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パーティー会場の重厚な扉を閉めた瞬間、私の背筋はピンと伸びた。
これまでの三年間、王太子の婚約者として「淑女の仮面」を貼り付けてきた。
無能な婚約者のフォローをし、無能なその父(国王陛下)の浪費を隠蔽し、無能な側近たちの尻拭いをする日々。
それもこれも、全ては「公爵家の娘としての義務」だと思っていたからだ。
だが、あのアホンダラ――失礼、セドリック殿下が自らその義務を解除してくれたのである。
これほど清々しい気分は、人生で初めてかもしれない。
「……カタリア! 待ちなさい!」
背後から、私の名前を呼ぶ野太い声が響いた。
振り返ると、そこには私の父であるアステリア公爵が、顔に縦線を引いて立っていた。
彼はこの国の筆頭公爵。そして、セドリック殿下と私の婚約を誰よりも推し進めた張本人だ。
「お父様。まだ会場にいらしたのですか。てっきり、新しく王太子の寵愛を受けたリリア様への挨拶の順番待ちでもされているのかと」
「ふざけたことを言うな! あんな、どこの馬の骨とも知れん小娘など知るか! それよりお前、あの書類は何だ! 婚約破棄をあっさり受け入れるばかりか、あんな法外な請求書まで……!」
「法外? 心外ですわ。あれは適正な市場価格に基づいた、極めて良心的な請求額です。殿下が私に負わせた精神的苦痛と、私が国庫に代わって支払った立て替え金の利息を考えれば、むしろ割引しているくらいですわよ」
私は手帳をパラパラとめくり、父の前に突きつけた。
「それよりもお父様。貴方にも、書いていただきたい書類があるのです」
「私に? まさか、私にも慰謝料を請求するつもりか?」
「いいえ。そんな端金は必要ありません。こちらです」
私が差し出したのは、あらかじめ役所に提出する準備を終えていた『親族関係解消届』――いわゆる絶縁状だ。
「……は? 絶縁だと?」
「はい。本日をもって、私はアステリア公爵家との縁を切り、平民となります。ですから、こちらに受領のサインと印を」
「馬鹿な! 婚約を破棄されたばかりのお前が、公爵家の後ろ盾もなくどうやって生きていくというのだ! 大人しく家に戻り、ほとぼりが冷めるまで修道院にでも……」
「お父様、まだ理解していらっしゃらないのですね」
私は父の言葉を遮り、冷ややかな笑みを浮かべた。
「私は、沈みゆく泥舟から真っ先に逃げ出したいと言っているのです」
「泥舟……だと? 我が公爵家がか?」
「いいえ。この国そのものです。王室の金庫は、リリア様が本日お召しのあのドレス一着分すら、本当は捻出できないほど空っぽなのですよ。明日から、王室へ金を貸し付けていた商家たちが一斉に回収に動くでしょう。その矛先は、どこに向かうと思いますか?」
父の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
筆頭公爵家は、王家の借金の連帯保証人に近い立場に置かれている。
カタリアという「優秀な財布」を失った王家が破綻すれば、次に絞り取られるのは公爵家だ。
「私は、自分の資産を王室の心中(しんじゅう)に使うつもりはありません。ですので、私は今この瞬間、法的に貴方たちとは無関係な『赤の他人』になる必要があるのです。さあ、早く判を。私の馬車はもう待たせてありますので」
「……お、お前……。そんな前から、この事態を予見していたのか?」
「予見? いいえ、単純な算数ですわ。入る金より出る金が多ければ、いつかゼロになる。子供でも分かる理屈でしょう?」
父は震える手で、私が差し出した羽ペンを受け取った。
彼は政治家としては優秀だったかもしれないが、経済の計算に関しては私に丸投げだった。
だからこそ、私が「逃げる」と言い出した時の絶望感も人一倍なのだろう。
「……分かった。サインしよう。だがな、カタリア。外の世界は、お前が思っているほど甘くはないぞ。貴族の肩書きを捨てた娘が、一人で何を……」
「ご心配なく。私は『カタリア・フォン・アステリア』としては死にますが、『カタリア・コンサルティング』の代表として再誕いたしますわ」
父が震えながら判を押した書類を、私は大切に回収した。
これで、法的にも私は「自由」だ。
「それでは、お父様。公爵家が破産する前に、せいぜい豪華な食事でも楽しんでおいてくださいませ。あ、そのお召し物も、近いうちに差し押さえの対象になるかもしれませんから、今のうちにたっぷり愛でておくことをお勧めします」
「待て、カタリア! せめて対策を……打開策を教えてくれ!」
「有料案件となりますので、後ほど事務所までご予約をお願いしますわ。……ああ、でも公爵家にはもう、私のコンサル料を払う予算は残っていないかもしれませんね」
私は軽やかに踵を返し、夜の闇へと続く廊下を歩き出した。
城の門を出ると、一台の簡素な、しかし頑丈な馬車が止まっている。
「お嬢様……いえ、カタリア様。準備は整っております」
御者台に座っているのは、私が密かに雇っていた元・軍人のハンスだ。
「ご苦労様、ハンス。例の場所へ向かって。これからは忙しくなるわよ」
「承知いたしました。……それにしても、本当によろしいのですか? あんな豪華な屋敷を捨てて」
「豪華な屋敷には、豪華な維持費がかかるのよ。そんな無駄なコストを支払うくらいなら、駅前の雑居ビルの一室の方がよっぽど魅力的だわ」
馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外を流れていく王宮の景色は、もはや私には関係のない、ただの「不良債権」にしか見えなかった。
手帳を開き、新しいページにペンを走らせる。
『第一話:婚約破棄、完了。第二話:公爵家との絶縁、完了。……第三話:事業拠点の確保と市場調査』
私は窓の外を眺めながら、思わずふふっと笑い声を漏らした。
愛だの恋だの、そんな不確かなものに振り回されるのはもう終わりだ。
これからは、数字だけを信じて生きていく。
それが、私にとって最高の贅沢であり、復讐なのだから。
これまでの三年間、王太子の婚約者として「淑女の仮面」を貼り付けてきた。
無能な婚約者のフォローをし、無能なその父(国王陛下)の浪費を隠蔽し、無能な側近たちの尻拭いをする日々。
それもこれも、全ては「公爵家の娘としての義務」だと思っていたからだ。
だが、あのアホンダラ――失礼、セドリック殿下が自らその義務を解除してくれたのである。
これほど清々しい気分は、人生で初めてかもしれない。
「……カタリア! 待ちなさい!」
背後から、私の名前を呼ぶ野太い声が響いた。
振り返ると、そこには私の父であるアステリア公爵が、顔に縦線を引いて立っていた。
彼はこの国の筆頭公爵。そして、セドリック殿下と私の婚約を誰よりも推し進めた張本人だ。
「お父様。まだ会場にいらしたのですか。てっきり、新しく王太子の寵愛を受けたリリア様への挨拶の順番待ちでもされているのかと」
「ふざけたことを言うな! あんな、どこの馬の骨とも知れん小娘など知るか! それよりお前、あの書類は何だ! 婚約破棄をあっさり受け入れるばかりか、あんな法外な請求書まで……!」
「法外? 心外ですわ。あれは適正な市場価格に基づいた、極めて良心的な請求額です。殿下が私に負わせた精神的苦痛と、私が国庫に代わって支払った立て替え金の利息を考えれば、むしろ割引しているくらいですわよ」
私は手帳をパラパラとめくり、父の前に突きつけた。
「それよりもお父様。貴方にも、書いていただきたい書類があるのです」
「私に? まさか、私にも慰謝料を請求するつもりか?」
「いいえ。そんな端金は必要ありません。こちらです」
私が差し出したのは、あらかじめ役所に提出する準備を終えていた『親族関係解消届』――いわゆる絶縁状だ。
「……は? 絶縁だと?」
「はい。本日をもって、私はアステリア公爵家との縁を切り、平民となります。ですから、こちらに受領のサインと印を」
「馬鹿な! 婚約を破棄されたばかりのお前が、公爵家の後ろ盾もなくどうやって生きていくというのだ! 大人しく家に戻り、ほとぼりが冷めるまで修道院にでも……」
「お父様、まだ理解していらっしゃらないのですね」
私は父の言葉を遮り、冷ややかな笑みを浮かべた。
「私は、沈みゆく泥舟から真っ先に逃げ出したいと言っているのです」
「泥舟……だと? 我が公爵家がか?」
「いいえ。この国そのものです。王室の金庫は、リリア様が本日お召しのあのドレス一着分すら、本当は捻出できないほど空っぽなのですよ。明日から、王室へ金を貸し付けていた商家たちが一斉に回収に動くでしょう。その矛先は、どこに向かうと思いますか?」
父の顔が、みるみるうちに青ざめていく。
筆頭公爵家は、王家の借金の連帯保証人に近い立場に置かれている。
カタリアという「優秀な財布」を失った王家が破綻すれば、次に絞り取られるのは公爵家だ。
「私は、自分の資産を王室の心中(しんじゅう)に使うつもりはありません。ですので、私は今この瞬間、法的に貴方たちとは無関係な『赤の他人』になる必要があるのです。さあ、早く判を。私の馬車はもう待たせてありますので」
「……お、お前……。そんな前から、この事態を予見していたのか?」
「予見? いいえ、単純な算数ですわ。入る金より出る金が多ければ、いつかゼロになる。子供でも分かる理屈でしょう?」
父は震える手で、私が差し出した羽ペンを受け取った。
彼は政治家としては優秀だったかもしれないが、経済の計算に関しては私に丸投げだった。
だからこそ、私が「逃げる」と言い出した時の絶望感も人一倍なのだろう。
「……分かった。サインしよう。だがな、カタリア。外の世界は、お前が思っているほど甘くはないぞ。貴族の肩書きを捨てた娘が、一人で何を……」
「ご心配なく。私は『カタリア・フォン・アステリア』としては死にますが、『カタリア・コンサルティング』の代表として再誕いたしますわ」
父が震えながら判を押した書類を、私は大切に回収した。
これで、法的にも私は「自由」だ。
「それでは、お父様。公爵家が破産する前に、せいぜい豪華な食事でも楽しんでおいてくださいませ。あ、そのお召し物も、近いうちに差し押さえの対象になるかもしれませんから、今のうちにたっぷり愛でておくことをお勧めします」
「待て、カタリア! せめて対策を……打開策を教えてくれ!」
「有料案件となりますので、後ほど事務所までご予約をお願いしますわ。……ああ、でも公爵家にはもう、私のコンサル料を払う予算は残っていないかもしれませんね」
私は軽やかに踵を返し、夜の闇へと続く廊下を歩き出した。
城の門を出ると、一台の簡素な、しかし頑丈な馬車が止まっている。
「お嬢様……いえ、カタリア様。準備は整っております」
御者台に座っているのは、私が密かに雇っていた元・軍人のハンスだ。
「ご苦労様、ハンス。例の場所へ向かって。これからは忙しくなるわよ」
「承知いたしました。……それにしても、本当によろしいのですか? あんな豪華な屋敷を捨てて」
「豪華な屋敷には、豪華な維持費がかかるのよ。そんな無駄なコストを支払うくらいなら、駅前の雑居ビルの一室の方がよっぽど魅力的だわ」
馬車がゆっくりと動き出す。
窓の外を流れていく王宮の景色は、もはや私には関係のない、ただの「不良債権」にしか見えなかった。
手帳を開き、新しいページにペンを走らせる。
『第一話:婚約破棄、完了。第二話:公爵家との絶縁、完了。……第三話:事業拠点の確保と市場調査』
私は窓の外を眺めながら、思わずふふっと笑い声を漏らした。
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