婚約破棄ですか? ではこちらが請求書です!

桃瀬ももな

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マニエール公爵邸の執務室は、かつてないほどの緊張感に包まれていた。
主である公爵が冷や汗を流し、その傍らでコロンが猛烈な勢いで書類の束をめくっている。

パラパラ、パラパラ。
紙が擦れる音だけが、等間隔のメトロノームのように室内に響く。

「……お父様」

「は、はい! 何かな、コロン!」

「この『領民親睦用・高級茶葉購入費』、年間で三千万ゴールドというのは……どのような魔法を使えば、茶葉だけでこれほどの負債を生み出せるのかしら?」

コロンは視線を書類に落としたまま、氷のような声で尋ねた。
公爵はバツが悪そうに視線を泳がせ、立派な髭をいじり始める。

「いや、その……領民との絆を深めるためには、やはり良い茶が必要かと思ってな。ほら、マニエール家は『情に厚い』のが売りだろう?」

「情に厚いことと、市場価格の五倍の値段で粗悪な茶葉を掴まされることは別問題です。これは絆ではなく、ただの『集金装置』に成り下がっていますわ」

コロンは手元のペンで、その項目に迷いなく巨大な×印を書き込んだ。

「セバス。この茶葉の納入業者を調べなさい。おそらく、領内にある役人の親族が経営しているダミー会社でしょうね。三秒で特定して、これまでの過払い分の返還請求書を送付しなさい」

「承知いたしました。すでに候補を三社に絞り、法務部門へ差し押さえの準備を指示しております」

セバスの流れるような対応に、コロンは満足げに頷いた。

「お嬢様、実はお父様。もう一点、気になる項目がございます」

「何かしら、セバス。これ以上、私の血圧を上げるような数字は勘弁してほしいけれど」

「領内の噴水広場に設置された『公爵様の等身大黄金像』の維持費でございます」

一瞬、室内が静まり返った。
コロンはゆっくりと顔を上げ、父親をじっと見つめる。

「……黄金像? お父様、自画像の次は彫像ですか?」

「いやあ、領民たちが『公爵様の輝かしい笑顔を毎日拝みたい』と熱望するから、つい……」

「その熱望を口にしたのは、先ほどの茶葉業者ではないかしら?」

「ぐ……。さすが私の娘だ、察しがいいな……」

コロンは深くため息をつき、こめかみを押さえた。

「お父様。私は今日、この屋敷に帰ってきてから『ただいま』と言いましたけれど、あれは撤回させていただきます。ここが私の『家』であるためには、まずこの数字のゴミ屋敷を大掃除する必要がありますわ」

彼女は立ち上がり、執務室の壁に貼られた領地の地図を指差した。

「マニエール領は資源も豊富で、立地も悪くない。それなのに赤字なのは、システムが古いのではなく、関わっている人間が腐っているからです」

「……コロン、君は具体的にどう動くつもりだい?」

公爵が、少しだけ真面目な顔をして問いかける。

「簡単です。今日この後、領内の主要な役人を全員ここに集めてください。『王宮を追放された哀れな令嬢を慰める会』という名目で。……ああ、食事は出さなくていいわ。水一杯一万ゴールドで販売する形式にしましょう」

「お、お嬢様……。それはまた、ずいぶんと……」

「効率的でしょう? 彼らから搾り取られた税金の一部を、水分補給という名目で回収するのです。……セバス、会議室の準備を。温度設定は二十八度。少し汗をかきやすい、喉が渇く環境が理想的ね」

「かしこまりました。極上の『商談環境』を整えさせていただきます」

   * * *

数時間後、公爵邸の広間には、肥え太った役人たちが顔を揃えていた。
彼らは「傷心のコロン令嬢」を適当に慰め、公爵に取り入って、また自分たちの利権を守ろうと算段していたのだ。

「いやはや、コロン様。王宮でのことは誠に残念でございましたな」

「リヒト殿下もお目が高いのか低いのか……。ですがご安心を。このマニエール領は、我々がしっかりと支えておりますから!」

彼らの脂ぎった笑顔を見ながら、コロンは扇を優雅に広げた。
その瞳は、獲物の弱点を見極める猛禽類のそれである。

「皆様、本日はお集まりいただき感謝いたします。……ところで、皆様が『支えてくださっている』という領内の経済状況について、少々確認したいことがあるのですが」

「ははっ、何なりと! 我々の仕事に抜かりはございません!」

一人の役人が自信満々に胸を叩いた。
コロンは微笑みを浮かべ、手元の書類を一枚、彼らの前に滑らせた。

「では、この『防波堤補修工事』の請求書について説明していただけるかしら? 三年前から毎年同じ金額が計上されていますが……。セバス、現在の防波堤の状況は?」

「はっ。現地を確認いたしましたが、補修どころか、カモメの巣が大量に増設されておりました。工事の形跡はゼロにございます」

広間の空気が、一気に凍りついた。

「な……。そ、それは、その、海水の浸食が激しく……!」

「海水の浸食よりも、皆様の財布への『金の浸食』の方が激しいようですね。……一分待ってあげるわ。今この場で、着服した全額の返済計画書を作成するか、それともこのまま衛兵に引き渡されて、一生、無給で防波堤の石積みを担当するか。どちらが効率的か、皆様なら計算できますわね?」

コロンは算盤をチャッ、と一度だけ弾いた。
その音は、汚職役人たちの首を撥ねるギロチンの音のように、鋭く響いた。

「さあ、お父様。……これがマニエール家の『新しい絆』の形です。恐怖と利益で結ばれた、極めて合理的な関係性の始まりよ」

床にへたり込む役人たちを冷ややかに見下ろしながら、コロンは初めて、本心からの「ただいま」を、心の中で呟いた。
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