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第七話『隻脚娼婦館』(前編)

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 朝起きて、近所の店にコーヒーを飲みに行く。そして二~三○分、のんびり過ごしてから一食目の飯を注文する。慌ただしいことは何ひとつない。勤め人だった頃とはまったく違う優雅な朝である。

 ただし、腰を据える場所は旅社一階の南京飯店だ。テーブルの鉄板は波をうっていて、安っぽいプラ製の椅子はどれもバランスが悪い。壁のポスターは油とヤニに塗れてセピア色に染まっている。

 側から見れば最下層の安食堂で、何が楽しくてそんな掃き溜めに巣食っているのか、不思議がられるに違いないが、もうすっかり馴染んでしまった。ありていに言えば、ここには自由がある。野放図で底なしの自由だ。

「あれ、朝に会うのは珍しくないですか」

「そうかもな。だいぶ時間に余裕ができたんだよ」

 昨日の朝も、ここで軍曹を見掛けた。朝と言っても午前十時前だが、角刈りの筋肉マンは、独りで奥のテーブルに座っていた。聞くと、朝練がなくなったのだという。

「今まで何やってたんだか。近所に射撃場があるなんて普通は思わないよな」

 軍曹はこれまで朝早く起きて、郊外のシューティング・レンジに通っていた。かなり離れた場所だ。観光客にも人気がある通称ワニ園。そこに併設された射撃場があって、週に三日前後の割合で通っていたらしい。

「近くて、それで安い」
 
 驚くことに、最寄りの警察署で拳銃が撃てるのだという。署内にある警官用の練習場が開放されていて、外国人も利用できる。悪徳警官の小遣い稼ぎではなく、市民向けの練習場だ。しかも銃弾一発あたりの値段がワニ園よりも安い…

「初日からさ、拳銃を買わないかって、しつこく言ってくるんだよ」

 中古の拳銃がお得価格で購入できる?

 いくらなんでも外国人旅行者が持っていて良いはずがない。軍曹がその辺りを聞くと、所持・携行許可証も同時に発行してくれるという。自由の度が過ぎる。やはり悪徳警官の罠にも思えるが、軍曹は本気で検討している感じだった。

「ただ、国外に持ち出すのは無理だろ。宿のほうで一時的に預かってくれるか聞いてみたけど、面倒なようで断られた」

 当たり前だ。軍曹はそろそろ出発の準備を始めると語る。目指す地はフランス。そこで傭兵部隊に参加する為、海外に出たのだ。前にも同じようなことを口走っていた気がする。経由地までの安い航空券が見つからないと嘆くが、それを言い訳にしているようにも思える。

 かく言う自分も、ビザの期限が迫っていて、一旦退去しなければならない。ドレモン先輩が教えてくれた国際バスは、盗難が相次ぐとの悪評が目立つ。いくら安くても泥棒夜行バスは避けたほうが賢明だ。
 
「イチバン、ヤスイ。アンゼン、ダイジョブ」

 夕方、タバコを買いに行った帰りにジューン・ホテル前でヌイと出会った。「どこへいく?」を意味する言葉は、この国では「ハロー」と同じ程度の便利な挨拶だ。特に他意はなく、気軽にそう呼び掛けたのだが、ヌイは生真面目に答えてくれた。安いバスの座席を予約しに行くのだという。

 近所に格安バスのチケット販売店があるらしい。聞き流せない有力なローカル情報だ。安宿の牢名主たちは知識をひけらかすくせに、こうした役に立つ情報を教えてくれない。

 ヌイは故郷に近い北部行きのバスを予約するようだが、俺が探している南部方面も取り扱っている模様だ。参考になればと思い、付いていくことにした。安宿街のアイドル様と親密になれるかも知れないチャンスで、若干の下心もあったが、話を聞くとタニマチの毒蝮と一緒に旅行するのだという。がっかりだ。

「タカイ、タバコ。アナタ、マヌケ」

 俺が持つタバコの箱を見て、ヌイが笑った。ワンカートンを雑貨屋で買うのは素人らしい。裏路地には闇タバコ屋があって、地元民はそこでしか買わないのだという。またもや耳寄りな情報である。お仲間のスモーカー連中に上から目線で物を言える格好のネタで、これを逃す手はない。

 細い路地を縫って、軽快に歩くヌイに見惚れた。いわゆるホットパンツにサンダル履き。日本ではまず考えられない布面積の小ささだ。この国の若い女性の普段着で、夕暮れ間近の少し涼しい時間帯になると、そんな格好の娘っ子が一斉に市場に出没する。

「なにも聞かず、外国人でも売ってくれるのか…」 
 
 闇タバコ屋は卸業者のようで、様々な商品の箱が山積みになっていた。化粧品に洗剤、ひげ剃りに菓子類。なんでも屋の様相だ。タバコはワンカートン買えば、ひと箱分安くなる程度だが、定価販売の雑貨屋からほんの少し歩くだけの距離にある。この街では、常に闇が隣接しているのだ。

「ココ」

 ヌイが入ったのは料理店だった。明らかに旅行代理店ではない。チャイナ・タウンの他の飯屋とは雰囲気が異なり、奥にはカラオケ用の機材が置かれている。

 レジスターの横に立つ女と一言二言会話し、ヌイが紙に名前を書き込む。それがバスの予約表だという。座席数は十席に満たない。詳しく聞くと、通常のバスではなく、小型のバンのようだ。そして南方面は取り扱っていない。無駄足だった。

 用件を済ますやヌイは足早に立ち去って、俺はその場に独り取り残された。迷路のようなチャイナ・タウンの見知らぬ路地裏の奥。迷ったと言っても狭いエリアである。夕焼け空が広がる方向に行けば、大通りに出られるはずだ。
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