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第二章 動きだす歯車
間話 城の中の夏
天正9年(1581年)7月 近江・長浜城 ねね/お初
ねね
長浜城の中庭に、夏の光が落ちていた。
朝のうちは涼しかった空気も、日が高くなるにつれて柔らかくなり、打ち水の跡がゆっくりと乾いていく。
庭先では侍女たちが洗い終えた布を干し、桶を抱えて行き交っている。
私は廊下の端に立ち、その様子を眺めていた。
――穏やかだ。
戦国の城ではあるが、大殿(織田信長)の本拠地・安土にも近く、戦とは縁が遠い城。
とはいえ、夫や我が子同然に育ててきた市松(福島正則)や虎之助(加藤清正)、家臣たちが最前線で戦いの日々を送っている。それを思うと心が晴れる日はない。
しかし、今日は少しだけ違った。
「……まあ」
思わず声が漏れた。
庭の中央で、竹若が走っている。
そしてその後を、小さな犬が必死に追いかけていた。
「待て、マル!」
竹若が振り返りながら声をかける。
マルと呼ばれた柴犬は、意味が分かっているのかいないのか、少し遅れて止まり、次の瞬間、また走り出した。
その様子が、なんとも可笑しい。
「随分、息が合ってきましたね」
隣に立つお初殿―竹若の母が、柔らかく微笑む。
「ええ」
あの子犬が城に来たのは、まだ寒さの残る頃だった。
小さくて、丸くて、抱けば震えるような存在だったのに、今では脚も伸び、胸も張って、立派な柴犬の姿をしている。
生後5か月ほどだろうか。
毛並みは密になり、耳はすっかり立ち、目の光も鋭くなった。
「……本当に、早いものですね」
私の言葉に、お初殿も静かに頷いた。
「子も、犬も……」
そう言って、視線を庭へ戻す。
竹若は、すでに息を切らしている。
それでも止まらない。
走って、転びそうになって、また立ち上がる。
「ほら、来い!」
呼ばれたマルが、少し遅れて戻ってくる。
水を張った桶のそばで足を滑らせ、前脚を濡らした。
「――あら」
侍女の一人が小さく声を上げる。
マルは驚いたように後ずさり、次の瞬間、勢いをつけて桶の中に飛び込んだ。
ばしゃり、と水音。
「こら、マル!」
竹若が慌てて駆け寄る。
私は思わず、口元を押さえた。
――ああ、まだ子供だ。
あの子が、こんなふうに無邪気に遊ぶ姿を見るのは、久しぶりだ。
マルは桶の縁に前脚をかけ、必死によじ登る。
濡れ鼠になりながらも、自分で抜け出した。
竹若はすぐに手拭いを取り、マルの体を拭いてやる。
「勝手に飛び込むな」
叱る声は、どこか笑っている。
マルは意味が分からないまま、尻尾を振り、今度は竹若の足元に体を擦りつけた。
それを見て、侍女たちが一斉に笑った。
「まあ、可愛い」
「若様のお犬は、ずいぶん甘え上手で」
「城の中が明るくなりますね」
その言葉に、私は胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
――そうだ。
この城は、ずっと張り詰めていた。
戦
政
駆け引き
噂
それらから、ほんの一瞬でも解放される時間があるだけで、人の顔は変わる。
「竹若殿」
私が声をかけると、あの子は振り返った。
「その子、随分とお利口になりましたね」
「はい。でも、まだまだです」
そう言って、またマルの背を撫でる。
その仕草が、年相応に可愛いく、胸が詰まる思いがした。
この子は、背負うものが大きすぎる。
秀長殿の子として。
羽柴の一門として。
そして、いずれ――。
「ねね様」
お初殿が、小さく声を落とした。
「……この時間が、長く続けばよいのですが」
私は、すぐには答えられなかった。
代わりに、庭の様子を見つめる。
竹若は、今度は自分も桶の水に手を浸し、マルに水を弾いて見せている。
マルは驚き、逃げ、また戻る。
ただ、それだけの光景。
だが、胸に沁みる。
「続きますよ」
私は、ゆっくりと言った。
「続けねばなりません」
お初殿は、何も言わず、私の言葉を受け止める。
マルが遊び疲れたのか、縁側に戻り、竹若の膝に前脚をかけた。
そのまま、ころりと横になる。
竹若は笑い、犬の頭に手を置く。
「楽しかったな」
初夏の風が、庭を渡った。
水の匂いと、笑い声が、城の中に溶けていく。
私は、その光景を、心に刻むように眺めていた。
今この時に確かにあった、穏やかな一日として。
お初
日が傾き始めた頃、庭は少しだけ静かになった。
侍女たちは持ち場に戻り、ねね様も奥へと引き上げていく。
残ったのは、縁側に座る我が子とその膝に寄り添う犬だけだった。
私は、その様子を黙って眺めていた。
竹若は、マルの背をゆっくり撫でながら、目をつむっている。
しばらくすると動きが止まり、小さな背中が小刻みに上下しだした。
―この子は、よく考える。
幼い頃からそうだった。
遊びよりも、人の話を聞き、場の空気を読む。
大人の言葉をそのまま受け取らず、一度胸に置いてから返す。
母として、それが誇らしくもあり、怖くもあった。
子供は、もっと無邪気でいい。そうあって欲しい。
だが、竹若は違う。
それでも今、この時間だけは―
この子は、ただの子供に戻っている。
マルの背中に、短い腕を回し、寝息をたてている。
マルは、全幅の信頼を寄せて竹若に体を預けている。
「……よかった」
思わず、口から零れた。
何が、ではない。
ただ、この光景がそこにあるということが。
私は、胸の前でそっと手を重ねた。
――どうか。
この子が、重たいものを背負うとき、今日の時間を忘れませんように。
誰かの温もりを。
笑い声を。
風が、静かに庭を渡る。
侍女に寝室から小さな布団を持ってこさせ、竹若にそっと掛けた。
寝息を立てる我が子を起こさぬよう、黒く艶やな小さな頭をゆっくりと何度も撫でた。
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ねね
長浜城の中庭に、夏の光が落ちていた。
朝のうちは涼しかった空気も、日が高くなるにつれて柔らかくなり、打ち水の跡がゆっくりと乾いていく。
庭先では侍女たちが洗い終えた布を干し、桶を抱えて行き交っている。
私は廊下の端に立ち、その様子を眺めていた。
――穏やかだ。
戦国の城ではあるが、大殿(織田信長)の本拠地・安土にも近く、戦とは縁が遠い城。
とはいえ、夫や我が子同然に育ててきた市松(福島正則)や虎之助(加藤清正)、家臣たちが最前線で戦いの日々を送っている。それを思うと心が晴れる日はない。
しかし、今日は少しだけ違った。
「……まあ」
思わず声が漏れた。
庭の中央で、竹若が走っている。
そしてその後を、小さな犬が必死に追いかけていた。
「待て、マル!」
竹若が振り返りながら声をかける。
マルと呼ばれた柴犬は、意味が分かっているのかいないのか、少し遅れて止まり、次の瞬間、また走り出した。
その様子が、なんとも可笑しい。
「随分、息が合ってきましたね」
隣に立つお初殿―竹若の母が、柔らかく微笑む。
「ええ」
あの子犬が城に来たのは、まだ寒さの残る頃だった。
小さくて、丸くて、抱けば震えるような存在だったのに、今では脚も伸び、胸も張って、立派な柴犬の姿をしている。
生後5か月ほどだろうか。
毛並みは密になり、耳はすっかり立ち、目の光も鋭くなった。
「……本当に、早いものですね」
私の言葉に、お初殿も静かに頷いた。
「子も、犬も……」
そう言って、視線を庭へ戻す。
竹若は、すでに息を切らしている。
それでも止まらない。
走って、転びそうになって、また立ち上がる。
「ほら、来い!」
呼ばれたマルが、少し遅れて戻ってくる。
水を張った桶のそばで足を滑らせ、前脚を濡らした。
「――あら」
侍女の一人が小さく声を上げる。
マルは驚いたように後ずさり、次の瞬間、勢いをつけて桶の中に飛び込んだ。
ばしゃり、と水音。
「こら、マル!」
竹若が慌てて駆け寄る。
私は思わず、口元を押さえた。
――ああ、まだ子供だ。
あの子が、こんなふうに無邪気に遊ぶ姿を見るのは、久しぶりだ。
マルは桶の縁に前脚をかけ、必死によじ登る。
濡れ鼠になりながらも、自分で抜け出した。
竹若はすぐに手拭いを取り、マルの体を拭いてやる。
「勝手に飛び込むな」
叱る声は、どこか笑っている。
マルは意味が分からないまま、尻尾を振り、今度は竹若の足元に体を擦りつけた。
それを見て、侍女たちが一斉に笑った。
「まあ、可愛い」
「若様のお犬は、ずいぶん甘え上手で」
「城の中が明るくなりますね」
その言葉に、私は胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
――そうだ。
この城は、ずっと張り詰めていた。
戦
政
駆け引き
噂
それらから、ほんの一瞬でも解放される時間があるだけで、人の顔は変わる。
「竹若殿」
私が声をかけると、あの子は振り返った。
「その子、随分とお利口になりましたね」
「はい。でも、まだまだです」
そう言って、またマルの背を撫でる。
その仕草が、年相応に可愛いく、胸が詰まる思いがした。
この子は、背負うものが大きすぎる。
秀長殿の子として。
羽柴の一門として。
そして、いずれ――。
「ねね様」
お初殿が、小さく声を落とした。
「……この時間が、長く続けばよいのですが」
私は、すぐには答えられなかった。
代わりに、庭の様子を見つめる。
竹若は、今度は自分も桶の水に手を浸し、マルに水を弾いて見せている。
マルは驚き、逃げ、また戻る。
ただ、それだけの光景。
だが、胸に沁みる。
「続きますよ」
私は、ゆっくりと言った。
「続けねばなりません」
お初殿は、何も言わず、私の言葉を受け止める。
マルが遊び疲れたのか、縁側に戻り、竹若の膝に前脚をかけた。
そのまま、ころりと横になる。
竹若は笑い、犬の頭に手を置く。
「楽しかったな」
初夏の風が、庭を渡った。
水の匂いと、笑い声が、城の中に溶けていく。
私は、その光景を、心に刻むように眺めていた。
今この時に確かにあった、穏やかな一日として。
お初
日が傾き始めた頃、庭は少しだけ静かになった。
侍女たちは持ち場に戻り、ねね様も奥へと引き上げていく。
残ったのは、縁側に座る我が子とその膝に寄り添う犬だけだった。
私は、その様子を黙って眺めていた。
竹若は、マルの背をゆっくり撫でながら、目をつむっている。
しばらくすると動きが止まり、小さな背中が小刻みに上下しだした。
―この子は、よく考える。
幼い頃からそうだった。
遊びよりも、人の話を聞き、場の空気を読む。
大人の言葉をそのまま受け取らず、一度胸に置いてから返す。
母として、それが誇らしくもあり、怖くもあった。
子供は、もっと無邪気でいい。そうあって欲しい。
だが、竹若は違う。
それでも今、この時間だけは―
この子は、ただの子供に戻っている。
マルの背中に、短い腕を回し、寝息をたてている。
マルは、全幅の信頼を寄せて竹若に体を預けている。
「……よかった」
思わず、口から零れた。
何が、ではない。
ただ、この光景がそこにあるということが。
私は、胸の前でそっと手を重ねた。
――どうか。
この子が、重たいものを背負うとき、今日の時間を忘れませんように。
誰かの温もりを。
笑い声を。
風が、静かに庭を渡る。
侍女に寝室から小さな布団を持ってこさせ、竹若にそっと掛けた。
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