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3.吊り橋効果

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 翌日の放課後、視聴覚室で一人、光宗が作業しているところを目ざとく見つけた。
 Windowsノートパソコンとプロジェクターをつなぎ、うまく起動するかチェックしているようだ。明日以降にでも、授業で使うつもりなのだろう。

「光宗センセ。なにしてるんですか」と、由海は昨日のことなどなかったかのように、踊るような口調で声をかけた。
 ホームルームでの穏やかな表情が一変した。メガネの奥の眼つきが細くなる。

「昨日はどうして逃げた。ひょっとしてはじめてだったのか? せっかくいい雰囲気だったのに」と、由海の背後にまわり込み、視聴覚室の引き戸を閉めながら言った。じょうをかけるパチン!という音がうつろに響いた。すぐに由海をうしろから抱きしめる。「先生が庄司のこと、いいオンナになれるよう教えてやろう。さ、いまから課外授業に移ろうか」

 由海はその腕をふりほどき、相手に向きなおった。
 私は、まじめな人柄の先生が好きになったのだと反発した。
 光宗は背をしゃんと伸ばし、両腕を広げ、小首をかしげた。軽薄な笑み。

「ご覧のとおり、いたってまじめだが。これが真の僕の姿さ。酒が入っていようがいまいが、これで平常運転。生徒のまえじゃ、取り繕う。本音と建前。これが大人だ。そして庄司は、そんなことすら見抜けない子供。いつまで経っても未熟なお嬢さまだ」

「子供なんかじゃありません!」

 毅然たる態度で突っぱねるべきだった。
 なのにまたしても背後から抱きしめられた。耳に息を吹きかけられると、とろけるような感覚が背筋を貫き、逆らえなくなった。

 光宗の嗜虐的しぎゃくてきな言葉責め、歌うようなイントネーション、巧みな女のあしらい、醸し出す男の色香にかかれば、経験の乏しい少女は善悪の判断もつかず、ますます引きずり込まれていった。
 こんな大人は嫌いなのに、こんなやり方はフェアじゃないのに、強く惹かれていく。
 そのときだった。ノックの音がし、助け舟が入った。

「光宗先生、いらっしゃいますか?」と、引き戸の向こうで老けた女の声がした。「ご存知じゃなかったかしら……。四時から職員会議がはじまっているんですよ。校長先生が念のため、声をかけてこいとおっしゃいましたので」

 光宗は弾かれたように背が伸び、あわてて由海の口をふさいだ。

「……いけね! すっかり忘れてた。僕としたことが……。大至急、まいります!」

 廊下側にいる女はいぶかしんでいるようだ。引き戸にぴったり顔をくっつけたらしく、声がくぐもる。

「どなたかとご一緒ですか? いま、誰かとお話されていらっしゃったような気がしたのですが?」

「きっと、プロジェクターで資料を再生したときの音声でしょう。明日の授業で使うんで、チェックしてたんです。このPCは僕の私物でしてね。まさか南国のビーチで、グラビアアイドルの水着姿が出てきたら目も当てられませんから」

「アイドルだなんて……。そんなまちがいが発覚したら、たいへんなことですよ」と、引き戸の向こうの女はなかなか去ってくれない。疑り深かった。「ひょっとして、まだ生徒が残ってるんじゃありませんの? 本日の会議は重要課題なんです。特定の生徒の情報共有。会議前に全校生徒を帰らせていないと、私たちが大目玉を食らいますわ」

 これではらちが明かない。
 こんどは由海が、機転を利かせ、この窮地を救うことにした。
 光宗に口をふさがれた状態でスマートフォンを取り出した。昨日のデートのとき、教えてもらった光宗の電話番号を検索する。通話のアイコンをタッチした。

 男はそれを察し、ありがたいと言わんばかりに、なんども頷いた。
 相手のスマホに着信音が鳴った。
 光宗は胸ポケットから取り出した。着信音が響く。聞こえよがしに引き戸に近づける。
 電話に出た。

「……もしもし、臣吾ですが。……お久しぶりです、おじさん。ちょっと込み入っていましてね。あとでかけなおしますので、またのちほど。……えっ? ちょっと待ってください、いまなんておっしゃいました? ヤスコさんが交通事故に? 亡くなったですって? そりゃたいへんだ!」

 いささかわざとらしい。
 由海は口を押えられたまま、肩をゆすって笑いをこらえた。光宗は由海の頭に、かるい拳骨をお見舞いした。
 引き戸の向こうで聞き耳を立てているらしい女教師は、まんまと騙されたらしく、

「バッドタイミングに出くわしちゃったようね。仕方ありませんわ」と言い、引き戸をノックした。声を大にして、「事情が事情のようですね。もうよろしいから、会議は欠席になさって、おじさんのもとに行ってあげなさい。私から校長先生に伝えておきます。職員室に荷物は?」

「……あ、桂木先生、おかまいなく。かばんはこちらにありますので大丈夫」

「なら、気兼ねなく帰れるわね。ヤスコさんのご冥福をお祈りいたします」

「申し訳ありません」

 ようやく女教師はスリッパの音を響かせながら去っていった。
 二人はクスクス笑っていたが、やがて腹を抱えて大笑いした。



「いけね、だって! 光宗センセ、可愛い」と、由海は男に抱かれたまま言った。

「庄司に助けられたな。ありがとう」光宗は両手で少女の頬を挟み込んで撫でた。「なかなかの演技だったろ? 本年度のアカデミー男優賞はまちがいなしだ。……しかし弱ったな。職員会議があったこと、完全に度忘れしてた」

「ダメですよ、センセともあろう人が」

「庄司が悪いんだ。おまえが魅力的すぎて、僕の思考回路が乱された」

「んふふふ」

 ここで光宗は由海の身体を離した。

「……会議がはじまったとなると、おまえが学校に居残っているのはまずい。いらぬ火の粉がふりかかるぞ。さっさと帰ろう」

「ホントに会議、すっぽかしちゃうんですか?」

「いいよ、そんなの。特定生徒についての極秘会議――つまり伝統ある我が校における、由々しき問題児の情報交換。守秘義務は絶対だ。本来なら学校じゅうの生徒を追い払う。おまえは聞かなかったことにするんだぞ」

 由海は艶然と唇を吊りあげた。

「それって、ひょっとして私のことじゃありませんよね?」

「庄司も、かなり問題があるがな。――そら、ただちに学校から脱出するぞ」

「うん」



 二人は荷物を手に、そそくさと校舎をあとにした。
 曲がり角にさしかかるたび、諜報員ちょうほういんの隠密行動よろしく角からのぞき込み、誰にも気づかれぬよう忍び足で進み、どうにか校門までたどり着くことができた。
 御坊駅まで歩く分にはかまわないだろう。どこにでもある教師と生徒のほほえましい下校風景。
 しゃべりながら歩き、駅に着いた。

「さすがにいまから、いっしょに飯食ってるところを目撃されたらまずいな。今日のところはここで別れよう。また今度、どっか連れてってやるよ。もう手荒なことはしないから。約束する」

「スリル満点でしたね。こんなに興奮したのは初めて」

 光宗と秘密を共有するのは、それはそれで二人の間を縮めるにはうってつけだった。由海の眼が七月の海のように輝き、頬もオカメインコのように赤かった。

「吊り橋効果かもな」

「光宗センセ、バイ! じゃあね、また明日!」由海は手をふってから、反対側のホームへ行くべく、くるりとまわった。プリーツスカートが花開き、メリーゴーランドのように回転した。
 すべらかな白い脚。ひざ裏のくぼんだ、Hの文字にも見えるひかがみの部分が、光宗の網膜に焼き付いた。
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