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第29話 嘘は涙となって
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キャンパスの片隅にある遺跡のように静かな建物は、階段を上る足跡が寂しく響く。水をしっかり切り損ねた傘から雫が待合室の床に溜まって、梅雨が遺跡の中に持ち込まれる。
ここで「伊藤さん」と呼び出されるとき、僕は自分の名前さえ化石になってしまってほろほろと崩れるような奇妙な気持ちになる。
「就職先が決まったってことは、僕は来年から就職して自分でお金を稼げるってことじゃないですか。美都里さんだってそれくらい分かってるはずです。学生結婚しちゃったひとたちだから、衣真くんが学生のうちでも同棲くらいは許してくれると思うんです。だからプロポーズしたいのに……気が重くて」
カウンセリング・ルームのデスクの上のフェイクグリーンに話しかける。カウンセラーが視界の隅でうなずいたけれど、僕は少しもそちらを見ない。見る気になれない。
「人生の大きな転換って、伊藤さんのライフステージが変わるのに合わせて転換しなければいけないわけではなくて、伊藤さんの心が向いたときに動かせばいいんじゃないでしょうか」
カウンセラーは穏やかに耳触りのいいことを言う。
「自分の心がプロポーズに向かないのが許せないんです。少しでも早くあのひとに指輪をはめてあげたいのに、実現できない自分が苦しくて自分を責めてしまって。あのひとには『自分の心に優しくしてあげて』って言うくせに、自分自身がそれを実践できないんです」
「恋人さんは、伊藤さんのアドバイスを聞いてくれますか?」
僕は躊躇して、フェイクグリーンの葉っぱの透けたところを眺めた。
「聞いて……くれない……思い出したように実践してくれることはあるけど僕が水を向けたときだけで、積極的にやってみようという気はなさそうです」
「……不躾な言い方になりますけど、恋人さんは伊藤さんにばかり歩み寄りを求めているように私には思えます」
「それは、僕が恋人に変わってほしくないからです! 『変わらないで』って僕がいつも言うからです! いつまでもまっすぐなままでいてほしい。星のような男の子でいてほしい。光と愛にあふれたひとでいてほしい。その裏に影が落ちて僕が苦しくても、表ではまぶしく光っているから彼に恋をしたんです!」
僕は口調を強めて言ったけれど、ずっとフェイクグリーンに話しかけていた。少しもカウンセラーの目を見て話したいと思えなかった。
目頭がじわ、と熱くなる。喉が絞られたように苦しくなる。もうすぐ僕は泣いてしまう。カウンセリング・ルームの薄い消毒液のにおいがツンと香る。
「僕は衣真くんと一緒にいて苦しいわけないんです! 幸せの方がずっとずっと大きい——」
僕の大きな嘘は身体のうちに収めておけなくなって、あたたかい水になって目からこぼれた。嘘を嘘として認めたくなかったから、涙をこぼす機械になって、ずっとティッシュで拭って泣いていた。
でも嘘は少しも薄まらなかった。一度自覚してしまえば、僕の心の窪んだところに火が灯り、りんりんと青く燃え始めた。熱くてあつくて、胸を引き裂いて水をぶっかけて消してしまいたかった。
「こういうふうに、今までの彼氏も衣真くんとの将来を考えられなくなって苦しくて別れ話をしたんでしょうね。僕は彼らのことをばかだと軽蔑していたけど、今ならよく分かります」
僕はもう黒縁の眼鏡をデスクに置いて、ずっと涙を拭っていた。
「伊藤さんは、恋人さんのまっすぐなところに恋をしたけれど、いつまでも同じところを好きでいなくてもいいかもしれませんよ」
僕はフェイクグリーンに水をやれるほど泣いていたけれど、カウンセラーの言葉に何も心が動かなかったわけではない。
「伊藤さんは、いま、恋人さんのどこが好きなんですか?」
「顔。顔です。仕草もかわいい。セクシャルなことに積極的なのも嬉しいです。清廉そうなのに積極的なのを僕だけが知っているっていう二面性が好きです。まあ、知ってるのは元彼たちもそうなんですけど……。元彼がたくさんいて、衣真くんが好きな友人もたくさんいて、彼らと屈託なく仲良くして僕を嫉妬させるのは嫌いです。衣真くんとお付き合いしているとどうしようもなく嫉妬の虫が騒いで、衣真くんはそんな僕を許さないから惨めで嫌です」
うつむいて膝の上で拳を握ってから、好きなところを訊かれていたのだと思い出した。
「好きなところ……。知的で、深くものごとを考えられるひとで尊敬しています。とにかく星のようなんです。知性と愛がぱちぱち光ってるんです。でもその愛を誰にでも分け与えるのは嫌いです。僕だけに注いでほしいのに」
「もしかしたら、伊藤さんは、初めは恋人さんのまっすぐなところに恋をしたけれど、いまはまっすぐなところに恋をしてはいないのかもしれませんね」
ひと粒だけ、流星のように、涙が頬をつたった。
ここで「伊藤さん」と呼び出されるとき、僕は自分の名前さえ化石になってしまってほろほろと崩れるような奇妙な気持ちになる。
「就職先が決まったってことは、僕は来年から就職して自分でお金を稼げるってことじゃないですか。美都里さんだってそれくらい分かってるはずです。学生結婚しちゃったひとたちだから、衣真くんが学生のうちでも同棲くらいは許してくれると思うんです。だからプロポーズしたいのに……気が重くて」
カウンセリング・ルームのデスクの上のフェイクグリーンに話しかける。カウンセラーが視界の隅でうなずいたけれど、僕は少しもそちらを見ない。見る気になれない。
「人生の大きな転換って、伊藤さんのライフステージが変わるのに合わせて転換しなければいけないわけではなくて、伊藤さんの心が向いたときに動かせばいいんじゃないでしょうか」
カウンセラーは穏やかに耳触りのいいことを言う。
「自分の心がプロポーズに向かないのが許せないんです。少しでも早くあのひとに指輪をはめてあげたいのに、実現できない自分が苦しくて自分を責めてしまって。あのひとには『自分の心に優しくしてあげて』って言うくせに、自分自身がそれを実践できないんです」
「恋人さんは、伊藤さんのアドバイスを聞いてくれますか?」
僕は躊躇して、フェイクグリーンの葉っぱの透けたところを眺めた。
「聞いて……くれない……思い出したように実践してくれることはあるけど僕が水を向けたときだけで、積極的にやってみようという気はなさそうです」
「……不躾な言い方になりますけど、恋人さんは伊藤さんにばかり歩み寄りを求めているように私には思えます」
「それは、僕が恋人に変わってほしくないからです! 『変わらないで』って僕がいつも言うからです! いつまでもまっすぐなままでいてほしい。星のような男の子でいてほしい。光と愛にあふれたひとでいてほしい。その裏に影が落ちて僕が苦しくても、表ではまぶしく光っているから彼に恋をしたんです!」
僕は口調を強めて言ったけれど、ずっとフェイクグリーンに話しかけていた。少しもカウンセラーの目を見て話したいと思えなかった。
目頭がじわ、と熱くなる。喉が絞られたように苦しくなる。もうすぐ僕は泣いてしまう。カウンセリング・ルームの薄い消毒液のにおいがツンと香る。
「僕は衣真くんと一緒にいて苦しいわけないんです! 幸せの方がずっとずっと大きい——」
僕の大きな嘘は身体のうちに収めておけなくなって、あたたかい水になって目からこぼれた。嘘を嘘として認めたくなかったから、涙をこぼす機械になって、ずっとティッシュで拭って泣いていた。
でも嘘は少しも薄まらなかった。一度自覚してしまえば、僕の心の窪んだところに火が灯り、りんりんと青く燃え始めた。熱くてあつくて、胸を引き裂いて水をぶっかけて消してしまいたかった。
「こういうふうに、今までの彼氏も衣真くんとの将来を考えられなくなって苦しくて別れ話をしたんでしょうね。僕は彼らのことをばかだと軽蔑していたけど、今ならよく分かります」
僕はもう黒縁の眼鏡をデスクに置いて、ずっと涙を拭っていた。
「伊藤さんは、恋人さんのまっすぐなところに恋をしたけれど、いつまでも同じところを好きでいなくてもいいかもしれませんよ」
僕はフェイクグリーンに水をやれるほど泣いていたけれど、カウンセラーの言葉に何も心が動かなかったわけではない。
「伊藤さんは、いま、恋人さんのどこが好きなんですか?」
「顔。顔です。仕草もかわいい。セクシャルなことに積極的なのも嬉しいです。清廉そうなのに積極的なのを僕だけが知っているっていう二面性が好きです。まあ、知ってるのは元彼たちもそうなんですけど……。元彼がたくさんいて、衣真くんが好きな友人もたくさんいて、彼らと屈託なく仲良くして僕を嫉妬させるのは嫌いです。衣真くんとお付き合いしているとどうしようもなく嫉妬の虫が騒いで、衣真くんはそんな僕を許さないから惨めで嫌です」
うつむいて膝の上で拳を握ってから、好きなところを訊かれていたのだと思い出した。
「好きなところ……。知的で、深くものごとを考えられるひとで尊敬しています。とにかく星のようなんです。知性と愛がぱちぱち光ってるんです。でもその愛を誰にでも分け与えるのは嫌いです。僕だけに注いでほしいのに」
「もしかしたら、伊藤さんは、初めは恋人さんのまっすぐなところに恋をしたけれど、いまはまっすぐなところに恋をしてはいないのかもしれませんね」
ひと粒だけ、流星のように、涙が頬をつたった。
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