上 下
2 / 42
第一部 記憶喪失と竜の子

海辺の高級レストランにて

しおりを挟む

 青い空と蒼い海。碧の波と白の飛沫が寄せては返す浜辺を見下ろす、港に面したレンガの街。
 海辺を上がって砂浜を過りすぐに位置する、三階建てのお洒落なカフェレストラン。此処が俺の現在地。

 人々がごちそうを前に談笑するテラスの上、手摺りの向こうには古い西洋風の建物が幾重にも重なってずっと向こうの果てまで続いている。
 ぼうっと景色を眺めながら、これまでのことを思い返そうとすると頭の中が小さく軋んだ。

「……先生? だいじょうぶ? さっきから変だよ? お腹いたいの?」

 俺は自分の対側に少女がいたことをすっかり忘れていた。ハッとして視線を合わせ、近づいた顔に向き合う。

「まぁ、しょうがないか。何も思い出せないんだもんね……」

 心配そうに俺を覗いていた顔が困ったように眉を下げそばから離れる。
 少女は、自分の尾を邪魔くさそうに横に垂らし椅子を引いて座り席につき直した。
 
 ――――――尾。
 そう表現したとおり少女には尾があった。それも犬猫のような愛玩動物とは違った、硬い鱗が生える大きな尖ったもの。彼女のしなやかで儚い体躯に不似合いな白いトカゲの尻尾は、信じがたいが紛れもなく彼女の一部である。

 その証拠に彼女が立ち上がってこちらに身を乗り出してもついてくるし、今のように座っても横に避けさせる動作が必要になる。

 少女の身体的特徴はそれだけではなく、絹糸のような白く柔らかい髪の後ろから頬の横にはこれもまたアクセサリーとしては異様な、牛か山羊が持つような角が生えていた。

 食事の前に妨げにならないようにと、彼女が髪を束ねる。
腰まであった長い髪が持ち上げられ、今度は腰の位置に蝙蝠のような黒い羽根がさがっているのが見えた。
 尾よりは邪魔になるようなものでもなく、細い体のラインに沿うように付いている。

 尾に角、羽根。彼女の体の異質な雰囲気を見ると、改めて彼女が普通の女の子でないことを感じさせられ、

「ごめんな。ストランジェット……」

 意図せず怯んだような声で小さな返事が漏れる。

「いいのいいの! これからボクが思い出させてあげるから」

 無邪気な声で俺を励ます少女。ストランジェットはついさっき聞いた彼女の名前。
 何がなんだかわからないまま彼女に連れられて来て、

(いや、連れて来られたんだろうか……? 俺は最初からここにいた……?)

 彼女の身体や周りの景色を観察することに頭を使いっぱなしだったからか、ようやっとその名前を口に出して呼べた。
 すると彼女は紫の大きな瞳を輝かせてうんうん頷き、目の前に置かれたメニュー表を掴んで聞いた。

「それよりさ、本当に何を食べてもいいの?」

「ああ。勿論だよ。せっかく再会したんだから、お祝いだ」

「えへへ、ありがとう先生。あと、ボクのことはスーでいいよ。前みたいにさ」

 彼女、スーの頷きに促されるように俺も頷く。体についた尾や角の不思議なパーツはともかく、笑顔はかわいい。
 よく見なければまだ十代の初めか半ばかそのくらいのただの少女。
 だからこそ俺は目の前の彼女を警戒せざるを得なかった。

 とにかく、人間としては体の作りが難解なのだ。しかし、所作は年頃の少女そのものであって、自分が警戒しているのに対し、スーは何ひとつこちらを疑ってはこない。それどころか俺のことを「先生」などと呼び、ずっと心配してくれている。
 
 俺は一つずつ、彼女との対話で得られる情報を頼りに会話を進めていくしかない。自分のことを思い出そうとすれば頭が軋むように痛くなるし、おそらくスーは俺よりも俺のことを知っているはずだ。

「それじゃあボクはフルーツののったこのパンケーキがいいなぁ。三段重ねのアイス付き! 先生は? コーヒーでいいの?」

「うん。俺はコーヒーでいいや」

 メニュー表の文字の羅列を指さしてこちらに見せるスーに相槌を打つ。
 何が書いてあるかまでは頭に入ってこなかったが、我ながらスムーズに会話できている気がする。と、そのタイミングでスーの頭の上に疑問符が浮かんだ。

「うん? 俺……? 先生って自分のこと、俺って言ってたんだっけ?」

 しまった。そう思った瞬間、頭がぐらつくような感覚が来た。首の後ろが冷やっとして。

「記憶喪失って大変だね。自分の一人称もわかんなくなっちゃうのか……。まぁいいや。先生は、ミルクはいっぱいでお砂糖は少なめだったよね。すみませーん、注文いいですかー?」

 スーが純粋で助かった。間髪入るか入らないかすぐに次の自己解釈で一人納得した彼女はウェイターを呼んだ。
 想像していたとおり、彼女は俺のことを俺よりも遥かに知っているという確信に繋がる気遣いを添えて。

 海を一望できるレストランは現実から逃避できる場所としてこの地の人々に愛されているのだろう。少し耳を澄ませば、上品な女性客複数の笑い声が聞こえた。
 スーの肩越しに見えるあちらの席では男女が仲良く寄り添い、はにかむようにして照れている男性のほうがこのレストランを連れの女性との特別な場所にしようと計画してきた様子がうかがえる。人物観察の場所としてはこれ以上ないくらいに飽きない場所だと思った。

 それもそのはず、暮らしぶりはもとより住人たちの身なりも俺の目を奪う者ばかりだった。
 スーには尾や角があり羽根が生えている。それはさっき自分でも認識したが、この世界の住人にすれば当然のことなのかもしれない。
 
 隣のテーブルについている家族連れは母親は少し良い生地の服を着ているごく普通の女性だが、おとなしく座っている子供たちは母親似の栗毛の間から小さな三角耳を生やしていたし、三人ともすべてが同じ顔と同じ動作をするものだった。

 一家の大黒柱であろう父親はというと、立派なひげを蓄えてスーツを着ているが下半身は魚のそれだった。あれはいったい立ち上がるにはどうするのだろう。
 先ほど注文をとりにきたウェイターでさえ人間の足で歩いてこそいるものの頭部は長い毛で覆われた犬そのものだった。

 料理に毛が混ざってしまうのではないかと不安になったが、周囲の者はそう思ったことはないのだろうか。はたまた、思ってはいるけれど言わない暗黙のルールでもあるのか。人種差別になるのか。そもそも人種という呼び方でいいのか。

 あの女性は魚との間にどうやって子供を授かったのか。これからあの家族に何の料理が運ばれてくるのか。奥さんは魚料理は食べるのか。
 もし食べるとすればそれは旦那を意識してか。意識せずにか。どちらなのだろう。
 一家は全員テラスの下に見えている港を使って海に還るのか。エラ呼吸ではないのか。

 だめだ。際限がない。考えれば考えるほど解らなくなってくる。
 知りたいことと知らなくてもいいことの判断が曖昧にならないうちに、ひとまずは身近な人物から情報を引き出していかねば。

「なぁ、スー。どうしてスーには角が生えてるんだ?」

 俺はスーと出会ってからこの数十分。意を決してずっと疑問に思っていたことを問いかける。

「どうしてって、それはボクがドラゴンだからじゃない」

 俺の質問にさも当たり前のことを聞かれたと、スーはきょとんとして答えた。
 なるほど。俺は自分を納得させるまで時間がかかるタイプだったのだろうか。
 そう言われても空想上の生き物だということしか頭に入ってこない。

「竜のことも忘れちゃったの? そんなの寂しいよぉ。先生……」

「ごめんな」

 謝ってばかりだが仕方がない。それを理解してくれてはいるのだろうが、スーは本当に寂しそうに語気を下げた。

「いいよ。ちょっとずつ、思い出せるようにボクも協力するから」

 慰めるような言葉のあと、それまでの悲しそうな表情をパッと切り替え急に顔をあげ、

「あのね、ボクたち竜はとっても頭が良くて、とっても頑丈で強くて、おっきくて、空も飛べて火も吐けてすんごくお強いんです! この世界の神様に一番近いのもボクたち竜族! 沈着冷静で魔法も上手に扱えるから、普段はこうやって得意な魔法を使って仮の姿で世を忍んで暮らしてます!」

 勢いのまま早口で奇抜な自己紹介。頭がいいというわりに同じことを何度か言ったし、興奮してまるで冷静なんかじゃないじゃないか。

「なんだそれ」

 見掛けも言動も突っ込みだらけのスーに俺は思わず「ぷっ」と噴き出して笑ってしまった。

「あっ。どうして笑うの?! 先生ひどくない?」

「わるいわるい。でも、あまりにも言ってることとスーが正反対だったからおかしくって」

「反対なんかじゃないよ! ボクも立派な竜なんだからね!」

 乗り出して怒るスーに、「わかったわかった」と彼女を落ち着かせる。
 彼女自身は本気で言っていたのだろう。それは短時間の付き合いの中で知った彼女の純粋さのお陰でも気付けたけれど、何故だかこのやり取りには懐かしいような気持ちにさせられた。

「ところでさ、先生こそ何で角が生えてるの? 先生は人間だよね?」

「えっ?」

 予期せぬ疑問を含んだ彼女の切り返しに俺は初めて自分の顔を触った。顔じゃない。正確には頭の上。片側だけ。左の耳のすぐ上。

 髪を掻くように輪郭をなぞると指に硬いものが当たった。

しおりを挟む

処理中です...