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第二章 アリスは不思議の国にて待つ

第十二話 すべてはこの日のために(3)

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「……う」

 その映像にベアトリスは思わずよろめいた。
 そのよろめきの理由もアルフレッドは感じ取れていた。
 わずかに残った過去の自分と、今の作られた自分がぶつかり合っているのだ。
 しかしそれも多勢に無勢であった。
 ベアトリスの頭に棲みついているそれは、脳の全体に根を張っていた。
 まるでクモの巣のように広がって包んでいた。
 ゆえに、

「……」

 ベアトリスはすぐに『作られたベアトリス』に戻った。

(アルフレッド……)

 その悲しい変化に、アリスは思わず慰めの声をかけた。
 アルフレッドが何を期待して時間を稼いでいるのか、その理由をアリスも理解しかけていた。
 話し合いからかつてのベアトリスを呼び起こし、頭の中に棲んでいるアレに抵抗させるつもりなのだろう。
 だが、それを期待するには、両者の力関係はあまりにも大きすぎるように見えた。
 だからアリスは、

(アルフレッド、残念だけど彼女はもう……)

 残酷な現実を言葉にした。
 直後、その言葉が正しいことを証明するかのように、ベアトリスはさらに変わった。
 頭の中に棲んでいるアレが過去のベアトリスを完全に殺しにかかったのだ。
 その作業はすぐに終わった。抵抗など出来なかった。
 そして過去を完全に捨てたベアトリスは口を開いた。

「話し合いに意味は無いわ、アルフレッド」

 その口調は感情が薄く、まるで機械の音のようであった。

「わたし達の仲間になるか、ここで死ぬか、二つに一つよ」

 恐ろしく冷たい言葉。
 もはや打つ手は無い、アリスにはそう思えた。
 だが、アルフレッドは違った。
 アルフレッドは首を振って口を開いた。

「いいや、それは違うよベアトリス。ぎりぎりだけど間に合った」

 何が、聞かれるよりも早くアルフレッドは答えた。

「必要な情報も、出来れば欲しかった情報も全部手に入った。こいつのおかげでね」

 言いながらアルフレッドは右手からそれを出して見せた。
 火の粉のような小さな精霊。
 それはバークの精霊であった。
 手を握ったあの時、バークはアルフレッドに精霊を渡したのだ。
 だからアルフレッドの心はバークに対しての感謝の念で埋まっていた。
 本当にありがとう、バーク。あなたがこの精霊をゆずってくれていなかったら、どうにもならなかったかもしれない。
 バークはこいつの「戦闘における使い方」も教えてくれた。
 内部で燃焼させなければ火の粉のようにはならず、隠密行動が容易になるのだ。
 この精霊はその小ささゆえに発する波も小さい。
 さらに、虫単位に分裂してさらに小さくなれる。
 その状態では「お前でも感知できない。実際に試したから間違い無い」と、バークは自信満々の声で教えてくれた。
 だからこっそり写す時間があった。
 実は、アリスへの回答の際に示した図面もブラフ。
 あの時点でかつてのベアトリスの部分の写しはほぼ完成していた。あとは繋ぎ合わせるだけだった。
 心を隠せるアルフレッドならではの騙し技。アルフレッドは味方であるアリスも騙し、困惑させていたのだ。
 あの会話は、ベアトリスの中に棲んでいるアレを刺激して、その性能や反応速度を測るための嘘だったのだ。
 そしてアレが活発化してもバークの虫はバレなかった。
 ゆえにバークの虫はまだ使い道がある。
 アルフレッドの脳ではバークの虫への補給が不可能であり、すなわち時間制限がある。既に弱り始めているが、それでもまだ役に立つ。
 だからやることはあと一つだけだった。
 だからアルフレッドは声を上げた。

「やるぞアリス!」

 何を、というアリスの問いにアルフレッドは心の声を響かせた。
 過去のベアトリスに頼る手はもう潰された。
 しかし図面は手に入った。
 だからここからは力技で行く!
 そう心の中で叫んだ後、アルフレッドはその思いを声に出した。

「ベアトリスの頭からアレを取り除くぞ!」

 叫ぶと同時にアルフレッドは踏み込んだ。

   ◆◆◆

 その戦いの様子をバークは少し離れたところから精霊を使って覗き見ていた。
 そしてアルフレッドが渡した精霊を上手く使ったことに対し、

(お役に立てたようで嬉しいよ)

 バークは喜びの薄い笑みを浮かべていた。
 そんなバークの隣にはクラリスの姿もあった。
 しかしやはり得られる情報量はバークのほうが圧倒的。
 そして情報の共有はされていない。
 バークは自身の頭部を膜で覆って心を隠していた。
 そうしたほうがいいという確信がバークにはあった。
 万が一、自分の考えがベアトリスに感知されれば、その瞬間から状況はアルフレッドにとって不利なものになるかもしれない、そう確信していた。
 それほどにバークは自分の予想に自信があった。

「……」

 ゆえに、バークの笑みはすぐに消え、その表情は厳しいものにすぐに戻った。
 バークには確信があった。
 アルフレッドはロマンチストだからあの場所を選んだのでは無い。
 あの場所には独特の『特徴』がある。
 ベアトリスはその特徴を認識していない。忘れているのだろう。
 そしてその特徴はアルフレッドがベアトリスの脳を写したことと明らかに繋がっている。
 だから、アルフレッドは『あの時あんな質問をした』のだろう。
 だから、アルフレッドは『アレに過去のベアトリスを消させるように誘導した』のだろう。
 アルフレッドは『最初からベアトリスの残骸にアレをどうこう出来るとは思っていなかった』はずだ。誰が見ても脳内の戦力差は一目瞭然だ。試すまでも無い。
 ベアトリスの残骸が消えてくれたことでアルフレッドの狙いがバレる可能性は減った。
 いまのアルフレッドはベアトリスの中に棲んでいるアレがどういう判断を下して行動するのか、その予想も高い確率で的中できるようになっているのではないだろうか。
 しかしまだ危うい。何かしらの伏線を張って騙し続ける必要があるだろう。
 アルフレッドの同居人はそれらのことに気付いていない。アルフレッドの実力をまだ測れていない。
 この戦いでは同居人はアルフレッドの足を引っ張るだけになるかもしれない、そう思っていた。
 しかしアルフレッドはその同居人の無知さも上手く利用しているように見える。
 同居人を上手く芝居の舞台に乗せているように見える。
 だからバークは、

(まったく、お前は本当に良い役者だよ、アルフレッド)

 誰の心にも伝わらない静かな賞賛をアルフレッドに贈った。
 されど安心はまったくできない。
 最後の最後に最大の問題があるからだ。
 間違い無くアルフレッドは『試験運用は出来ていない』はずだ。『そんなことをすれば一発でばれてしまう、すべてが水の泡』だからだ。
 一発本番の危険な手段。
 もしかしたら、アルフレッドは出来ればその手は使いたくないと思っているのかもしれない。
 自身の精霊と同居人の援護だけでなんとかしたい、そう思っているかもしれない。

(……それは非常に難しいだろうな)

 バークは直後にその希望を否定した。
 バークはあの果実のことをよく知っているからだ。
 アルフレッドが何に挑戦しようとしているのか、その絶望を知っているからだ。
 アルフレッドも分かっているはず。
 それでもアルフレッドはなんとかしようとするかもしれない、ぎりぎりまで最後の手段に頼らないかもしれない、バークはそう思った。
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