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「……閣下。いい加減、離してください。カビが生えます」
王城、宰相執務室。
泥だらけの帰還から一時間後。
シャワーを浴び、着替えを済ませた私は、自分のデスクに戻っていた。
しかし、業務を開始しようとする私の背後には、巨大な『背後霊』が憑りついていた。
ジークフリート宰相だ。
彼は私の椅子に無理やり一緒に座り込み(狭い)、後ろから私の腰に腕を回し、私の肩に顎を乗せている。
「嫌だ。……離したら、また君が消えてしまいそうで怖い」
「消えません。ここにいます」
「なら、体温で確認させてくれ。……うん、温かい。生きている」
彼は猫のように私の首筋に顔を擦り付ける。
「……あの、閣下? 仕事になりません」
「仕事ならしている。ほら」
彼は私を抱きしめたまま、器用に片手で書類を取り、判子を押した。
「左手の可動域が制限されていますが、意外といけるものですね」
「君を抱き枕にすることで、精神安定効果(メンタルケア)により作業効率が二〇パーセント向上している」
「私の作業効率は五〇パーセント低下しています」
私が抗議しても、彼は聞く耳を持たなかった。
完全に『分離不安』を起こしている犬だ。
部屋の隅では、レイナがハンカチを噛み締めながら悶えていた。
「尊い……! 雨降って地固まる、ならぬ、雨降って筋肉密着する……! 閣下の大胸筋がアスカ様の背中を包み込む、この完璧なフィット感……!」
「レイナ、煩いです。貴女も仕事をなさい」
「はい! 今は『二人の愛の波動(オーラ)』を記録するという重要な任務を遂行中です!」
私はため息をついた。
結局、いつものカオスな日常が戻ってきただけだ。
けれど。
(……不思議ね)
私は手元の書類――ジークフリートが「詫びの品」として持ってきた、例の『資金洗浄ルート解析資料』に目を落とした。
難解な数字の羅列。
複雑怪奇な金の流れ。
普通なら頭痛がするような難問だ。
でも、今の私には、それが愛おしいパズルのように見える。
そして、背中から伝わるジークフリートの体温と、重たい鼓動。
それらが混ざり合って、かつてないほどの『安心感』を醸成していた。
「……閣下」
「なんだ」
「この密輸組織の帳簿、面白いですね。ダミー会社を三層構造にして利益を隠蔽していますが、決算日のズレに法則性があります」
私がペン先で一点を指し示すと、ジークフリートが覗き込んだ。
「……本当だ。気づかなかった。私が三日悩んだ箇所を、君は五分で見抜くのか」
「閣下はマクロな視点で見過ぎです。悪党はもっとミクロな、小銭の計算でミスをするものです」
「なるほど。……やはり君は天才だ」
ジークフリートが、私の耳元で囁く。
「そして、私の自慢の婚約者だ」
チュッ。
頬にリップ音が響く。
「……っ、仕事中にキスは禁止です!」
「休憩中だ(〇・五秒)」
「詭弁です!」
私が顔を赤くして怒ると、ジークフリートは低く笑った。
その笑い声が、背中越しに私の胸に響く。
「……アスカ」
急に、彼の声色が真面目なものに変わった。
拘束が少しだけ緩み、彼は私をくるりと回転させて、向き合わせた。
至近距離。
彼の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
「……戻ってきてくれて、ありがとう」
「……」
「あの時……君に『帝国へ行け』と言ったこと。あれは、私の人生で最大の失言だった」
彼は私の手を握り、痛いくらいに強く握りしめた。
「君の才能を縛るのが怖かった。君がいつか、『こんな狭い世界じゃ物足りない』と私に愛想を尽かすのが怖かった。だから、傷つく前に自分から手放そうとした」
弱音だった。
あの完璧超人である『氷の宰相』が、ただの臆病な男としての本音を晒している。
「……卑怯者でしたね」
私は淡々と告げた。
「はい。……私は卑怯で、愚かな男だ」
「計算もできないバカです」
「否定しない」
「でも」
私は彼の手を握り返した。
「……私も、バカでした」
「え?」
私は視線を逸らした。
素直になるのは、計算式を解くより難しい。
「……あの屋敷にいた二日間。……何も、楽しくありませんでした」
「アスカ……」
「暇で、退屈で、世界から色が消えたようでした。……どんなに効率的に家事を回しても、誰からも『すごい』と褒めてもらえない。誰も、私に無理難題を押し付けてこない」
私は唇を噛んだ。
「私は気づいてしまったのです。……私が欲しかったのは、高い給料でも、最新の機械でもない」
私は顔を上げ、彼の目を見た。
「貴方です。……ジークフリート閣下。貴方に『必要だ』と言われること。貴方の隣で、貴方と一緒に頭を抱えて、泥臭く仕事をすること。……それが、私の……」
言葉が詰まる。
喉が熱い。
「……私の、生き甲斐(幸せ)だったようです」
言い切った瞬間、顔から火が出るかと思った。
なんて非合理的な感情論。
こんなの、私のキャラじゃない。
しかし、ジークフリートの反応は劇的だった。
彼は目を見開き、口をパクパクさせ、そして――
「アスカァァァァァ!!」
ガバッ!
本日二度目の、全力抱擁。
「ぐえっ!? 閣下、背骨が!」
「好きだ! 大好きだ! 愛している! もう二度と離さない、絶対にだ!」
「わ、分かりましたから! 苦しい!」
「生き甲斐? 私が? 聞いたかレイナ! 聞いたか文官たち!」
ジークフリートは私を抱きかかえたまま立ち上がり、執務室の全員に見せつけるように叫んだ。
「アスカは私がいないと生きていけないそうだ! 相思相愛だ! 完全勝利だ!」
「おめでとうございます閣下ぁぁぁ!」
文官たちが涙ながらに拍手する。
「ヒューヒュー! ご馳走様ですぅ!」
レイナが指笛を吹く。
「……公開処刑ですか、ここは」
私はジークフリートの腕の中で、恥ずかしさのあまり顔を覆った。
「閣下、下ろしてください。……威厳がゼロですよ」
「構わん。君さえいれば、威厳など犬に食わせてもいい」
彼は私を再び椅子に座らせると、今度は私の足元に跪いた。
「……アスカ」
「なんですか、また」
「改めて、契約を結びたい」
彼は真剣な眼差しで言った。
「以前の『雇用契約』ではない。……対等なパートナーとしての、生涯の契約だ」
「……結婚、ということですか?」
「それも含む。だが、まずは仕事だ」
彼は机の上の書類の山――この三日間で溜まりに溜まった未決裁書類――を指さした。
「これらを片付けるには、私の力だけでは足りない。……君の力が必要だ」
「……ふふ」
私は笑ってしまった。
プロポーズの直後に、残業の山を見せられるなんて。
でも、それが私たちらしい。
「分かりました。……受けましょう」
私は腕まくりをした。
「ただし、以前の契約内容(条件)のままというわけにはいきませんよ? 一度クビになった身ですから、再雇用にはそれなりの『新規条件』を提示させていただきます」
「望むところだ。……何でも言ってみろ」
「では、明日の朝までに契約書案を作成します。……覚悟しておいてくださいね?」
「ああ。……楽しみにしている」
ジークフリートは私の手にキスを落とした。
そして、私たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「さあ、閣下。……戦争(仕事)の時間です」
「ああ。……殲滅するぞ」
私たちは同時にペンを手に取った。
カサカサカサカサ……!
猛烈な勢いで書類が処理されていく音。
それは、魔王城に完全なる平穏が戻ってきたことを告げる、高らかなファンファーレだった。
王城、宰相執務室。
泥だらけの帰還から一時間後。
シャワーを浴び、着替えを済ませた私は、自分のデスクに戻っていた。
しかし、業務を開始しようとする私の背後には、巨大な『背後霊』が憑りついていた。
ジークフリート宰相だ。
彼は私の椅子に無理やり一緒に座り込み(狭い)、後ろから私の腰に腕を回し、私の肩に顎を乗せている。
「嫌だ。……離したら、また君が消えてしまいそうで怖い」
「消えません。ここにいます」
「なら、体温で確認させてくれ。……うん、温かい。生きている」
彼は猫のように私の首筋に顔を擦り付ける。
「……あの、閣下? 仕事になりません」
「仕事ならしている。ほら」
彼は私を抱きしめたまま、器用に片手で書類を取り、判子を押した。
「左手の可動域が制限されていますが、意外といけるものですね」
「君を抱き枕にすることで、精神安定効果(メンタルケア)により作業効率が二〇パーセント向上している」
「私の作業効率は五〇パーセント低下しています」
私が抗議しても、彼は聞く耳を持たなかった。
完全に『分離不安』を起こしている犬だ。
部屋の隅では、レイナがハンカチを噛み締めながら悶えていた。
「尊い……! 雨降って地固まる、ならぬ、雨降って筋肉密着する……! 閣下の大胸筋がアスカ様の背中を包み込む、この完璧なフィット感……!」
「レイナ、煩いです。貴女も仕事をなさい」
「はい! 今は『二人の愛の波動(オーラ)』を記録するという重要な任務を遂行中です!」
私はため息をついた。
結局、いつものカオスな日常が戻ってきただけだ。
けれど。
(……不思議ね)
私は手元の書類――ジークフリートが「詫びの品」として持ってきた、例の『資金洗浄ルート解析資料』に目を落とした。
難解な数字の羅列。
複雑怪奇な金の流れ。
普通なら頭痛がするような難問だ。
でも、今の私には、それが愛おしいパズルのように見える。
そして、背中から伝わるジークフリートの体温と、重たい鼓動。
それらが混ざり合って、かつてないほどの『安心感』を醸成していた。
「……閣下」
「なんだ」
「この密輸組織の帳簿、面白いですね。ダミー会社を三層構造にして利益を隠蔽していますが、決算日のズレに法則性があります」
私がペン先で一点を指し示すと、ジークフリートが覗き込んだ。
「……本当だ。気づかなかった。私が三日悩んだ箇所を、君は五分で見抜くのか」
「閣下はマクロな視点で見過ぎです。悪党はもっとミクロな、小銭の計算でミスをするものです」
「なるほど。……やはり君は天才だ」
ジークフリートが、私の耳元で囁く。
「そして、私の自慢の婚約者だ」
チュッ。
頬にリップ音が響く。
「……っ、仕事中にキスは禁止です!」
「休憩中だ(〇・五秒)」
「詭弁です!」
私が顔を赤くして怒ると、ジークフリートは低く笑った。
その笑い声が、背中越しに私の胸に響く。
「……アスカ」
急に、彼の声色が真面目なものに変わった。
拘束が少しだけ緩み、彼は私をくるりと回転させて、向き合わせた。
至近距離。
彼の瞳が、私を真っ直ぐに見つめている。
「……戻ってきてくれて、ありがとう」
「……」
「あの時……君に『帝国へ行け』と言ったこと。あれは、私の人生で最大の失言だった」
彼は私の手を握り、痛いくらいに強く握りしめた。
「君の才能を縛るのが怖かった。君がいつか、『こんな狭い世界じゃ物足りない』と私に愛想を尽かすのが怖かった。だから、傷つく前に自分から手放そうとした」
弱音だった。
あの完璧超人である『氷の宰相』が、ただの臆病な男としての本音を晒している。
「……卑怯者でしたね」
私は淡々と告げた。
「はい。……私は卑怯で、愚かな男だ」
「計算もできないバカです」
「否定しない」
「でも」
私は彼の手を握り返した。
「……私も、バカでした」
「え?」
私は視線を逸らした。
素直になるのは、計算式を解くより難しい。
「……あの屋敷にいた二日間。……何も、楽しくありませんでした」
「アスカ……」
「暇で、退屈で、世界から色が消えたようでした。……どんなに効率的に家事を回しても、誰からも『すごい』と褒めてもらえない。誰も、私に無理難題を押し付けてこない」
私は唇を噛んだ。
「私は気づいてしまったのです。……私が欲しかったのは、高い給料でも、最新の機械でもない」
私は顔を上げ、彼の目を見た。
「貴方です。……ジークフリート閣下。貴方に『必要だ』と言われること。貴方の隣で、貴方と一緒に頭を抱えて、泥臭く仕事をすること。……それが、私の……」
言葉が詰まる。
喉が熱い。
「……私の、生き甲斐(幸せ)だったようです」
言い切った瞬間、顔から火が出るかと思った。
なんて非合理的な感情論。
こんなの、私のキャラじゃない。
しかし、ジークフリートの反応は劇的だった。
彼は目を見開き、口をパクパクさせ、そして――
「アスカァァァァァ!!」
ガバッ!
本日二度目の、全力抱擁。
「ぐえっ!? 閣下、背骨が!」
「好きだ! 大好きだ! 愛している! もう二度と離さない、絶対にだ!」
「わ、分かりましたから! 苦しい!」
「生き甲斐? 私が? 聞いたかレイナ! 聞いたか文官たち!」
ジークフリートは私を抱きかかえたまま立ち上がり、執務室の全員に見せつけるように叫んだ。
「アスカは私がいないと生きていけないそうだ! 相思相愛だ! 完全勝利だ!」
「おめでとうございます閣下ぁぁぁ!」
文官たちが涙ながらに拍手する。
「ヒューヒュー! ご馳走様ですぅ!」
レイナが指笛を吹く。
「……公開処刑ですか、ここは」
私はジークフリートの腕の中で、恥ずかしさのあまり顔を覆った。
「閣下、下ろしてください。……威厳がゼロですよ」
「構わん。君さえいれば、威厳など犬に食わせてもいい」
彼は私を再び椅子に座らせると、今度は私の足元に跪いた。
「……アスカ」
「なんですか、また」
「改めて、契約を結びたい」
彼は真剣な眼差しで言った。
「以前の『雇用契約』ではない。……対等なパートナーとしての、生涯の契約だ」
「……結婚、ということですか?」
「それも含む。だが、まずは仕事だ」
彼は机の上の書類の山――この三日間で溜まりに溜まった未決裁書類――を指さした。
「これらを片付けるには、私の力だけでは足りない。……君の力が必要だ」
「……ふふ」
私は笑ってしまった。
プロポーズの直後に、残業の山を見せられるなんて。
でも、それが私たちらしい。
「分かりました。……受けましょう」
私は腕まくりをした。
「ただし、以前の契約内容(条件)のままというわけにはいきませんよ? 一度クビになった身ですから、再雇用にはそれなりの『新規条件』を提示させていただきます」
「望むところだ。……何でも言ってみろ」
「では、明日の朝までに契約書案を作成します。……覚悟しておいてくださいね?」
「ああ。……楽しみにしている」
ジークフリートは私の手にキスを落とした。
そして、私たちは顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「さあ、閣下。……戦争(仕事)の時間です」
「ああ。……殲滅するぞ」
私たちは同時にペンを手に取った。
カサカサカサカサ……!
猛烈な勢いで書類が処理されていく音。
それは、魔王城に完全なる平穏が戻ってきたことを告げる、高らかなファンファーレだった。
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