ニアリー・シンメトリー・ハート——お前の手だけだよ……こんなゾクゾクさせられるの……

街田あんぐる

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4. 言葉を「生きる」べきなのに

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 手。手。手。
 満員電車の吊り革を掴む手。
 ベビーカーを押す手。
 白杖はくじょうで地面を叩く手。
 前の人が社員証をオートロックにかざす手。
 自分……篠原梓が社員証をかざす手。

 遥二を振り切るようにラブホテルを出てから、色々な手を見た。世界にはこんなにも多様な手があった。
 その中で梓の心を熱くするのは、遥二の手だけだった。

 分かってた。ずっと前から知ってたんだ。遥二だけだって。だから怖くなって逃げたんだ。だってしょうがないじゃん……。

「篠原くん」
「……ッはい!」

 オフィスのデスクに座ったところで、先輩の清水から声をかけられた。
 清水は服装自由な社内でも仕立てのいいスーツを好む、30代半ばの男性だ。どこかしらエリート風情が漂っており、実際若くして実力を認められつつあるコピーライターである。
 上の空な梓の反応に、清水は怪訝な顔をした。

「何か考えごと?」
「あ……そうですね、でも大したことでは」
「そっか……。あの」

 清水はちょいちょい、と指で梓を呼び、少しだけかがんで梓に顔を近づけた。

「秋山さんが11時に来るって」

 梓がヒュッと息を呑む。三白眼の目が見開かれて、動揺で瞳が揺れる。

「大丈夫。来週の面談を今日11時にずらしておいたから、おれたちは会議室ね。あの人はたぶんこっちで話すでしょ」

 清水はオフィスフロアのフリースペースをひらりと手で示した。清水は、梓が秋山と遭遇しないよう手を打っておいたのだ。会議室も予約済み。

「……すみません」

 梓は口から謝罪の言葉を漏らして、それから一層情けなく、虚しくなった。

 ここは謝る場面じゃない。お礼を言うべきだ。だって悪いのは僕じゃない。清水先輩は僕の謝罪を聞きたいわけじゃない。

 ——言葉は、いつでも正しく選んで使いましょう。

 もう転職した先輩コピーライターの言葉を思い出す。あの人の深くて身体に響く声が、頭の中でぐわんと鳴ったようだった。

 言葉を正しく選ぶことが僕たちの仕事だ。丹念に選び抜かれた言葉が生活にもにじみでるくらいに、言葉を「生きる」べきだ。
 それなのに僕は「ありがとうございます」ではなく「すみません」と言う。そんな凡ミスをする。そして清水先輩に、反応に困った顔をさせてしまう。

 ——謝罪は戦略的に。謝罪を武器として使ってください。必要ないところで小出しにしないで。

 ディレクターの加藤さんに言われたことも思い出す。

 僕は……コピーライターになるんだから、自分の言葉一つひとつを選んで生きていかなければならないのに。
 これ以上うじうじした態度を見せるのは、社会人らしくない。

「ありがとうございます!」

 はっきり言って、軽く頭を下げて、頑張って口角を持ち上げて笑顔を作った。清水は安心した笑顔を見せた。

「誰にでも苦手な人はいるからさ」

 清水は梓の肩をポンと叩いて、デスクに戻る。
 梓にとって、秋山は「苦手な人」ではなく「トラウマ」だ。たぶん清水はそれを察している。でもあえて、梓との距離感を踏まえて「苦手な人」という言い方を選んだ。
 きっとそうだ。先輩なりの気づかいなんだ、と梓は思う。

 梓は一人になると、またしゅんとした表情に戻った。僕も、今の清水さんみたいに言葉を選ばなきゃいけないのに。曇った顔で機械作業のようにパソコンを開く。

 秋山久嗣ひさつぐ。カメラマン。梓の元恋人で、現在は梓のトラウマ。

 11時から清水と面談した。「言葉を選んで話せなかった」という悩みも打ち明け、清水は笑って励ましてくれた。
 秋山とのエンカウントは回避できた。清水さんのおかげだ。いつもこうやって助けてくれる。梓は先輩・清水への尊敬と憧れを強めていく。

 そして午後、パソコンの通知音が鳴った。
 ポップアップした通知に表示された文字列。梓の頭からサーッと血が下がっていった。

「錫色先生、お返事いただきましたー!」
「打ち合わせは木金どっちかの14時で調整しましょう。清水くん、木曜14:30の予定って動かせそうですかー?」

 グループチャットに、オファーの進展を祝う拍手のリアクションが飛び交う。クリエイターとの打ち合わせに向け、着々と調整が進む。
 僕は、馬鹿だ。
 プロジェクトに錫色 揺先生を強く推薦したのは梓だった。そのとき錫色先生が、疎遠な旧友だなんて知りもしなかった。
 そこまでは仕方ない。その先を考えて、梓の頬がカーッと熱くなる。

 自社からのオファー中なのを綺麗さっぱり忘れて、錫色先生、すなわち遥二と関係を結んで、それからあんな、逃げるように遥二を置き去りにして……!!

 まずい。まずい。冷や汗が止まらない。口がカラカラで飲み込む唾液も湧いてこない。へろへろとディレクターのデスクへ向かったけれど、その動きは関節の錆びたブリキの人形みたいだったかもしれない。
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