デネブが死んだ

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 なぜ、喜びや楽しい事よりも、悲しみや苦しみを思い出す方が容易いのだろう。
 あの子を亡くして思い出の地で二度目の春を迎えた。
 一人で死ぬ勇気はなくて、ゆっくりと穏やかにその日を待っている。

 今日も、いつものようにあの子と走り回った庭を眺めていると、外が少しだけ騒がしい気がした。

「ねえ、マーサ、今日は何だか騒がしいみたいなんだけど」

 こちらに引っ込む時に、ついていくと聞かなかった侍女のマーサに声をかけると、思い出したような顔をして説明を始めた。

「あぁ、隣の屋敷に人が移り住むみたいですよ」

「そういえば、買い手が見つかったという話を聞いた気がするわ」

 マーサの説明を聞きながら、そういえばそんな事もあったな。と、ぼんやりとだが思い出した。

「若い男女みたいですよ」

「あら、そうなの」

 マーサの情報収集の速さには目を見張る物がある。さして興味もなかったので適当に返事を返した。
 どうやら、若い夫婦のようだ。

 きっと、長い間はいないですぐにいなくなるでしょう。
 勝手にそう決めつけていると、マーサが言いにくそうに口を開いた。

「お嬢様も、そろそろ」

 ……誰かを見つけろ。と、言いたいのだろう。いい加減聞き飽きてしまった。

「もう、いいのよ。疲れちゃった」

 かつて、愛した男の事を思い出しながら、苦笑い浮かべる。
 もう、あんな思いは懲り懲りだ。

「でも……!」

「婚姻しても相手が不誠実かもしれないわよ。あの人みたいに」

 どうせ種馬になるなら、金だけ持った地味な平民よりも、財産と爵位をもった美しい令嬢がいい。
 彼は私にそう言って、「手切れ金」を渡したのだ。

「……はい」

 マーサは思い出したのか、悲しそうな顔をしてそれ以上は何も言わなかった。

「この話はおしまい。ね?」

 おしまいと言いながら、私はかつての婚約者のことを思い出していた。

 2年前の夏の終わり、婚約者のローガンは私のところへと突然尋ねてくるなりこう切り出して来た。

「君には、悪いと思っているんだ。だけどすまない。彼女を愛してしまった」

 彼が、侯爵を継ぐ予定の令嬢と親密だという噂はよく聞いていた。
 夜会の度に、わざわざ教えてくれる親切な人がたくさんいたせいだ。
 ローガンの家は伯爵家で、あちらからの打診とはいえ子爵令嬢の私にそれを拒否する事はできない。

「承知しました」

「正直に言うとね。君と婚姻して金持ち平民になるよりも、資産も爵位も美貌も持ち合わせている令嬢と婚姻した方が旨味があるんだよ。わかってくれるよね」

 落ちぶれることがわかっていて、私の手を取るつもりはない。と言いたいのだろう。
 両親は、馬車の事故で亡くなり、家を継ぐ予定の弟は難病のせいで先は長くない。
 そう遠くない未来に、この家は食い物にされるだろう。

「でも、君には申し訳ないと思っているから、慰謝料は支払うよ。どうせ、誰かの食い物にされるのはわかっているが、誠意を見せないといけないからね。金をドブに捨てるような物だが、我慢しよう」

「結構です」

 にこやかな笑みを浮かべたローガンから出てくるのは、下衆極まりない言葉だった。
 必要ないと断るとローガンの顔から笑みが消えた。

「わからないかな?手切れ金だよ。僕の前に二度と現れないでくれ。病弱のいつ死ぬかわからない弟と田舎にでも引っ込めばいい。君がここにいるとね、僕たちが過ごしにくくなるんだ」

 田舎という言葉に、まだ健康だった頃の弟のアークと遊び回った小さな田舎の別荘のことを思い出す。
 海が見える小さな別荘だった。
 祖父が初めて買った場所らしく、屋敷は大切に管理されていていつも綺麗だった。

 ……あそこに行くのもいいかもしれない。

 楽しかった記憶しかないあそこなら、アークも穏やかな死を迎えられるはずだ。

「わかりました。二度と貴方達の前には現れません」

「わかってくれるなら、それでいい」

 私がそう返事をするとローガンは満足そうに頷いた。
 5年越しの婚約はローガンの浮気によって呆気なく終わった。

 もらった慰謝料は手元に置いておく事が嫌で、パトロンを探しているという平民の画家の何人かに渡した。
 有名になって欲しいという気持ちは全くなくて、悔いなく創作をして欲しい。という気持ちの方が強かった。
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