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王都駅前、徒歩三分。
人通りは多いが、建物が古びているせいで誰も足を止めない「死角」のような場所。
そこに立つ三階建ての雑居ビルを見上げ、私は満足げに頷いた。
「完璧だわ、ハンス。この薄汚れた外観こそが、高いプライバシーと低コストを両立させる最強の隠れ家(オフィス)よ」
「……お嬢様、いやカタリア様。普通、貴族出身の方はもっと白亜の壁だとか、バラの庭園がある場所を選ぶものですが」
荷物を運び込みながら、ハンスが呆れたように溜息をついた。
「バラ? そんなもの、維持費(メンテナンスコスト)がかかるだけで一銭も生み出さないわ。それよりも見て、このひび割れた窓。防犯上の不安を煽ることで、逆に『金を持っていない』と思わせる防衛効果があるのよ」
「なるほど、貧乏を装う防御策ですか。……単に安かったからだと思っていました」
「失礼ね。投資に対する回収率(ROI)を考えれば、ここが王都で一番の優良物件だったのよ。さて、二階の応接間を最優先で整えて。一階はまだ改装が必要ね」
私は手帳を開き、事務所のレイアウトを書き込んでいく。
机の配置、書類棚の耐火性能、そして何より重要な――。
「ここに、特大の金庫を置くわ」
「……まだ中に入れるものが、ジャックさんの店の契約書くらいしかないようですが」
「すぐに埋まるわ。王宮の予算書に比べれば、金貨なんてかさばらないもの」
私が壁の寸法を測っていると、階段をドタドタと駆け上がる音が聞こえた。
現れたのは、息を切らしたパン屋のジャックさんだった。
「カ、カタリア様! 大変です! あ、あの……昨日の今日で、お耳に入れたいことが!」
「あらジャックさん。落ち着いて。呼吸の乱れは思考の乱れ。まずはゆっくりと息を吐いてちょうだい。時間は三秒。一、二、三……はい、どうぞ」
「……はあ。はあ。……す、すみません。実は、さっき店にパンギルドの役人が来たんです!」
ジャックさんの顔は土気色だった。
「ギルドの役人が? 定期検査の時期でもないのに、随分と勤勉ね」
「それが……『お前の店の黒パンが、ギルドの定める品質基準に達していない可能性がある。明日までに改善されないなら、販売停止を命じる』って言うんです!」
「品質基準? 貴方の店のパンは、長年市民に親しまれてきたはずよ。急にそんなことを言い出すなんて、不自然だわ」
私はペンを回しながら、脳内の「相関図」を検索する。
パンギルドの理事長は……確か、セドリック殿下の側近の一人、マルクス伯爵の親戚だったはずだ。
「……なるほど。嫌がらせのスピード感だけは、あの殿下も一級品ね」
「殿下の!? じゃ、じゃあ、やっぱり俺がカタリア様に相談したのがバレて……!」
「怯えないで、ジャックさん。これはむしろ、チャンスよ」
私はニヤリと唇を吊り上げた。
「チャンス? 店が潰されそうなんですよ!?」
「相手が土俵(ルール)を無理やり変えてきたということは、こちらが正攻法で勝てることを認めたも同然。それに、ギルドの『品質基準』というのは、あくまで『白いふわふわしたパン』を基準に作られているわ。固い黒パンには、そもそも適用されるべきカテゴリが違うのよ」
私はハンスの方を向いた。
「ハンス。このビルの地下室、確か冷暗所になっていたわよね?」
「ええ、元は酒蔵だったようですからな。ひんやりしています」
「素晴らしいわ。ジャックさん、今すぐお店の黒パンの在庫を全部ここに運び込んで。それから、店の看板を一時的に外してちょうだい」
「ええっ!? 廃業するってことですか!?」
「いいえ。『限定公開(クローズド)』への移行よ」
私は手帳の新しいページに、太い文字で「戦略:希少価値の創出」と書き込んだ。
「パンギルドが守っているのは、大量生産の安物市場。私たちが狙うのは、その対極にある『選ばれた人のための、究極の保存食』としての市場よ」
「究極の……保存食……?」
「そう。ジャックさんの黒パンは、水分量が少なくて発酵が深い。これは、忙しい商人や旅人にとって、最高級の携行食になる。ギルドの基準なんて無視すればいいわ。私たちは『パン』を売るんじゃない。……『安心』と『効率』を売るのよ」
私はジャックさんの肩を叩き、窓の外を指差した。
「見て、あの通りを歩く人々を。みんな忙しそうでしょう? ゆっくりパンを千切ってスープに浸している時間なんて、あの人たちにはないわ。歩きながら食べられて、腹持ちが良くて、一週間経っても腐らない。そんな魔法のような食べ物を探しているはずよ」
「そ、そんなふうに考えたことはありませんでした……」
「それがコンサルティングの価値というものよ。さて、ジャックさん。今夜は眠れないわよ。この地下室を、最高の『熟成庫』に作り替えるわ」
ジャックさんはまだ呆然としていたが、私の勢いに押されたのか、力強く頷いた。
「……分かりました! カタリア様についていきます!」
「良い返事ね。あ、それからハンス」
「はい」
「ついでに、パンギルドの役人の名簿を洗っておいて。接待に使っている店、愛人の数、不透明な帳簿の場所。……相手が法を盾にするなら、こちらは事実(ファクト)を盾にねじ伏せるわ」
「……承知いたしました。お嬢様を敵に回さなくて、本当に良かった」
ハンスが苦笑いしながら一礼する。
私は窓辺に立ち、夕暮れに染まる王都を見下ろした。
セドリック殿下、リリア様。
貴方たちが小手先の嫌がらせに興じている間に、私はこの街の経済の心臓部を、一つずつ確実に買い取らせていただくわ。
それが私という「悪役令嬢」が選んだ、新しい復讐の形なのだから。
人通りは多いが、建物が古びているせいで誰も足を止めない「死角」のような場所。
そこに立つ三階建ての雑居ビルを見上げ、私は満足げに頷いた。
「完璧だわ、ハンス。この薄汚れた外観こそが、高いプライバシーと低コストを両立させる最強の隠れ家(オフィス)よ」
「……お嬢様、いやカタリア様。普通、貴族出身の方はもっと白亜の壁だとか、バラの庭園がある場所を選ぶものですが」
荷物を運び込みながら、ハンスが呆れたように溜息をついた。
「バラ? そんなもの、維持費(メンテナンスコスト)がかかるだけで一銭も生み出さないわ。それよりも見て、このひび割れた窓。防犯上の不安を煽ることで、逆に『金を持っていない』と思わせる防衛効果があるのよ」
「なるほど、貧乏を装う防御策ですか。……単に安かったからだと思っていました」
「失礼ね。投資に対する回収率(ROI)を考えれば、ここが王都で一番の優良物件だったのよ。さて、二階の応接間を最優先で整えて。一階はまだ改装が必要ね」
私は手帳を開き、事務所のレイアウトを書き込んでいく。
机の配置、書類棚の耐火性能、そして何より重要な――。
「ここに、特大の金庫を置くわ」
「……まだ中に入れるものが、ジャックさんの店の契約書くらいしかないようですが」
「すぐに埋まるわ。王宮の予算書に比べれば、金貨なんてかさばらないもの」
私が壁の寸法を測っていると、階段をドタドタと駆け上がる音が聞こえた。
現れたのは、息を切らしたパン屋のジャックさんだった。
「カ、カタリア様! 大変です! あ、あの……昨日の今日で、お耳に入れたいことが!」
「あらジャックさん。落ち着いて。呼吸の乱れは思考の乱れ。まずはゆっくりと息を吐いてちょうだい。時間は三秒。一、二、三……はい、どうぞ」
「……はあ。はあ。……す、すみません。実は、さっき店にパンギルドの役人が来たんです!」
ジャックさんの顔は土気色だった。
「ギルドの役人が? 定期検査の時期でもないのに、随分と勤勉ね」
「それが……『お前の店の黒パンが、ギルドの定める品質基準に達していない可能性がある。明日までに改善されないなら、販売停止を命じる』って言うんです!」
「品質基準? 貴方の店のパンは、長年市民に親しまれてきたはずよ。急にそんなことを言い出すなんて、不自然だわ」
私はペンを回しながら、脳内の「相関図」を検索する。
パンギルドの理事長は……確か、セドリック殿下の側近の一人、マルクス伯爵の親戚だったはずだ。
「……なるほど。嫌がらせのスピード感だけは、あの殿下も一級品ね」
「殿下の!? じゃ、じゃあ、やっぱり俺がカタリア様に相談したのがバレて……!」
「怯えないで、ジャックさん。これはむしろ、チャンスよ」
私はニヤリと唇を吊り上げた。
「チャンス? 店が潰されそうなんですよ!?」
「相手が土俵(ルール)を無理やり変えてきたということは、こちらが正攻法で勝てることを認めたも同然。それに、ギルドの『品質基準』というのは、あくまで『白いふわふわしたパン』を基準に作られているわ。固い黒パンには、そもそも適用されるべきカテゴリが違うのよ」
私はハンスの方を向いた。
「ハンス。このビルの地下室、確か冷暗所になっていたわよね?」
「ええ、元は酒蔵だったようですからな。ひんやりしています」
「素晴らしいわ。ジャックさん、今すぐお店の黒パンの在庫を全部ここに運び込んで。それから、店の看板を一時的に外してちょうだい」
「ええっ!? 廃業するってことですか!?」
「いいえ。『限定公開(クローズド)』への移行よ」
私は手帳の新しいページに、太い文字で「戦略:希少価値の創出」と書き込んだ。
「パンギルドが守っているのは、大量生産の安物市場。私たちが狙うのは、その対極にある『選ばれた人のための、究極の保存食』としての市場よ」
「究極の……保存食……?」
「そう。ジャックさんの黒パンは、水分量が少なくて発酵が深い。これは、忙しい商人や旅人にとって、最高級の携行食になる。ギルドの基準なんて無視すればいいわ。私たちは『パン』を売るんじゃない。……『安心』と『効率』を売るのよ」
私はジャックさんの肩を叩き、窓の外を指差した。
「見て、あの通りを歩く人々を。みんな忙しそうでしょう? ゆっくりパンを千切ってスープに浸している時間なんて、あの人たちにはないわ。歩きながら食べられて、腹持ちが良くて、一週間経っても腐らない。そんな魔法のような食べ物を探しているはずよ」
「そ、そんなふうに考えたことはありませんでした……」
「それがコンサルティングの価値というものよ。さて、ジャックさん。今夜は眠れないわよ。この地下室を、最高の『熟成庫』に作り替えるわ」
ジャックさんはまだ呆然としていたが、私の勢いに押されたのか、力強く頷いた。
「……分かりました! カタリア様についていきます!」
「良い返事ね。あ、それからハンス」
「はい」
「ついでに、パンギルドの役人の名簿を洗っておいて。接待に使っている店、愛人の数、不透明な帳簿の場所。……相手が法を盾にするなら、こちらは事実(ファクト)を盾にねじ伏せるわ」
「……承知いたしました。お嬢様を敵に回さなくて、本当に良かった」
ハンスが苦笑いしながら一礼する。
私は窓辺に立ち、夕暮れに染まる王都を見下ろした。
セドリック殿下、リリア様。
貴方たちが小手先の嫌がらせに興じている間に、私はこの街の経済の心臓部を、一つずつ確実に買い取らせていただくわ。
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