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王宮の執務室は、もはや「ゴミ捨て場」の様相を呈していた。
高級な絨毯の上には、精査を待つ書類の束が崩れ、インクのシミが至る所に飛び散っている。
「……おい。この『関税特例申請書』とやらは何だ。なぜ私がこんなものを読まねばならん」
セドリックは、目の前の紙束を忌々しげに睨みつけながら、隣に立つ文官を怒鳴りつけた。
文官のミラーは、睡眠不足で落ち窪んだ目をこすりながら、力なく答える。
「……殿下。それは、隣国からの輸入麦にかかる税率を、昨年の凶作時の特別措置から通常レートに戻すかどうかの決議案です。これを今すぐ処理しないと、市場のパンの価格が明日から三倍になります」
「三倍!? 勝手に変えればいいだろう! そんな細かい数字、いちいち私に聞くな!」
「……カタリア様がいらした頃は、こうした書類は彼女が夜のうちに全て目を通し、殿下が翌朝『承認』の印を押すだけの状態に整理されておりました。今は、その前段階の計算を誰がやるかで揉めているのです」
セドリックは苛立ちを隠そうともせず、手近な書類をひったくった。
「ふん、計算など足し算と引き算だろう! 私だって、アカデミーでは数学の成績は悪くなかった! 貸してみろ!」
彼は豪語し、羽ペンを握りしめた。
だが、書類に並ぶ数字を見た瞬間、彼の思考は停止した。
『複式簿記による減価償却費の按分計算』
『魔導通信網の維持管理コストに対する特別徴収税の還付比率』
『流通ギルドへの補助金打ち切りに伴う激変緩和措置の試算』
「……。……。……おい、ミラー。この単語は、我が国の言語か?」
「……カタリア様が考案された、最新の経済用語です。彼女は『言葉が正確でないと、金が漏れる』と仰っていました」
「あのアマめ……! わざと難しく書きおって! 大体、リリアが欲しいと言っている宝石の予算はどこに書いてあるんだ!」
ミラーは深いため息をつき、山積みの書類の一番下を指差した。
「そこにある『王宮遊興費・雑費』の欄ですが、既にマイナス表記になっています。つまり、存在しない金を、誰かから借りてこなければ払えません」
「借金だと!? 王家が頭を下げるなど、あってはならん!」
「では、お諦めください」
「……却下だ! 何とかしろ! 計算し直せば、どこかから金が出てくるはずだ!」
セドリックは机を叩いた。
その拍子に、一通の古い報告書が床に落ちた。
何気なくそれを拾い上げたセドリックは、そこに書かれた美しい、しかし整然とした筆跡に目を奪われた。
『結論:本事業は三期連続の赤字。即刻中止し、余剰人員を物流部門へ配置転換すべし。予測される節税効果は年間二億ゴルド』
それはカタリアが、半年前、セドリックが「かっこいいから」という理由で始めようとした『黄金騎士団・パレード専用部隊』の設立を叩き潰した時の意見書だった。
「……二億、だと?」
当時のセドリックは「夢がない女だ」と彼女を罵り、この紙を投げ捨てた。
だが今、目の前にある「リリアの誕生会予算」は、わずか五百万ゴルドでさえ捻出できない。
二億という数字が、どれほど膨大で、どれほどの「未来」を担保していたのか。
数字の重みが、今さらながら彼の脳髄に突き刺さる。
「……。カタリアは、毎日これをやっていたのか?」
「ええ。それも、お茶を飲みながら、鼻歌混じりに。彼女にとって王宮の事務は、暇つぶしのパズル程度の難易度だったようです」
ミラーの言葉は、無意識のうちに毒を含んでいた。
セドリックは、カタリアの筆跡をじっと見つめ、拳を握りしめた。
(……認めない。あんな冷徹な女が、いなくて困るなどと……口が裂けても認めてたまるか!)
「殿下! 大変です!」
別の文官が、さらに分厚い書類を持って部屋に飛び込んできた。
「今度はなんだ!」
「王都の主要なパン屋たちが、一斉に『原材料の高騰により、王宮への納品を停止する』と通告してきました! 明日の王室の朝食は、パン抜きのスープだけになります!」
「……な、なにぃ!?」
セドリックの絶叫が、散らかった執務室に虚しく響いた。
カタリアがいれば、小麦の備蓄を放出し、価格交渉を数時間で終わらせていただろう。
だが今の王宮には、計算のできない王子と、絶望に打ちひしがれた文官しかいなかった。
セドリックはようやく、自分が「最強の防波堤」を自ら壊してしまったことに、微かな恐怖を感じ始めていた。
高級な絨毯の上には、精査を待つ書類の束が崩れ、インクのシミが至る所に飛び散っている。
「……おい。この『関税特例申請書』とやらは何だ。なぜ私がこんなものを読まねばならん」
セドリックは、目の前の紙束を忌々しげに睨みつけながら、隣に立つ文官を怒鳴りつけた。
文官のミラーは、睡眠不足で落ち窪んだ目をこすりながら、力なく答える。
「……殿下。それは、隣国からの輸入麦にかかる税率を、昨年の凶作時の特別措置から通常レートに戻すかどうかの決議案です。これを今すぐ処理しないと、市場のパンの価格が明日から三倍になります」
「三倍!? 勝手に変えればいいだろう! そんな細かい数字、いちいち私に聞くな!」
「……カタリア様がいらした頃は、こうした書類は彼女が夜のうちに全て目を通し、殿下が翌朝『承認』の印を押すだけの状態に整理されておりました。今は、その前段階の計算を誰がやるかで揉めているのです」
セドリックは苛立ちを隠そうともせず、手近な書類をひったくった。
「ふん、計算など足し算と引き算だろう! 私だって、アカデミーでは数学の成績は悪くなかった! 貸してみろ!」
彼は豪語し、羽ペンを握りしめた。
だが、書類に並ぶ数字を見た瞬間、彼の思考は停止した。
『複式簿記による減価償却費の按分計算』
『魔導通信網の維持管理コストに対する特別徴収税の還付比率』
『流通ギルドへの補助金打ち切りに伴う激変緩和措置の試算』
「……。……。……おい、ミラー。この単語は、我が国の言語か?」
「……カタリア様が考案された、最新の経済用語です。彼女は『言葉が正確でないと、金が漏れる』と仰っていました」
「あのアマめ……! わざと難しく書きおって! 大体、リリアが欲しいと言っている宝石の予算はどこに書いてあるんだ!」
ミラーは深いため息をつき、山積みの書類の一番下を指差した。
「そこにある『王宮遊興費・雑費』の欄ですが、既にマイナス表記になっています。つまり、存在しない金を、誰かから借りてこなければ払えません」
「借金だと!? 王家が頭を下げるなど、あってはならん!」
「では、お諦めください」
「……却下だ! 何とかしろ! 計算し直せば、どこかから金が出てくるはずだ!」
セドリックは机を叩いた。
その拍子に、一通の古い報告書が床に落ちた。
何気なくそれを拾い上げたセドリックは、そこに書かれた美しい、しかし整然とした筆跡に目を奪われた。
『結論:本事業は三期連続の赤字。即刻中止し、余剰人員を物流部門へ配置転換すべし。予測される節税効果は年間二億ゴルド』
それはカタリアが、半年前、セドリックが「かっこいいから」という理由で始めようとした『黄金騎士団・パレード専用部隊』の設立を叩き潰した時の意見書だった。
「……二億、だと?」
当時のセドリックは「夢がない女だ」と彼女を罵り、この紙を投げ捨てた。
だが今、目の前にある「リリアの誕生会予算」は、わずか五百万ゴルドでさえ捻出できない。
二億という数字が、どれほど膨大で、どれほどの「未来」を担保していたのか。
数字の重みが、今さらながら彼の脳髄に突き刺さる。
「……。カタリアは、毎日これをやっていたのか?」
「ええ。それも、お茶を飲みながら、鼻歌混じりに。彼女にとって王宮の事務は、暇つぶしのパズル程度の難易度だったようです」
ミラーの言葉は、無意識のうちに毒を含んでいた。
セドリックは、カタリアの筆跡をじっと見つめ、拳を握りしめた。
(……認めない。あんな冷徹な女が、いなくて困るなどと……口が裂けても認めてたまるか!)
「殿下! 大変です!」
別の文官が、さらに分厚い書類を持って部屋に飛び込んできた。
「今度はなんだ!」
「王都の主要なパン屋たちが、一斉に『原材料の高騰により、王宮への納品を停止する』と通告してきました! 明日の王室の朝食は、パン抜きのスープだけになります!」
「……な、なにぃ!?」
セドリックの絶叫が、散らかった執務室に虚しく響いた。
カタリアがいれば、小麦の備蓄を放出し、価格交渉を数時間で終わらせていただろう。
だが今の王宮には、計算のできない王子と、絶望に打ちひしがれた文官しかいなかった。
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