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大公領での改革初日。私は深夜まで執務室に籠もり、山のような帳簿を精査していた。
隣国の王宮が「底なしの泥沼」だとしたら、このアルトワーズ大公領の財政は「磨きすぎた大理石」のようだ。
無駄はない。だが、余裕もない。
すべてが冷徹なまでに最適化されすぎていて、遊び心が一切排除されている。
「……ふう。これはこれで、胃が休まらないわね」
私がペンを置き、凝り固まった肩を回したその時。
音もなく扉が開き、夜食のトレイを持ったレオナード閣下が現れた。
「……まだ起きていたのか。カタリア」
「閣下こそ。主君が自ら夜食を運ぶなんて、人件費の節約のつもりかしら?」
「君を働かせすぎて倒れられては、我が国の損失が大きすぎるからな。これは投資に対するメンテナンスだ」
彼は無愛想にトレイを机に置いた。
中身は、温かいスープと、あのジャックさんの店の『アイアン・ブレッド』だ。
「あら。わざわざ取り寄せてくださったの?」
「保存が効き、栄養価が高い。深夜の作業には最も合理的だと思った。……嫌だったか?」
「いいえ。一番効率的で助かるわ」
私がパンを一口かじると、レオナード閣下は向かいの席に腰を下ろした。
能面のような顔は相変わらずだが、月光に照らされた彼の横顔には、昼間には見せなかった微かな「疲れ」が滲んでいる。
「……閣下。貴方はなぜ、それほどまでに合理性を求めるの? この国の帳簿を見れば分かる。貴方は、自分を一切甘やかしていない」
レオナード閣下は、しばらく黙って窓の外を見つめていた。
「……私は、感情という不確定要素で国が滅びるのを見てきた。先代――私の父は、愛した愛妾のために堤防の予算を削り、結果として洪水で領民の半分を失った。愛や情けは、数字の前ではあまりに無力だ」
「……。……。だから、心を氷に変えたというわけ?」
「そうだ。数字を信じれば、人は裏切らない。だが、そのせいで私は誰からも理解されなくなった。家臣たちは私を恐れ、他国の姫たちは私を冷血漢だと蔑む」
彼は自嘲気味に、ふっと息を漏らした。
「……君も、同じだろう? あの王太子に『可愛げがない』と言われたのは、君が常に『正論』という名の冷徹な数字を突きつけたからだ」
私は、スープを飲む手を止めた。
胸の奥が、少しだけ熱くなるのを感じる。
「……ええ、そうね。私は彼に、宝石よりもインフラ整備の方が重要だと説き続けたわ。それが王妃としての『愛』だと思っていたけれど、彼にはただの『呪文』にしか聞こえなかったみたい」
「……彼が愚かだっただけだ」
レオナード閣下は、真っ直ぐに私を見た。
「私は、君のその『呪文』を世界で最も美しい言葉だと思う」
「……閣下。それは、コンサルタントに対する最大級の賛辞かしら?」
「いいえ、パートナーとしての『本音』だ」
彼の無表情な瞳の中に、一瞬だけ、熱い火が灯ったような気がした。
「……カタリア。君は、私を『氷の能面』だと言ったな。だが、君の前でだけは、私はただの『効率を愛する一人の男』でいられる気がする」
「……。……。……困ったわね。そんなことを言われたら、私の計算機が狂ってしまうわ」
私はわざとらしくため息をつき、手帳で顔を隠した。
頬が少し熱いのは、きっとこのスープの温度が高いせいだ。
「……お仕事の話に戻りましょう。閣下。この第六管区の物流ルート、あと二割は改善の余地がありますわ」
「……承知した。明朝、詳しく聞かせてくれ」
レオナード閣下は立ち上がり、扉の方へ歩き出した。
だが、去り際に彼は一度だけ振り返り、本当に微かな、しかし確かな「微笑み」を私に向けた。
「お休み、カタリア。私の最高の資産(パートナー)」
扉が閉まり、執務室に静寂が戻る。
私は一人、冷めかけたスープを口に運んだ。
「……全く。あんな不器用な笑い方、計算外だわ……」
私は手帳のレオナード閣下の名前に、無意識のうちに「要注意(高利回り)」という注釈を書き加えていた。
どうやら、私の心という名の市場にも、新しい勢力が参入してきたようだ。
隣国の王宮が「底なしの泥沼」だとしたら、このアルトワーズ大公領の財政は「磨きすぎた大理石」のようだ。
無駄はない。だが、余裕もない。
すべてが冷徹なまでに最適化されすぎていて、遊び心が一切排除されている。
「……ふう。これはこれで、胃が休まらないわね」
私がペンを置き、凝り固まった肩を回したその時。
音もなく扉が開き、夜食のトレイを持ったレオナード閣下が現れた。
「……まだ起きていたのか。カタリア」
「閣下こそ。主君が自ら夜食を運ぶなんて、人件費の節約のつもりかしら?」
「君を働かせすぎて倒れられては、我が国の損失が大きすぎるからな。これは投資に対するメンテナンスだ」
彼は無愛想にトレイを机に置いた。
中身は、温かいスープと、あのジャックさんの店の『アイアン・ブレッド』だ。
「あら。わざわざ取り寄せてくださったの?」
「保存が効き、栄養価が高い。深夜の作業には最も合理的だと思った。……嫌だったか?」
「いいえ。一番効率的で助かるわ」
私がパンを一口かじると、レオナード閣下は向かいの席に腰を下ろした。
能面のような顔は相変わらずだが、月光に照らされた彼の横顔には、昼間には見せなかった微かな「疲れ」が滲んでいる。
「……閣下。貴方はなぜ、それほどまでに合理性を求めるの? この国の帳簿を見れば分かる。貴方は、自分を一切甘やかしていない」
レオナード閣下は、しばらく黙って窓の外を見つめていた。
「……私は、感情という不確定要素で国が滅びるのを見てきた。先代――私の父は、愛した愛妾のために堤防の予算を削り、結果として洪水で領民の半分を失った。愛や情けは、数字の前ではあまりに無力だ」
「……。……。だから、心を氷に変えたというわけ?」
「そうだ。数字を信じれば、人は裏切らない。だが、そのせいで私は誰からも理解されなくなった。家臣たちは私を恐れ、他国の姫たちは私を冷血漢だと蔑む」
彼は自嘲気味に、ふっと息を漏らした。
「……君も、同じだろう? あの王太子に『可愛げがない』と言われたのは、君が常に『正論』という名の冷徹な数字を突きつけたからだ」
私は、スープを飲む手を止めた。
胸の奥が、少しだけ熱くなるのを感じる。
「……ええ、そうね。私は彼に、宝石よりもインフラ整備の方が重要だと説き続けたわ。それが王妃としての『愛』だと思っていたけれど、彼にはただの『呪文』にしか聞こえなかったみたい」
「……彼が愚かだっただけだ」
レオナード閣下は、真っ直ぐに私を見た。
「私は、君のその『呪文』を世界で最も美しい言葉だと思う」
「……閣下。それは、コンサルタントに対する最大級の賛辞かしら?」
「いいえ、パートナーとしての『本音』だ」
彼の無表情な瞳の中に、一瞬だけ、熱い火が灯ったような気がした。
「……カタリア。君は、私を『氷の能面』だと言ったな。だが、君の前でだけは、私はただの『効率を愛する一人の男』でいられる気がする」
「……。……。……困ったわね。そんなことを言われたら、私の計算機が狂ってしまうわ」
私はわざとらしくため息をつき、手帳で顔を隠した。
頬が少し熱いのは、きっとこのスープの温度が高いせいだ。
「……お仕事の話に戻りましょう。閣下。この第六管区の物流ルート、あと二割は改善の余地がありますわ」
「……承知した。明朝、詳しく聞かせてくれ」
レオナード閣下は立ち上がり、扉の方へ歩き出した。
だが、去り際に彼は一度だけ振り返り、本当に微かな、しかし確かな「微笑み」を私に向けた。
「お休み、カタリア。私の最高の資産(パートナー)」
扉が閉まり、執務室に静寂が戻る。
私は一人、冷めかけたスープを口に運んだ。
「……全く。あんな不器用な笑い方、計算外だわ……」
私は手帳のレオナード閣下の名前に、無意識のうちに「要注意(高利回り)」という注釈を書き加えていた。
どうやら、私の心という名の市場にも、新しい勢力が参入してきたようだ。
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