見据えた。
それを複雑な面持ちで受けとめた。彼女から発される青白い非難を甘んじなけねばなるまい。
だますつもりは毛頭なかったが、結果的に彼女を惑わせてしまったようだ。
穂積 さと子は現実社会における理性そのものだ。あのケアマネが言うことが絶対のマニュアルであり、無条件に正しいのだろう。
――どうやら禍々しい認知症の魔手は、浴室で黒カビが繁殖するようにジワジワとわしの大脳皮質をむしばんでいたのかもしれない。わしはすでに、元気なころのわしではなくなっていたんだ……。
愕然たる思いにかられているところへ、靖川は明るい笑顔でこう言った。
「わたしは信じてます。田力さんが語ってくれた内容を。あなたはうそをつく人じゃない」やれ、よかった。靖川は力強くうなずいてみせた。わしの手を取り、「藁人間について、わたしにも思い当たるふしがあります。よかったら、わたしの話も聞いてくれませんか」と言った。すべらかな感触が、たしかに彼女もわしも、地に足がついている実感を呼び起こさせた。
「どういうことだね、思い当たるふしとは」
「レクが始まるまえ、事務所で雑用をしてたんです。カッターナイフを使ってA4サイズのコピー用紙を四分割にする作業をしてたんですが」と言って、左手を広げてみせた。中指に無残な切り傷がぱっくり開いていた。本来ならば絆創膏だけでは心もとないほどの傷だ。それが包帯もまかず裸のまんまとは……。「手もとをあやまり、指を切ってしまったんです。ごつい業務用カッターで、替え刃を新品にしたばかりだったの。切れ味はバツグンでした。ざっくりやってしまったはずなのに、ほら、このとおり、血が流れない」
「いったい、どういうこった……」
「一滴も血が流れなかったんです。いまもこんなに傷口が開いてるにもかかわらず、わたしは血が通ってないのかしら」
むしろ、あっけらかんと言いきった。
「解せんね。うまいぐあいに厚い皮だけ切ってしまった場合、出血しないこともあるが、それだけ切ってりゃ出ないのはおかしい」
「思えば、わたしは」しかつめらしい顔の靖川は言った。「小学二年生のころ、父親が失踪したんです。理由はわかりません。もともと放浪癖があった人らしいし。母は捜索願を出しました。ですが、いまもって父の行方がつかめない。なにせ、わたしも小さすぎたものだから、よく顔さえ憶えていないんです」
「それとこれとが、どういうつながりがあるんだね」
「父にどんな考えがあったのか、推し量ることもできませんが、結局、わたしたち母子を捨てたも同然でしょ。でも恨んじゃいません。やっぱり父は父ですもの。頭のなかで思い描くと、父の顔だけが真っ黒なベールで覆われたまま、灰色のスーツ姿で浮かぶんです。できることなら記憶を取りもどしたい。父の顔を思い出すことで、傷つくかもしれませんが、それでも知りたいと思うのは罪なことでしょうか」
なるほど、彼女がときおり見せる侘しげな翳りの正体を見つけたぞ。
仕事疲れが重なり、窓辺に立ってカップを両手で包みこみ、コーヒーを飲みながら遠い眼で山なみを見つめているときは、えてして父の面影を探し求めていた瞬間だったのかもしれない。
「ちっとも罪じゃないさ。あんたは悪くない」
「わたしはほんとうに父から生を受け継いだのでしょうか? だって血が流れないんですよ。なにもかも実感がともなっちゃいない」
「実感がともなわない感覚か。たしかにいまのわしにも当てはまるな」
「田力さん」靖川はすがるような眼差しをよこした。「この際、ハッキリ言います。あなたはウソはついていない。かつて鍵師であったことも事実のはずです。裏付ける証拠もあります。あなたはそのピッキング能力を使って、たびたび精進苑の裏口の錠を開け、屋外へ出ていってましたね。ここだけの話ですが、あなたはちょっとした問題児ならぬ問題入居者として、職員のあいだでは知られていたんです。いくら錠をかえてもかえても、そのたびにあなたは開けて、こっそり抜け出していってた……。ご自覚はないのかもしれないけれど。いまさらそれを責めるわけじゃありません。奥さんの身体をピッキングで開けたことは、たしかに信じがたいかもしれない。まるでファンタジーです。……ですが、もしかしたらわたしだって」と、言って、彼女はくるりとうしろを向き、髪をかきあげ、うなじを見せた。かわいい後れ毛の生えたウブなうなじだった。「もしかしたらわたしの身体だって開くのかもしれない。わたしの頭を開いてみせてください。まさか、わたしの頭のなかにも藁がつまっていたら……」
わしの手ごときで、なにするものぞ。
なのに靖川ときたらどうだ。
うなじの中央には、しっかり前方後円墳の形をした穴が開いているではないか。
……まぎれもない、鍵穴だ。
わしの背筋に、冬の冷気とは異なる寒さが忍び寄るのがわかった。
「あんたの頼みとあればやぶさかではない。だったら手を貸すか」と、声をしぼり出した。そしていつもポケットに常備している二本のヘアピンを出した。手のふるえがとまらない。「わしがときおり脱走する常習犯だって? とんとそんな記憶はないんだが。外へ出かけ、いったいどこへ行ってたっていうんだ? それすら憶えていない。いったい、どうなってるんだ……」
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「開けたところで、記憶回路がどうなっているかなんて、わしには専門外だぞ」
「とにかく、まずは鍵穴に挑戦してみてください」
「わけないさ。わしにかかれば。なんてったって、もと鍵師。現役を退いても、腕は錆びちゃいない」
あれよと言う間に靖川のうなじの鍵穴を開けてみせた。
とたんに彼女の頭皮が前方に向けてめくりあがった。頭髪ごとズルリと開閉したのだ。額のあたりに蝶番でもついているようだった。
なんてことだ。
靖川 まなみの頭のなかは容器状になっており、これまた藁、やはりたくさんの藁がつまっていた。
ぷん、と太陽にさらされて乾いた堆肥の匂いがたちこめた。
なぜ藁なのか。
――そうだ。あのとき、あの山の手の屋敷での体験。ウツボカヅラのような魔力的な魅力をもった後家が導いた開かずの間。
あの明治三十五年一月三十日以来、時がとまったままだったあの部屋には、もっと隠された秘密があったはずではないか。
なぜわしはいまのいままで偽っていたのだろうか。あの部屋には、もっと禍々しいものが眠っていたのに。
「そうか、思い出した!」と、わしは苦々しげに言った。
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藁人形だ。
呪いの藁人形が、数えきれないほどの藁人形が、壁一面に打ちこまれていたんだ。
どれもが人形の中央に五寸釘が打ちこまれていた。
後家が言うには、先祖にあたる男に、妾とのあいだに生まれた子供がいたと言っていた。
だが生まれつき重い病気で、寝たきりの生活を強いられていた。その子供が誰を恨んだか、こうして呪詛をばらまいていたんだ……。
あの光景が強烈すぎて、わしは記憶を偽っていたのか?
わしはテーブルを叩いて烈しくうめいた。
「しかし、どこまでが真実なんだ。妻の死はどうなんだ。わしは、わしさえもが!」
「……ちょっと、田力さん、なんてことを!」
かたわらで穂積が絶叫していた。
わしは、気が触れたような彼女の顔を見た。
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そのあとすぐ、靖川まなみの後頭部に眼を戻した。
蝶番がはずれ、容器状になった頭部には眼にもまぶしいピンク色をして、テラテラと光沢を放つ脳みそがおさまっていた。
わしは安堵の吐息をついて、
「なんだい、さっきのは幻か。あんたはまともだ。どこもおかしくないさね」と、笑いかけ、彼女の細い肩に手をかけた。
次の瞬間、靖川の身体は力なく横に倒れ、デロリと容器の中身をこぼした。
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