運命は変わる。「婚約破棄だ!」と王子が叫んだ瞬間。

桃瀬ももな

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「……ベールの角度が三度ずれています。修正を」

王都の大聖堂、新婦控え室。

純白のウェディングドレスに身を包んだ私は、鏡の前で最終チェックを行っていた。

周囲のメイドたちが、ピリピリとした空気の中で動き回る。

「メイク担当、リップの色味が指示書と違います。彩度をツーランク落として。花嫁が浮ついて見えては、国の品格に関わります」

「は、はいっ! 申し訳ありません!」

「進行係、入場曲のテンポが遅いです。一分間に一一〇ビートで歩く計算ですので、指揮者に伝達を」

「ぎょ、御意!」

私の指示が飛ぶたびに、現場の空気が引き締まる(あるいは凍りつく)。

今日は、私アスカ・フォン・ローゼンと、宰相ジークフリート・フォン・シュヴァルツの結婚式だ。

本来なら、花嫁は幸せに浸ってボーッとしていればいいのかもしれない。

しかし、私の性分がそれを許さなかった。

「……一生に一度のイベント(プロジェクト)です。ミスは許されません」

私が手元の進行表(自作の分厚いファイル)をチェックしていると、ガチャリと扉が開いた。

「……アスカ。入ってもいいか」

現れたのは、純白のタキシードを着こなしたジークフリートだった。

いつもの黒衣の宰相姿も良いが、白もまた破壊力がある。

背筋が伸び、堂々としたその姿は、まさに『王子様』……いや、貫禄がありすぎて『聖帝』といった趣だ。

彼は私を見た瞬間、入り口で立ち尽くした。

「……どうしました、閣下。ネクタイが曲がっていますよ?」

私が指摘しても、彼は動かない。

「……綺麗だ」

ポツリと、ため息のような声が漏れた。

「計算できないほどに……美しい」

彼はゆっくりと歩み寄り、私の手を取った。

その指先が微かに震えている。

「この姿を、国民全員に見せるのが惜しい。……今すぐここに結界を張って、私だけのものにしたい」

「独占禁止法違反です。それに、ゲストが三千人も待っていますよ」

「全員帰らせようか?」

「費用対効果が悪すぎます。……さあ、行きますよ。予定より三十秒遅れです」

私は彼の手を引き、バージンロードへの入り口へと向かった。



「新郎新婦、入場!」

パイプオルガンの荘厳な音色が響き渡る。

重厚な扉が開くと、そこには溢れんばかりの人、人、人。

王族、貴族、他国の使節団、そして抽選で選ばれた市民代表たち。

視線のシャワーを浴びながら、私たちは祭壇へと歩き出した。

「……閣下、歩幅を合わせて」

「ああ。……だが、緊張で足がもつれそうだ」

「しっかりしてください。宰相でしょう?」

「君のドレス姿が眩しすぎて、直視できないんだ」

小声でそんな甘い会話をしながら進む。

最前列には、見知った顔ぶれが並んでいた。

「ううっ……アスカ……幸せに……幸せになれよぉ……!」

号泣してハンカチを絞っているのは、カイル王子だ。

彼は今日、新郎の介添人(ベストマン)を務めているはずだが、すでに情緒不安定で使い物にならなくなっている。

その隣には、ドレスアップしたレイナがいる。

彼女は熱心にメモを取っていた。

「……ふむふむ。タキシードの上からでも分かる、広背筋の広がり……。緊張による筋肉の硬直すら美しい……。これぞ『ウェディング・マッスル』……!」

「……あの二人、退場させますか?」

ジークフリートが低い声で囁く。

「放置しましょう。あれも演出の一部(コメディリリーフ)です」

私たちは祭壇にたどり着いた。

老齢の司祭が、恭しく聖書を開く。

「……新郎、ジークフリート・フォン・シュヴァルツよ。汝、健やかなる時も、病める時も……」

「誓います」

ジークフリートが食い気味に即答した。

「早いです、閣下。まだ問いが終わっていません」

「聞くまでもない。……私は彼女の全てを、死が二人を分かつまで……いや、分かたれた後も永遠に管理(あい)すると決めている」

司祭が「ひぇっ」と引いた。

「……で、では新婦、アスカ・フォン・ローゼンよ。汝……」

「誓います」

私も即答した。

「貴女もですか……」

「効率化です。結論が出ている問いに時間をかけるのは無駄ですので」

私はジークフリートに向き直った。

「私は、貴方を支え、貴方を叱咤し、そして貴方が道に迷いそうになった時は、胸倉を掴んででも正しい道へ引き戻すことを誓います」

「……最高の誓いだ」

ジークフリートは満足げに微笑み、ベールを上げた。

「では、契約の封印(キス)を」

彼が顔を近づける。

衆人環視の中。

数千の視線が集まる、その中心で。

私たちは、まるで執務室で二人きりの時のような、自然で、しかし熱烈な口づけを交わした。

「……んッ」

長い。

予定では三秒のはずだが、すでに十秒が経過している。

「……閣下、長いです」

唇を少し離して囁く。

「延長料金が発生しますよ」

「一生かけて払うさ」

彼は悪戯っぽく笑い、再び唇を重ねた。

ワァァァァァァァ!!!!

大聖堂が揺れるほどの歓声と拍手が巻き起こる。

天井から降り注ぐ花びら。

カイル王子の「おめでとうぅぅぅ!」という絶叫。

レイナの「尊いぃぃぃ!」という悲鳴。

それら全てが、私たちの新しい門出を祝福するBGMだった。

(……悪くないわね)

私は彼に身を預けながら、心の中で計算機の電源を切った。

今この瞬間だけは、効率も数字も忘れて、ただの幸せな花嫁でいよう。

そう思った。



そして、数ヶ月後。

「……アスカ。この書類の決裁、どう思う?」

「却下です。予算の積算根拠が甘すぎます。担当者に突き返してください」

「了解した。……では、こちらの隣国との通商条約案は?」

「第七項に不利な条件が隠されていますね。修正案を書いておきました。これを叩きつけてやってください」

「助かる。……愛しているぞ」

「はいはい。私もです」

場所は、王城の宰相執務室。

そこには、二つの巨大な執務机が並べられていた。

一つは宰相ジークフリートのもの。

もう一つは、その隣に新設された『宰相夫人兼特別主席補佐官』アスカのものだ。

結婚しても、私たちは変わらなかった。

いや、むしろ悪化(パワーアップ)していた。

「……新婚旅行、三日で切り上げて戻ってきたのは正解でしたね」

私が羽ペンを走らせながら言うと、ジークフリートが苦笑した。

「リゾート地のホテルで、君が『従業員のオペレーションが悪い』と気になって落ち着かなかったからな」

「閣下だって、『この国の観光開発計画書』を勝手に作り始めていたじゃないですか」

「……職業病だな」

私たちは顔を見合わせて笑った。

甘い新婚生活?

優雅なお茶会?

そんなものは、私たちには似合わない。

山積みの書類。

飛び交う怒号(主にカイル王子への説教)。

そして、達成困難なプロジェクトを二人でねじ伏せる快感。

それこそが、私たちの「愛の形」なのだ。

コンコン。

扉がノックされ、レイナが入ってきた。

彼女は今や、私の直属の秘書官(兼ボディーガード)として働いている。

「アスカ様! 閣下! 大変です!」

「どうしました、レイナ」

「カイル殿下がまたやらかしました! 『愛の記念碑』を作ると言って、王宮の庭に巨大なアスカ様の銅像を建てようとしています!」

「……即時撤去。費用は殿下の小遣いから天引きで」

「あと、ベルンシュタイン卿から『結婚祝い』が届いています。……最新型の計算機です」

「……あいつ、まだ諦めていないのね。解析班に回して、バックドア(裏口)がないか調べさせて」

私はテキパキと指示を出し、伸びをした。

「……ふう。今日も忙しくなりそうですね」

「ああ。……退屈しなくていい」

ジークフリートが、コーヒーを二つ淹れて持ってきた。

以前より少しだけ上達した、でもまだ少し苦いコーヒー。

「休憩にするか? アスカ」

「いいえ。……あと十件、片付けてからにします」

私はカップを受け取り、彼の目を見た。

「だって、早く終わらせないと……今夜の『夫婦の時間』が減ってしまいますから」

私が小声で付け加えると、ジークフリートの顔が一瞬で赤くなり、そして蕩けるような笑顔になった。

「……そうだな。全速力で終わらせよう」

彼は自分の席に戻り、猛烈な勢いでペンを動かし始めた。

私も負けじと書類に向かう。

カサカサカサカサ……!

執務室に響く、二つのペンの音。

それは、この国を支える最強の夫婦が奏でる、愛と情熱の協奏曲。

「……ねえ、あなた」

「なんだ、アスカ」

「私、今……計算できないくらい、幸せですよ」

「……知っている。私もだ」

窓の外には、今日も青空が広がっている。

元・悪役令嬢と、魔王宰相。

二人の「多忙で幸福な日々」は、これからもずっと、書類の山と共に続いていくのだった。
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