運命は変わる。「婚約破棄だ!」と王子が叫んだ瞬間。

桃瀬ももな

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「……閣下。ペンの音が止まっています」

「ああ……すまない」

「それと、書類の決裁ペースが通常より四〇パーセント低下しています。体調不良ですか?」

「いや……考え事をしていただけだ」

宰相執務室。

ガレリア帝国の襲撃事件から三日が経過していた。

壊された窓や家具は修復され、いつもの静寂(と書類の山)が戻ってきている。

しかし、決定的に何かが違っていた。

空気だ。

いつものような、暑苦しいほどの熱気――ジークフリートからの過剰なスキンシップや、甘い言葉が、ここ数日一切ないのだ。

彼は私に触れない。

目も合わせない。

淡々と、機械のように事務処理をこなしているだけだ。

「……変ですね」

私はインクを補充しながら独りごちた。

(計算が合わない。あの事件の直後、『一生離さない』と豪語していた人物と、現在のこの冷徹な男が同一人物だとは思えない)

私の脳内コンピューターが「異常事態」の警告を鳴らしている。

部屋の隅では、レイナが不安そうに私たちを見比べていた。

「……アスカ様。閣下の筋肉にハリがありません」

レイナが小声で囁いてくる。

「上腕三頭筋が萎縮しています。あれは……心に迷いがある時の筋肉ですわ」

「迷い?」

「はい。恋する乙女(マッスル)の勘ですが……何か重大な決断をしようとして、踏み止まっているような……」

レイナの言葉に、私は眉をひそめた。

重大な決断。

嫌な予感がした。胸の奥がザワザワする。

これは不整脈だろうか?

「……アスカ」

唐突に、ジークフリートが口を開いた。

その声は、かつてないほど低く、硬質だった。

「はい、閣下」

「少し、話がある」

彼はペンを置き、指を組んで私を見据えた。

「人払いをする。……レイナ、文官たち。全員退室しろ」

「えっ? でもまだ業務が……」

「命令だ。今すぐだ」

有無を言わせぬ圧。

レイナたちは顔を見合わせ、怯えたように部屋を出て行った。

重厚な扉が閉まる音が、やけに大きく響く。

広い執務室に、私とジークフリート、二人きり。

いつもなら、ここで彼がデレて抱きついてくるところだが、今日は空気が凍りついている。

「……なんでしょうか、閣下」

私は努めて冷静に尋ねた。

「新しい予算案の相談ですか? それとも……」

「契約の話だ」

ジークフリートは、引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。

テーブルの上を滑ってくる白い紙。

そこに書かれていた文字を見て、私は息を呑んだ。

『雇用契約解除通知書』

「……これは?」

「読んで字の如くだ。アスカ・フォン・ローゼン。本日付で、君との補佐官契約を解除する」

「……」

思考が停止した。

解除?

クビということか?

「……理由を伺っても? 私の業務に不備がありましたか? 計算ミス? それとも接遇態度?」

「不備はない。君は完璧だ」

ジークフリートは無表情のまま言った。

「完璧すぎるのだ。……この狭い宰相府に留めておくにはな」

「……どういう意味ですか」

「ベルンシュタインの言葉を考えた。……彼は正しかった」

ジークフリートは立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。背中を向けられる。

「君の才能は、国家予算規模だ。この小国の、前例踏襲ばかりの古い行政システムの中で、私のサポート(介護)をするだけで終わっていい器じゃない」

「……それは、私が判断することです」

「いいや、上司である私が判断する」

彼は振り返らなかった。

「帝国に行け。アスカ」

「……は?」

「帝国の『マギ・コンピューター』。……あれがあれば、君の理想とする『完全なる効率化』が実現できるだろう。君はずっと、そういう世界を望んでいたはずだ」

「私は……!」

私は立ち上がった。

「私は先日、お断りしました! 帝国の条件より、ここの『福利厚生』の方が価値があると!」

「それは君の優しさだ」

「優しさ?」

「同情だ。……不器用で、一人では何もできない私への哀れみだ」

ジークフリートの声が微かに震えたような気がしたが、すぐに冷徹な響きに戻った。

「私は宰相だ。情けで部下に残ってもらうほど落ちぶれてはいない」

「情けではありません! これは私の合理的判断で……!」

「非合理的だ!」

彼が叫んだ。

その大声に、私はビクリと肩を震わせた。

彼はゆっくりとこちらを向き、冷たい瞳で私を射抜いた。

「君がここにいることは、世界的な損失だ。……君の才能の浪費(コスト)だ。私と一緒にいても、君はこれ以上成長しない」

彼は机の上の『契約解除通知書』を指で弾いた。

「サインしろ。……そして、帝国のベルンシュタインに連絡を取れ。紹介状なら書いてやる」

「…………」

私は唇を噛んだ。

言葉が出ない。

反論の計算式が組み立てられない。

彼の言っていることは、論理的には正しいのかもしれない。

帝国の環境の方が、私のスキルを活かせる。

客観的に見れば、私のキャリアアップのためには転職すべきだ。

でも。

(……嫌だ)

心が拒絶している。

胸が痛い。締め付けられるように苦しい。

これが「論理」ではない感情、「愛着」というバグなのか。

「……閣下。一つだけ聞きます」

私は震える声を抑え込み、彼を睨みつけた。

「貴方は……私がいなくなっても、平気なのですか?」

「……」

ジークフリートの眉がピクリと動いた。

一瞬の沈黙。

そして、彼はフッと自嘲気味に笑った。

「平気だ。……元々、一人でやっていた仕事だ。君がいなくても、どうにでもなる」

嘘だ。

私の「契約のペン(嘘を見抜く機能はないが、愛着のあるペン)」が、そう告げている気がした。

けれど、彼がここまで頑なな態度を取る以上、私が縋るのは「プライド」が許さなかった。

私は公爵令嬢アスカ・フォン・ローゼン。

「必要ない」と言われた場所に、しがみつくような惨めな真似はしない。

「……承知いたしました」

私は深く息を吸い、感情スイッチをオフにした。

冷徹な「仕事人」の仮面を被る。

「雇用主がそう判断されたのであれば、従います。……本日の定時をもって、退職させていただきます」

私は羽ペンを取り、通知書にサインをした。

サラサラと走るペン先。

インクの染みが、まるで黒い涙のように見えた。

「……引き継ぎ書は作成済みです。デスクの一番上の引き出しに入っています」

「ああ」

「コーヒー豆の在庫管理表と、文官たちのシフト表も更新してあります」

「……分かった」

「それから、この髪飾りと、万年筆は……」

私が外そうとすると、ジークフリートが鋭く制した。

「持って行け!」

「……え?」

「それは……退職金代わりだ。置いていくな。……捨ててもいいから、私の目の届かないところで処分しろ」

「……分かりました」

私は髪飾りをつけたまま、深く一礼した。

「短い間でしたが……お世話になりました。ジークフリート宰相閣下」

「……ああ。達者でな」

彼は最後まで、私と目を合わせようとしなかった。

私は踵を返した。

執務室の出口へ向かう足取りが、鉛のように重い。

(引き止めて)

心のどこかで、そんな期待をしていた。

「嘘だ」「行くな」と、いつものように抱きしめてくれるのではないかと。

しかし、背後から声は掛からなかった。

ガチャリ。

私は扉を開け、廊下へ出た。

そして、静かに扉を閉じた。

「……っ」

閉じた瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。

(……バカみたい。なんで泣いてるのよ、私)

効率が悪い。水分と塩分の無駄だ。

キャリアアップのチャンスじゃないか。喜ぶべきだ。

なのに、どうしてこんなに世界が灰色に見えるの?

私は涙を拭い、走り出した。

もう振り返らない。

あの部屋には、私の居場所はないのだから。



執務室の中。

アスカが出て行った後の静寂。

ジークフリートは、アスカのサインが書かれた羊皮紙を見つめ、立ち尽くしていた。

「……う、ぅ……」

彼の手が震え、羊皮紙がクシャリと歪む。

ドサッ。

彼は膝から崩れ落ちた。

「……バカは、私だ……」

床に拳を叩きつける。

「平気なわけ、ないだろう……!」

心臓をもぎ取られたような激痛。

息ができない。

アスカを手放すことが、彼女のためだと理屈では分かっていた。

彼女の才能を、自分の独占欲で飼い殺してはいけないと。

ベルンシュタインに「器がない」と言われた時、言い返せなかった自分が情けなかった。

だから、突き放した。

嫌われるような嘘をついて、彼女を自由な空へ羽ばたかせようとした。

それが「愛」だと信じて。

「……アスカ……行かないでくれ……」

本音が漏れる。

今すぐに追いかけて、足に縋り付いて、「嘘だ、行くな」と叫びたい。

だが、できない。

一度吐いた言葉は戻らない。

「……私は、宰相失格だ……そして、男としても……」

広すぎる執務室。

アスカのいない空間は、あまりにも寒々しくて、色のない牢獄のようだった。

机の上には、アスカが残していった完璧な引き継ぎ書。

そして、彼女が飲みかけだった冷めたコーヒーカップだけが残されていた。

ジークフリートはカップを手に取り、その縁に唇を押し当てた。

間接キスなどという甘いものではない。

それは、自ら愛を捨てた男の、女々しくも痛切な後悔の儀式だった。

「……愛している。……幸せになってくれ、アスカ」

その呟きは、誰にも届くことなく、冷たい空気の中に溶けていった。
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