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12.清さまの系譜

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 さかのぼること去年の十一月。
 このひと月こそ、由海と光宗にとって幸せなひとときだった。その蜜月みつげつの期間はあまりにも短すぎたが。
 ある土曜日の昼下がりだった。由良町のアパートのベッドで愛を交わしたあとの寝物語――。

 由海は光宗の腕枕で横になったまま、男の胸から生えた宝毛たからけをつまんで悪戯いたずらしていた。
 クスクス笑いながら、やけに長い白い毛を伸ばした。一〇センチはある。ピンと張ると、ふいに根もとから切れた。

「痛」

 まどろみのなかにあった光宗が顔をしかめた。

「あ……。切れちゃった」

 と、由海は頭をもたげて言った。

「おまえが無理に引っ張るからだ」

「ごめん、台無しにしたかも。これでご利益がなくなったら、私のせい?」

「かもな」



 白いレースのカーテンから、眠気を誘う淡い光が差し込んでいる。
 二人は身体を重ね、しばらく他愛もない会話を続けたあと、

「ね、光宗センセ。おもしろい話、してあげよっか?」

 と、由海は男の胸に顔を埋めたままつぶやいた。

「おもしろい話? 女の子の話って、長く引っ張ったわりにはオチがなかったりするからな。内容によりけりだ」

「ちゃんとオチはあるよ。ビターチョコみたいなホロ苦いオチなら。それはね、私の――庄司の家に古くからある伝説。ご先祖さまの話なの」

「庄司家の伝説だって」と、光宗は枕もとのタバコをたぐり寄せ、一本を口にくわえた。ライターで火をつける。天井に向かって煙を吹いた。「家系に伝説があるなんて、なかなかソソられるな。だったら話してみろ。先生がAからEの五段階で評価してやる。いい加減な作り話で丸め込もうってつもりなら、論破してやるからな。おれは手厳しいぞ」

「作り話なんかじゃないよ。正真正銘の、家に伝わるお話。私が十三歳のとき、おばあちゃんに教えられた。私ん家に伝わる清さま、、、の悲恋伝説なの」

「なら、どうぞ――」



 時は醍醐天皇だいごてんのうの時代、延長えんちょう六(九二八)年、夏のころだった。奥州白河おうしゅうしらかわより、熊野へ参詣さんけいに来た二人の僧がいた。
 片方の若い僧の名を安珍あんちんといい、たいへんな美男子であった。

 この安珍、紀伊国牟婁郡きいのくにむろぐん(現在の田辺市の山中にある熊野街道沿い)にある真砂まさご集落に立ち寄り、庄司しょうじ 清次きよつぐの屋敷に泊った。
 そのとき、清次の娘、清姫きよひめは、十三歳ながら安珍をひと目見るなり恋心を抱いてしまう。

 その夜、なんとみずから夜這いをしかけて安珍に言い寄る始末。
 安珍は仏に仕える身としてその申し出を断る。
 熊野権現への参詣を終えた帰りに、もう一度庄司家に立ち寄るからと約束し、その場は切り抜ける。

 明くる日、屋敷を発つ安珍。
 なんとか清姫をなだめて出立するのだった。清姫は必ず戻ってきてと手をふり続けた。――しかしながら、その口約束はていのいい言い逃れにすぎなかった。

 安珍が熊野詣くまのもうでをすませたころになったが、いつまで経っても庄司家を訪ねてくる気配はない。
 やがて清姫は、いても立ってもいられず街道までくり出し、道行く人に安珍の背恰好を教え、訪ねてまわった。
 旅人たちが言うには、どうやら安珍らしき人物は、わざと真砂を素通りしてしまったとのこと。なにやら先を急いでいる様子だったという。
 まさか清姫との約束を破ったのではあるまいか?

 だまされたのだ。これほど恋焦がれているというのに、純な気持ちを踏みにじられた。
 清姫は安珍を慕う気持ちから一転、烈しい怒りを抱き、わらじも脱ぎ捨ててあとを追った。
 しだいにその無垢な裸足も血まみれになる。髪をふり乱し、人相まで変わっていった。

 そのうち日高川のほとりまで来た安珍だった。背後には鬼の形相となって追いかけてくる清姫の姿。
 岸辺には渡し舟がつながれていた。
 安珍は船頭に泣きついた。私は恐ろしい鬼女に追われている身。後生だから向こう岸まで渡してくれと。

 こうして安珍は、すんでのところで清姫の追跡をふりきった。
 渡し舟に乗った安珍を苦々しげに見守る清姫。悔し涙を流しながら男を呪う。
 やがて清姫は、日高川に入るも命を落としてしまう。

 が、かんたんには成仏できなかった。
 愛しさをも凌駕する怒り、憎しみ。執念をもって、恐ろしい大蛇へと変わり果てたのだ。
 蛇身となった清姫は川を横切り、すでに向こう岸について逃亡をはかる安珍を追った。
 その禍々まがまがしい姿を見て、安珍は肝をつぶした。

 そばの石段をかけあがり、道成寺どうじょうじに救いを求めた。
 寺の僧や住職たちは、なにごとかと安珍の身の上話を聞いた。
 住職は不憫に思った。
 寺のどこにいても大蛇に見つかる恐れがある。ならば鐘つき堂の鐘をおろすので、そのなかに隠れるがよい。そこなら鉄壁の守りとなるはずだと諭す。

 寺の僧たちは重い釣り鐘をおろすと、そのなかにかくまった。
 安珍は鐘のなかで読経し、心を鎮めようとした。
 その夜、石段を這いあがってきた大蛇と化した清姫。憤怒のまなざしで道成寺の境内を捜しまわり、くだんの釣り鐘へとたどり着く。

 鐘のなかに隠れているのは気配でわかった。
 おのれ、憎き安珍。この悔しい思い、晴らさでおけようか。
 大蛇は鐘の龍頭に噛みつき、きりきりと胴体を七巻き半巻き付けたうえ、口から火炎を浴びせた。

 鐘は炎であぶられた。
 そのなかで、安珍は静かに読経を続けた。
 清姫は悔しくて悔しくて仕方がない。いくら訴えても、安珍は姿を見せ、かつてのように微笑んではくれない。
 やがて大蛇は血の涙を流し、あきらめた様子で蛇体をほどくと、道成寺を去っていった。
 その後、日高川に入水し、今度こそ清姫は死んだ。

 あとには焼けた鐘があるだけ。
 翌日、寺の僧たちがそれをどけてみると、燃え尽きた安珍の亡骸なきがらが現れた。
 一同は肩を落とし、涙ながらに合掌するのだった……。



「なるほど、安珍清姫伝説か」と、光宗は驚いた口調で言った。「たしかに日高では有名な悲恋伝説だな。能や人形浄瑠璃にんぎょうじょうるり、歌舞伎なんかの題材でも古くから取り扱われてる。日本を代表するラブストーリー。いささか報われない話だが。まさか由海の家系に、そんな秘密があったとは。――いや、そもそもフィクションの話じゃなく、ほんとうにあった話だって?」

「おばあちゃんが言ってたの。ほら、これ見て。蛇の紋章ていうの。このあざを持つ庄司の人間は、なにかと恋愛でトラブルに巻き込まれやすくなるんだとか。聖痕スティグマって言ってた」

「おれとの仲はトラブルか? だとすれば、ある種のカルマだな」

「カルマ?」

ごうって意味だ」

「……よくわかんない」

「なんにせよだ。安珍清姫伝説。男にとっちゃ女に言い寄られ、身にあまる光栄な話も、やがて愛情は憎しみに取って代わられ、しまいには殺されるとは……。安珍も罪な男だ。わずか十三の女の子を惚れさせ、狂わせちゃうんだからな。元祖ストーカーの物語か」と、光宗は天井の一点を見つめながら、タバコを吹かした。「おかしなもので、古事記の話だってそうだ。イザナギが黄泉よみの国から逃走するときだ。嫁のイザナミから、あれほど見てくれるなと忠告されたのに、玄室の扉の向こうをのぞいてしまったばっかりに、相手を怒らせるわけだ。ちょっとしたボタンのかけちがえで、男は女にやりこめられる。いつの時代も、男は踏んだり蹴ったりだな」

「そういった男の軽はずみな言動が、女性を傷つけてしまうんじゃないかな。自覚のない悪意がいちばんタチが悪いんだと思う」

「自覚のない悪意か。ずいぶんと大人っぽいことを言うんだな、由海は」
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