二度目の人生は魔王の嫁

七海あとり

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ヨハンという男

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『私が今から行う事に、目を瞑っていて下さい。ここには誰も来ていない。ギルバートに何を聞かれても、決して私の名を口にしてはいけませんよ』

 

ヨハンは客室の前で警備にあたっていた騎士達に、膨らんだ小袋を渡した。中身は金貨。所謂、賄賂だ。

ヨハンは重々しい扉を抜けて、静まり返った部屋に足を踏み入れた。ここにカルミア、という未来の王太妃がいるらしい。ヨハンの目的は一つだった。

ーーカルミアに命脈を保つ程度の毒を盛り、意識不明にさせる。



ヨハンの胸ポケットには、毒々しい深紫色の液体が入った小瓶があった。

魔国に咲くと言われているナーデリアの花から抽出した毒だ。宮廷薬剤師でさえその名を知っている者はいないだろう。一滴口に含めば、すぐに神経が蝕まれる猛毒だ。手足が震え、呂律が回らなくなる。徐々に意識が朦朧とし、半日も経たずに眠り姫のように深い眠りにつく。

この花は、作用こそ強いが、解毒剤を飲めばすぐに症状が治まるという特徴がある。交渉材料にするには最適の毒だ。

未来の妃にこの毒を飲ませる。そして解毒剤を交渉材料にして、ギルバートを揺する。これがヨハンの目的だった。

非道な手段だと分かっている。それこそ母親と同じ道を辿っている事も。

しかしギルバートが私を脅して王位を剥奪したように、どんな非道な手を使っても、必ず継承権を奪い取ってやる。そうヨハンは固く心に誓った。



『....反吐が出るな』



目が眩むほどの豪華絢爛な部屋。外交の要人を迎えるためのその部屋は、王国の権威を象徴するかのように贅の限りを尽くされている。

離れに追いやられた私の宮殿とは大違いだ。



ーー警備の関係上、王宮は国王陛下と王太子以外住むことが許されていない。継承権のない王子や王女、国王陛下の側室はそれぞれの宮殿を構え、そこで暮らしている。

本来、この場所には私が住まうはずだった。ギルバートは第二子。そもそも側室の子供で、王位を継承する権利はなかった。それなのに”あんな事”があったせいで、ギルバートに王位を譲る他なかった。



確かにあの男は聡明だ。現国王からの信頼も厚い。人を惹き付ける魅力も備わっていて、国民からの人気もある。

しかしあの男だけは未来の国王にしてはいけない。あの男は狂っている。底知れない闇を抱えていて、自身の欲のために平然と人を踊らせる。何よりもあいつはこの国を恨んでいる。国王に即位したら、破滅の道に導かれるのは間違いない。



ギルバートが執務から戻ってくる前に、カルミアという名の未来の妃に毒を飲ませて、早くこんな場所から立ち去ろう。

ヨハンは隅々まで視線を巡らせた。噂の妃はすぐに見つかった。白々とした陽光の差し込む窓辺のソファーで、呑気に寝息をたてていた。

その姿はさながら人に紛れた神の使いのようだった。


 

ヨハンの足音に気付いたカルミアは、瞼をゆっくりと上げ、ヨハンを見据えた。

 

『……誰?』

 

その瞬間、時が止まったかのような錯覚にヨハンは陥った。社交界には着飾った優美な女性が腐るほどいるが、ここまで美しい女性には会った事がない。体が凍りついたように動かない。視線を逸らす事が出来ない。

しかしヨハンはカルミアを見て違和感を覚えた。 



『(......男?)』



確かに少女のように髪は長く、中性的な顔立ちをしている。けれど胸は平らで、ズボンを履いている。声も女性にしては低い。

固まっているヨハンを見て、何かを悟ったように「あー」と気の抜けた声をカルミアは出した。罰の悪そうな顔をしている。

 

『...残念ながら、僕は男だよ。髪が長いからよく間違われるんだよね。信じられないって言うなら、証拠をお見せするけど』

『いいい、いいですから!!そのままで結構です』



シャツを脱ごうとするカルミアに、ヨハンは耳まで真っ赤にして狼狽えた。

所詮噂は噂だ。信憑性の欠片もない。

それにしてもなんて美しい少年なんだろう。性を超越した美に思わずヨハンは息を飲んだ。


 

『ギルバートに何か用?生憎だけど、ギルバートは執務中でここにはいないよ。帰ってくるのは、日が落ちた頃になると思うけど』

『ち、違う。わ、私は、ギルバート兄さんに用があってここに来たわけでは』

『...違うの?』

『貴方に一目会ってみたくて』

 

ヨハンはハッとした。気付いた時には口が勝手に動いていた。何を馬鹿な事を述べているんだ、とヨハンは自分を責め立てた。

 カルミアは可愛らしく首を傾げる。


 

『僕を知っているの?』

『え、ええ。王城中で噂になっていますよ。ギルバートが妃を迎えようとしているって』

『...噂は何処まで広がってる?国王の耳まで届いてないといいんだけど』

『使用人達の間だけです。まだ国王の耳には入ってませんが...。それも時間の問題だと思います』

 『...困ったなぁ』



カルミアは瞼を伏せ、ため息を吐いた。その表情は憂いに満ちている。

絵画を切り取ったような美しい光景に、思わずヨハンの心臓の拍動が煩くなる。

 

『それで、貴方は?』

『.....私は、ヨハンです。ヨハン・コロンビーナ。ギルバートの、腹違いの兄です』

『...兄』

 

カルミアは驚いたように目を丸くした。

慌てて立ち上がり、右胸に手を添えて、頭を下げる。

 

『無礼をお許しください、ヨハン様。僕の名前はカルミア・ロビンズ。スラム街で死にかけていたところをギルバート様に拾われ、この城に身を置いています』

 

彼の口からスラム街という単語が聞こえて、ヨハンは驚いた。

カルミアの佇まいはスラム街には相応しくない程、優雅だったからだ。その振る舞いからカルミアを位の高い貴族の令息だとヨハンは勘違いしていた。

 

『顔を上げてください』

 

ヨハンは諭すような口調で、カルミアに頭を上げさせた。

この国では身分の低い者が先に名乗らなければいけないというマナーがある。

ヨハンは胸の部分に十字の飾りがついた藍色のサーコートに袖を通していた。

この国の私兵が着ているコートと同じ物だ。ヨハンは騎士に扮していた。



王宮の裏口から侵入して、使用人が通らないルートを使って、客間に足を運んだとは言え、何処で誰が自分の姿を目撃しているか分からない。変装しておいて損はない。

カルミアは、騎士の姿に扮したヨハンを本物の騎士と勘違いしたのだろう。

 

『そもそも最初に名乗らない私が悪かったのですから、カルミアは気にしないで下さい。敬語も敬称も不要です』

『...ですが』

『いいのです!ヨハンと呼んでください。それにそんなに畏まらないで肩の力を抜いてください。何も取って食べたりしませんから』

 

ヨハンは必死だった。ーーギルバート以上の絆を、この少年と築くために。

彼の頭からは王位略奪なんて文字はすっかり消え去っていた。

 

カルミアは困ったように眉を下げて笑った。カルミアが笑う度、ヨハンの心臓の鼓動が痛いくらいに早まる。

 

『カルミア。少しの間でいいのです。私と世間話をしませんか?』

『...僕と話していても、楽しい事なんて一つもありませんよ。なんせ十五年間、外に出た事がない身なので』

『構いません。貴方の事を、教えてください』

 

我ながら歯が浮くほどの甘い台詞だ、とヨハンは思った。

カルミアは再び感触の良いソファーに腰を沈め、ポンポンと隣を叩いた。そこにはヨハンが座るスペースがある。座れ、という事だろうか。

ヨハンはカルミアの隣に収まると、カルミアに向き直った。


『わ、私は。』  

いざカルミアを目の前にすると、言葉を失うヨハン。絶世の美が、目と鼻の先にあるのだからそれも仕方ない。
――ヨハンは第一子として生まれ、幼少から次期国王として厳しく育てられた。
昼夜問わず王学や歴史、経済、政治、各国の文化に国の情勢。この国の国王になるために必要なありとあらゆる知識を身に着けた。
勿論、高度な学だけではない。王としての振る舞いや、喋り方に至るまで徹底的に学ばせられた。
常に冷静沈着で、物事を対処する優秀な王子。それが王宮内でのヨハンの評価だった。
そんなヨハンが我も忘れて、目の前の少年に翻弄されている。らしくない、とヨハンは思った。

『ヨハン、城下町には行った事がある?』
『...多少は。城外の偵察という名目で、変装して降り立つことも多いですから』
『美味しい食べ物がたくさんあるんだろ?僕、甘いものが好きなんだ。ギルバートは許してくれないけど、いつか洋菓子舗にも行ってみたいと思っている。ヨハンの一番のお薦めのお店を教えて』
『イディアという商工が営んでいる洋菓子舗が人気です。貴族向けの店で、値段も張ります。しかし連日長蛇の列で、チョコレート一つ入手するのが困難と言われています』
『へぇ。凄い人気だね。そのお店は、何が有名なの?』
『アーダルベルト王国特産の無花果を使ったケーキです』
『美味しそう。...いつか食べてみたいなぁ』
 
ヨハンは違和感を覚えた。行ってみたいと言いつつ、きっと叶わないだろう、と諦めきっているカルミアに。
『ギルバートに頼めばいいのではないですか?』
『…勿論、頼んだよ。でもまだ完全に火傷が癒えてないから駄目だって。ギルバートって本当に心配性だよね』
 
ははは、と苦笑いを溢すカルミアに、ヨハンは疑問を抱いた。

(火傷?)

ヨハンは細々とした体の隅々まで視線を巡らせた。見た所、火傷のような痕は見当たらない。
おそらく火傷が癒えてないからではない。カルミアを誰の目にも触れさせたくないから、外に出さないのだ。あの男の独占的は、人並外れているから。
 
『……貴方はそれでいいのですか?本当は分かっているんでしょう。その...、火傷が癒えてないなんて嘘だって事ぐらい』
『....仕方ないよ。僕を救ってくれた、ギルバートがそう願っているんだから』

 ヨハンはちくりと胸が傷んだ。それは嫉妬心から来るものだった。

仕方ない、と言ったカルミアの表情は、憂いに染まりながらも何処か幸せそうに見えたのだ。




 『貴方はギルバートの事が...』

『ん?』

『いいえ、なんでもありません』



言いかけた言葉をヨハンは飲んだ。フッっと息を吐くように笑う。



『今度城下町に下りた時に私が買ってきますよ。楽しみにしててください』

『本当?ありがとう!』

 

カルミアは嬉しくて堪らないと言った風に瞳を輝かせた。

ケーキ一つでここまで喜ぶなんて。まるで無垢な子供のようだ。

ヨハンは愛おしそうに目を細めた。



その会話を火種に、ヨハンとカルミアは、色々な事を話し合った。お互いの趣味や特技。過去の境遇から将来の夢まで。心地のいい時間は、流れの速い川のように過ぎ去った。

 

窓の外の景色は、いつの間にか夕暮れ色に染まっていた。強烈な茜色の光が、部屋の中に流れる。

 

『もうそろそろギルバートが帰ってくる頃だね』

 

カルミアは窓の外を見ながら、そう呟いた。

 ギルバート。その名前を聞いて、ヨハンは我に返った。

次期王太妃に毒を盛るはずが、何故この少年と呑気に話し込んでいるのだろう。

大丈夫。きっと今なら、まだ間に合う。執務室まで距離がある。まだギルバートは部屋には帰ってこないだろう。その間に湯を沸かして、茶を淹れて、知られないように毒を数滴垂らして飲ませればいい。



『カルミア、お茶にしましょう。ノーフェン産の珍しい茶葉が手に入ったんです。ティーポットとカップは何処ですか?淹れてきますよ』

『え、いいよ。王子様にお茶を淹れて貰うのは忍びないし。今、侍女を呼ぶから待ってて。』

『この茶葉は少し扱いが面倒なので、出来れば自分で淹れたいんです』

『...じゃあお言葉に甘えて。キャビネットの一番右。そこに入ってるよ』

『...』

『ヨハン?』



……体が動かない。冷や汗が額に滲み、首を絞められているみたいに息苦しくなる。

ヨハンは俯き、自身の膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。  

 

(...やっぱり出来ない。カルミアに毒を盛るなんて私には無理だ)



せっかく魔国からナーデリアの毒を仕入れてきたというのに。もうこの方法しかギルバートから王位を剥奪する方法がないというのに。

この少年に嫌われたくない。この少年が苦しんでいる姿は見たくない。そんな想いばかりが纏わりついて邪魔をする。



カルミアは心配そうにヨハンの顔を覗き込んだ。



『...真っ青だよ。やっぱりお茶はまた今度にしよう。具合悪いなら今日はもう帰った方がいいよ。紅茶なんて何時でも飲めるだろ?それにギルバートも戻ってくるし、』

『待ってカルミア。お願いがあるんです』



ヨハンは焦ったようにカルミアの言葉を遮った。

ヨハンの大きな手が、カルミアの細い手を包む。顔を上げたヨハンは、まるで怯えた子供のようだった。 




 ここにヨハンが来たとギルバートに知られるわけにはいかない。カルミアに会った事が漏れれば、間違いなくあの秘密が暴露される。あの女に溺愛していた国王の事だ。王族追放の令が出すかも知れない。

それにあの男の執着心の強さを考えれば、カルミアの自由がさらに拘束される事は間違いない。おそらく二度とカルミアと会えなくなるはずだ。それだけはなんとしてでも避けたい。


 

『私がここに来た事は、ギルバートには内密にして貰えませんか?城外にも知れ渡る程、私とギルバートは犬猿の仲なのです。許可もなくここに足を踏み入れた事をギルバートに知られれば、なんと言われるか分かったものではありません』


『...ごめん、それは出来ない。この部屋に訪れた者は、必ず報告するようにギルバートに言われてるから。黙っていれば、ギルバートを欺く事になってしまう』

『お願いします、カルミア』

 

ヨハンの手は、小刻みに震えている。

ヨハンのただならぬ様子にカルミアはふと疑問を抱いた。

何がそんなにヨハンを追いつめているのだろう、と。

命の恩人であるギルバートを裏切る事にカルミアは罪悪感を覚えたが、ヨハンを突き放す事も出来ない。


コクリと頷くと、ヨハンは安堵したような表情を浮かべた。

 

『……またここに来てもいいですか。私は貴女と、友達になりたい』


 

自分の身やカルミアの事を思えば、二度と会わない方がいいのだろう。しかしカルミアと会えなくなるのが名残惜しかった。自分の心に渦巻いているこの感情は、紛れもなく恋だ。どうやらカルミアを一目見て恋に落ちてしまったようだ。

しかしカルミアの心はギルバートに向いている。そしておそらくこれから先も自分に向く事はないだろう。それならばせめて、この少年の一番の友達になりたい。



『....どうしよう』



カルミアは独り言のようにそれだけ呟いて、何か考え込むように顔を下げた。キーンとした耳鳴りが聞こえる程の静寂に支配される。右胸で絶え間なく鳴り続ける心臓が痛い。

程なくして、カルミアはヨハンの手を握り返した。顔を上げたカルミアの口元は、照れているように綻んでいる。


 

『……もう僕達、友達だろ』

 

その瞬間、胸の中に温かい滴が垂れて広がっていくような感覚に陥った。頭の奥で大きく膨らんだ野望が、パンっと乾いた音を立てて破裂する。

もう王位継承なんてどうでもいい。そんなに欲しいのならギルバートにくれてやる。

何故自分はあれほどまでに王位継承に執着していたのか、ヨハンは分からなくなっていた。

ーー第一子という理由で、幼少の頃から次期国王だともてはやされてきた。

贔屓を受けたい国の要人が高価な贈り物を捧げられるのなんて日常茶飯事。

舞踏会に出れば王太妃の座を狙う令嬢に取り囲まれる。実の母親である王后でさえ、次期国王という理由で存分に甘やかされた。

でもそれは裏返せば、次期国王でない自分には何の価値がないという事だ。

その証拠にギルバートに王太子の座を奪われてからというものの、あんなに群がっていた人間が一人も残らず消えた。実の母親である王后さえも。

だからギルバートから王位を奪還しようと必死になった。



しかしこの少年に天秤をかければ、あれほどまでに望んでいた王位継承権なんて取るに足らない物だと気付いた。胸のポケットに納まっているナーデリアの毒は、王宮の焼却炉で燃やしてしまおう。

ヨハンは恥ずかしそうに頬を赤らめ、ぎこちなく頷いた。


 
それからヨハンとカルミアは密会を重ねた。ギルバートが執務で不在の間に、ヨハンは部屋に訪れて、他愛もない会話を繰り広げた。

いつしかヨハンとカルミアは、互いに心を許せる親友になっていた。

しかし万事には必ず綻びがある。そんな優しい時間が長く続くわけもなかった。

ついにギルバートに、気付かれてしまった
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