英雄の番が名乗るまで

長野 雪

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09.宿屋にて

「あの、大丈夫ですか……?」
「大丈夫だ。大侵攻のときは、数刻しか寝ずに4、5日戦い続けたこともある。それに、急いだのは俺の理由だからな。むしろ、ユーリは大丈夫か?」
「私は抱き上げられていただけなので、大丈夫です」
「そうか、良かった」

 国境を越えてすぐの町で宿を取ったフィルは、部屋に入るなりベッドに横になった。宵の口だったが、夕食にパンとスープを提供してもらえたので、あとは寝るだけだ。
 ベッドに転がったのはむしろ精神的な疲労によるものだ。飛んでいる間中、抱き上げたユーリから香る甘い匂いにくらくらとして、いっそのこと襲いかかりたいという欲望を押しとどめていたのだから。だが、こうして心配されるというのは、なんだかくすぐったい。竜人は基本的に頑丈にできているので、幼い頃の記憶を手繰ってもこうして心配されるという経験はほとんどなかったのだ。

コンコン

 ノックの音に、フィルはがばっと跳ね起きる。

「何か?」
「お客様、湯はご入り用でしょうか?」
「あぁ、桶に2つ頼めるか」
「承知いたしました」

 宿の従業員の足音が遠ざかる。フィルの隣で「お湯……?」と首を傾げているユーリに、シャナの『世慣れていない』という発言が蘇る。

「今日も色々とあったことだし、顔や手足を拭いてさっぱりしたいだろう?」
「あぁ、そういう……」

 やはり、分かってはいなかったのだという事実に、フィルは彼女の生い立ちについてちゃんと教えて貰おうと決心する。あまり急速に距離を詰めるのもよくないとは思っていたが、逆に後回しにし過ぎて、面倒な問題が持ち上がるのもまずい。着ている服も見慣れないながら仕立ての良さそうなものに見えるし、どこぞの大店もしくは貴族のお嬢様が、護衛とはぐれたという可能性が高いのだ。

「なぁ……」
「あの……」

 間の悪いことに、ユーリも何かを尋ねたかったようで、二人の呼びかけは同じタイミングだった。

「先に聞かせてくれ、俺のは急ぎの話じゃない」
「え、でも、私もそこまで急用では……」
「いいから」
「はい」

 ユーリが口を開こうとしたとき、タイミング悪く「お湯でございます」と宿の女性が声を掛けてきた。応対に出たフィルが桶を受け取り、小銭を渡す。

「今、衝立ついたてを広げるから、その向こうで身体を拭いてくれ。俺もこっちで拭いているから」
「はい……」
「拭く布はあるか?」
「あ、それは大丈夫です」

 戸惑ったようにチラチラとフィルの方を何度も見たユーリだったが、結局何も言わずに衝立の向こう側へ入って行った。まさか覗くんじゃないかと疑われているとも知らず、フィルは豪快に服を脱ぐ。

「それで、話の続きだが」
「はい。お城でえっと、王様?と魔法使いの人に言われたことを、ちゃんと伝えておかないといけないのかな、と思ったので」
「二人に?」

 つい剣呑な声が出てしまったフィルは、慌てて声色を戻して「聞かせてもらえるか?」と先を促した。

「魔法使いの人が、私には魔術が効かないって言っていたんです」
「魔術が?」

 フィルは彼女の傍を離れる前に守護の術を掛けようとして失敗したことを思い出す。そのときは、空腹のユーリのためにと原因について考えることを後回しにしてしまったのだが。

(いや、待てよ……)

 そこでようやくフィルは気がついた。魔術が効かないと言ったということは、ユーリに対して魔術を掛けようとしていたのではないか、と。

「ユーリ、その前に魔法使いは何か言っていなかったか?」
「確か、杖を突きつけられたときに……国王の言うことに従え、とか、従属の魔術がどうとか、それを忘れろ、とか、言われた気がします」

 フィルは驚いて桶をひっくり返しそうになった。ユーリの言うことが確かなら、あの王はユーリをいいように扱おうとしていたことになる。おそらく、目的はフィルの方だろう。番である彼女を従わせることで、間接的にフィルを取り込もうとしたのだ。そして、もう一つ――――

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