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第六章 アランの力は遂に一つの頂点に

第四十一話 三つ葉葵の男(13)

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「!? ぐ、ああぁっ!」

 獲物をからめとる蜘蛛のように、糸を雲水の体に巻きつけていく。
 紫電が雲水の体に数え切れないほど走り、炸裂していく。

「ああ、ぐ、おおおぉ?!」

 悲鳴もままならぬほどに痙攣(けいれん)する雲水。
 装甲の上からでもその下にある肉が焼けているのが匂いでわかる。

「おおおおお雄雄ッ!」

 しかし雲水は粘りを見せた。
 鍔迫り合いを維持しながら、雲水は意識を水面に向けていた。
 これだけの惨事の中でも水面は静かであった。
 その水面には一つの像が完成しつつあった。
 雲水はこれに賭けていた。
 女はこちらが磁束の向きを反転させようとする意識を事前に察知し、それに合わせることでこの鍔迫り合いを維持している。しかし相手の心を写せれば、それを騙すことが可能になる。
 精巧に写す必要は無い。おぼろげでもいい。今の状況から脱出できさえすればそれでいい。
 そしてそれは、

(あと、少し……っッ!)

 で完成するはずであった。

「!?」

 しかし次の瞬間、雲水の目が見開かれた。
 その表情は明らかに驚きよりも絶望の色が濃かった。
 なぜなら、水面に写されつつあった像が、

(……消えた?!)

 しまったからだ。
 だが、雲水が絶望の念を抱いたのは写しが出来なかったことに対してでは無い。
 表面的な部分を単純に写しても無駄であることに気付いたからだ。
 そして、その事実に雲水が言葉を失いかけた瞬間、頭の中に声が響いた。

「悪いが、その技はもう対策済みだ」と。

 その言葉の意味を雲水は知った。だから絶望の念を抱いた。
 女はまた変わったのだ。
 しかし今回の変化は前のとは違う。
 少しだけなのだ。雲水が読み取ろうとした部分だけが組み替えられたのだ。
 雲水は女の中に「何人かいる」と考えていた。
 しかしそれは間違いだった。「何人かいる」のでは無い。この女は「何にでもなれる」のだ。シャロンから今の女に変わったように、全部入れ替えることも出来るし、今回のように一部だけ変えることも出来るのだ。
 今回は読み取ろうとした記憶の一部が入れ替えられた。女の趣味趣向や戦い方の癖が少し変わったのだ。
 新しく組み込まれたその記憶は、前後関係も時系列も不明な、「完全に別人のもの」のように見えた。
 そして重要なのは、その改造は女が自らの意思で行ったものでは無いということ。
 何かが強制的に介入したような気配があった。「神の見えざる手」のような何かが。
 しかし不思議なことに女の意識に混乱は無い。当然のように受け入れている。普通、自分の記憶が突然変われば戸惑うはずだ。
 このような変化に慣れているのだろうか? それとも、この小さな変化にも規則性があるのだろうか?
 分からない。情報が足りない。
 そして、ゆえに表面的な部分を写しても意味が無いのだ。写すべきは混沌の原理であり、その混沌を制御している何かなのだ。
 そして、気付いたことはもう一つある。
 シャロンが交代させられた理由だ。
 あの時、シャロンは混沌を針に乗せて放とうとしていた。
 だから交代させられたのだ。
 もしも、自分がその技を耐えるようなことがあれば、そして万が一、見切ることが出来たとしたら、それはあの混沌を理解するということであり、完全に写すことが可能になるからだ。それを恐れたからシャロンは退場させられたのだ。
 よって問題なのは、結局のところ、

(どうすれば……!)

 いいのかということだ。
 今のままでは写しは役に立たない。
 今の自分に何が出来る? 見鏡流の奥義を封じられた今の自分に出来ることなど――

「!」

 瞬間、雲水の水面に光明が差した。
 が、暗雲の隙間から差し込まれたその光は細く、頼りないものであった。
 こんな手に頼るべきなのかどうか分からなかったからだ。
 しかし、これしか無いようにも思えた。
 だから雲水はその光に手を伸ばそうとした。
 その次の瞬間、

「!?」

 雲水の片膝が崩れた。
 足に絡み付く糸の量が急に増えたからだ。
 このまま押し倒すつもりなのだろう。
 しかし自分はまだ粘れている。

(? ……いや、)

 粘れている、という表現に雲水は違和感を抱いた。
 その違和感の正体はすぐに分かった。
 彼と、ケビンの時と同じなのだ。
 女は終わらせようと思えばいつでも出来るはずなのだ。
 なのに死なない程度の電流を流すだけ、という中途半端なことをしている。自分がまだ立っていられるのは手加減されているからだ。
 女はこの状況でもまだ武器破壊を狙っている。だから慎重に、ゆっくりとこちらを追い詰めようとしている。
 しかしなぜ?

「それはな、」

 直後、雲水の心にまたも女の声が響いた。
 その声に雲水の水面は揺れた。
 察知したからだ。女が言おうとしていることを。
 その言葉の意味に、水面は乱れたのだ。
 そして、女はその乱れを楽しんでいるかのように、感情を込めて言葉の続きを水面に響かせた。

「お前が欲しくなったからだ」と。

 この混沌にお前を迎え入れたいのだと、女は正直に答えた。
 これに雲水の心は声を上げた。
 ならばなぜ、あの兵士にしたように殺さないのかと、その針で頭を貫かないのかと。肉体を破壊すればすぐに終わることだろうと。

「……」

 女はこの質問には答えなかった。

「……っ」

 その沈黙に、雲水は歯軋りすることしか出来なかった。
 この俺を、水鏡流をなめるな、と声を上げたかったが出来なかった。
 師範代の肩書きを持つ自分の技が、奥義が封じられているからだ。
 だが、まだ手はある。あるのだ。
 このような事態を想定した技が、奥義が通じない、水面に写せない相手に対抗するための技が!
 その名も、

(水鏡流奥義――)

 言いかけて、雲水は言葉を止めてしまった。
 水面に心を写す、という水鏡流の原点から離れすぎている技だからだ。
 これは新たな境地、その出発点に立つ技だ。新たな流派の基本となる異なる奥義なのだ。
 だから、雲水は「水鏡流」という部分を消して言い直すことにした。

「奥義――」

 新たな世界が雲水の中で開かれようとしていた。
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