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18. やっと思い出したの?
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帰りの電車も最初は混み合ったが、一駅ごとに人が減り、二人並んで座ることができた。遥二の降りる駅が近づく。でも。
——一日でも、一晩でもいいから、「梓の恋人」だった思い出が欲しい!!
だったら、「恋人の夜」を過ごしたい。
でも梓は、明日朝から旅行に行くんだもんな……。
そわ、と身体を揺らして、梓の反応をうかがう。梓の眠そうな目が、遥二の方を見上げる。
「眠い?」
「ちょっとね」
「家まで行っていい? 長居しないから、少しだけ『恋人』やりたい」
「うん。家に来てって言おうと思ってた」
恋人二人は目を合わせて、くすぐったそうに笑い合った。
そのとき車両が大きく揺れた。
「あっ!!」
向かいに座っていた女性が声を上げる。手に持っていたアイスコーヒーのカップを床に落としてしまったのだ。焦ってティッシュを取り出して床を拭く。
遥二と梓も同じタイミングでトートバッグに手を突っ込んだ。一瞬顔を見合わせて、それから二人はティッシュを探し出し、床を拭くのを手伝う。
アイスコーヒーの量に対して、3人分のティッシュではあまりにも微力だった。それを見た周囲の人々もぱらぱらと拭けるものを持ち寄ってきた。
最後は車掌に任せて清掃は終わった。
遥二はハッとした顔で梓を眺めた。梓は切ないような、恥ずかしくてたまらないような、でも可笑しそうな顔でくしゃりと笑う。
「梓も、コーヒーこぼしたことあったよな」
「うん。正門前でね」
大学3年の冬だった。コーヒー片手に歩いていた梓は、縁石に思いっきりつまづきコーヒーを地面にぶちまけ、見事にすっころんだ。
幸い誰かにコーヒーがかかることはなかった。ただ、ほとんど口をつけていなかった大量のこれを何でどう拭いたものかと、一瞬呆然としてしまった。
「篠原! 大丈夫!?」
背後から大声が聞こえて、足音が駆け寄ってくる。声で遥二だと分かった。何よりもまず「恥ずかしい」が先に立って、梓は打ちつけて痛む身体をできるだけしゃっきりと起こした。
「あ、中島。恥ずかしいな~」
できるだけのんきな声を出そうとした。本当はなんだかとても凹んでぺしゃんこの心だったのだけど。
「手は!? すりむいた!?」
遥二は慌てて、でも丁寧に梓の両手を取って、手のひらを上に向けさせた。両手ともすりむいて血が滲んでいた。
「あ、でも大丈夫、コーヒー片付けないと」
梓は力の抜けた声で言った。自分が泣き出しそうな顔をしている自覚があった。転んだだけのことなのに。友人の優しさがまぶしかった。
そして、撃たれたように、恋に落ちた。
「ダメだよ! 菌が入るから。洗ってきて。おれがやっとく」
押し問答する気力もなくて、梓は一番近いトイレに駆け出した。手を洗うとひりひりと沁みた。
中島の手は、美を生み出す手で。
僕を心配してくれて、手を取ってくれて。
その手つきがとても丁寧で優しくて。
その手つきで僕に触ってほしいと思った。
そのあたたかい手を触らせてほしいと思った。
——恋しちゃった。
言い訳のしようのないキューピッドの矢だった。でも梓には全力を注ぎたいものがあった。就活だ。
遥二をひとりにしていることに気づいて、バタバタと駆け戻ると、遥二と守衛さん2人が雑巾を持ち出して地面に膝をついて拭いていた。
「申し訳ありません! 遅くなりました!」
できるだけ遥二と目を合わせないように、ぺこぺこ謝って守衛さんに笑って励まされて、遥二にもお礼は言ったけど逃げるようにその場を離れた。
いや、逃げたのだ。恋は就活に邪魔だから、遥二から逃げなければと思った。
落ち着きを取り戻した電車で、二人は顔を見合わせて笑う。
「あのとき初めて梓の手に触ったんだ」
「そう。それで僕は遥二が好きになっちゃった」
「あれがきっかけだったんだ!?」
「うん。それで逃げた。ごめんなさい」
少しうつむいた梓は、しょげてぺにょりと垂れた耳が見えるようだ。かわいくて仕方ない。
「ううん。今おれの恋人でいてくれるから全部オッケー」
遥二の言葉に、梓はくすぐったそうに幸福そうに笑う。
「だからおれ限定の手フェチなの?」
「そういうことです」
梓は恥ずかしそうに、少しむくれた顔をする。そんな表情も、かわいい。
「梓の泣きそうな顔も、昔見たことあると思ったんだよな……」
「うう……。やっぱり泣きそうだった?」
「うん。今思い出した」
「思い出しても言うなよ! 恥ずかしい」
抗議のセリフとは裏腹に、梓は遥二の肩に身を寄せ、身体を預ける。
コーヒーを拭いた手はべたついているから、遥二は梓の髪にちゅ、とキスをした。車内清掃に協力したんだから、車内でキスくらい許されるはずだ。
「ちょっと、恥ずかしいよ……」
愛しい恋人は、許してくれなかった。
——一日でも、一晩でもいいから、「梓の恋人」だった思い出が欲しい!!
だったら、「恋人の夜」を過ごしたい。
でも梓は、明日朝から旅行に行くんだもんな……。
そわ、と身体を揺らして、梓の反応をうかがう。梓の眠そうな目が、遥二の方を見上げる。
「眠い?」
「ちょっとね」
「家まで行っていい? 長居しないから、少しだけ『恋人』やりたい」
「うん。家に来てって言おうと思ってた」
恋人二人は目を合わせて、くすぐったそうに笑い合った。
そのとき車両が大きく揺れた。
「あっ!!」
向かいに座っていた女性が声を上げる。手に持っていたアイスコーヒーのカップを床に落としてしまったのだ。焦ってティッシュを取り出して床を拭く。
遥二と梓も同じタイミングでトートバッグに手を突っ込んだ。一瞬顔を見合わせて、それから二人はティッシュを探し出し、床を拭くのを手伝う。
アイスコーヒーの量に対して、3人分のティッシュではあまりにも微力だった。それを見た周囲の人々もぱらぱらと拭けるものを持ち寄ってきた。
最後は車掌に任せて清掃は終わった。
遥二はハッとした顔で梓を眺めた。梓は切ないような、恥ずかしくてたまらないような、でも可笑しそうな顔でくしゃりと笑う。
「梓も、コーヒーこぼしたことあったよな」
「うん。正門前でね」
大学3年の冬だった。コーヒー片手に歩いていた梓は、縁石に思いっきりつまづきコーヒーを地面にぶちまけ、見事にすっころんだ。
幸い誰かにコーヒーがかかることはなかった。ただ、ほとんど口をつけていなかった大量のこれを何でどう拭いたものかと、一瞬呆然としてしまった。
「篠原! 大丈夫!?」
背後から大声が聞こえて、足音が駆け寄ってくる。声で遥二だと分かった。何よりもまず「恥ずかしい」が先に立って、梓は打ちつけて痛む身体をできるだけしゃっきりと起こした。
「あ、中島。恥ずかしいな~」
できるだけのんきな声を出そうとした。本当はなんだかとても凹んでぺしゃんこの心だったのだけど。
「手は!? すりむいた!?」
遥二は慌てて、でも丁寧に梓の両手を取って、手のひらを上に向けさせた。両手ともすりむいて血が滲んでいた。
「あ、でも大丈夫、コーヒー片付けないと」
梓は力の抜けた声で言った。自分が泣き出しそうな顔をしている自覚があった。転んだだけのことなのに。友人の優しさがまぶしかった。
そして、撃たれたように、恋に落ちた。
「ダメだよ! 菌が入るから。洗ってきて。おれがやっとく」
押し問答する気力もなくて、梓は一番近いトイレに駆け出した。手を洗うとひりひりと沁みた。
中島の手は、美を生み出す手で。
僕を心配してくれて、手を取ってくれて。
その手つきがとても丁寧で優しくて。
その手つきで僕に触ってほしいと思った。
そのあたたかい手を触らせてほしいと思った。
——恋しちゃった。
言い訳のしようのないキューピッドの矢だった。でも梓には全力を注ぎたいものがあった。就活だ。
遥二をひとりにしていることに気づいて、バタバタと駆け戻ると、遥二と守衛さん2人が雑巾を持ち出して地面に膝をついて拭いていた。
「申し訳ありません! 遅くなりました!」
できるだけ遥二と目を合わせないように、ぺこぺこ謝って守衛さんに笑って励まされて、遥二にもお礼は言ったけど逃げるようにその場を離れた。
いや、逃げたのだ。恋は就活に邪魔だから、遥二から逃げなければと思った。
落ち着きを取り戻した電車で、二人は顔を見合わせて笑う。
「あのとき初めて梓の手に触ったんだ」
「そう。それで僕は遥二が好きになっちゃった」
「あれがきっかけだったんだ!?」
「うん。それで逃げた。ごめんなさい」
少しうつむいた梓は、しょげてぺにょりと垂れた耳が見えるようだ。かわいくて仕方ない。
「ううん。今おれの恋人でいてくれるから全部オッケー」
遥二の言葉に、梓はくすぐったそうに幸福そうに笑う。
「だからおれ限定の手フェチなの?」
「そういうことです」
梓は恥ずかしそうに、少しむくれた顔をする。そんな表情も、かわいい。
「梓の泣きそうな顔も、昔見たことあると思ったんだよな……」
「うう……。やっぱり泣きそうだった?」
「うん。今思い出した」
「思い出しても言うなよ! 恥ずかしい」
抗議のセリフとは裏腹に、梓は遥二の肩に身を寄せ、身体を預ける。
コーヒーを拭いた手はべたついているから、遥二は梓の髪にちゅ、とキスをした。車内清掃に協力したんだから、車内でキスくらい許されるはずだ。
「ちょっと、恥ずかしいよ……」
愛しい恋人は、許してくれなかった。
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