TEM†PEST

Nagato Yuki

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Mov.28 悪霧

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「――よッしゃあああッッ!」

 コの字型に並ぶ黒レザーソファから赤茶のウルフヘアを躍らせて立ち上がり、野卑なガッツポーズを決める韓服姿のキム――その前に浮かぶ3Dのスロットマシンがペイラインに『7』をそろえて音と光とでお祭り騒ぎし、リール上の画面に映る闘技場で鬼面を付けたマッチョな怪物が西部劇のガンマン風キャラをめちゃくちゃにぶん殴り、原形をとどめないくらいボコボコにしてノックアウトする。
 〈スロット・ファイターげき〉――ギャンブルゲームアプリ『ギャンブルどっく』で遊べる、スロットと対戦格闘ゲームがミックスされた、最大4人対戦可能なゲーム――

「おおっ! ジャックポットっスね!」

 もろ肌を脱いで朱のチョゴリをぶら下げ、ソファ横でボクシングスタンドをドッ、ドッと殴って汗を流していたチュ・スオがこぶしを止め、ゲームに参加しているオ・ムミョンが肩を揺らして「デュフフフゥ~」といやらしく笑う。一方、キムとオに挟まれて座るユン・ハジンとイ・ジソンは、株価大暴落に見舞われた個人投資家然とした顔でスロットマシン下部に表示されているスズメの涙ほどの残ポイント額――本日日中狩りで稼いだ残りをぼう然と見つめていた。

「おいおい、ユーン!」

 ひん曲がった口で笑うキムが隣――ユンの肩にガッと手を回し、赤ベストと朱のチョゴリをしわ立たせながらグイッと抱き寄せて無遠慮に涙目をのぞき込む。

「――相変わらず弱ェなあ! 銃奏官じゅうそうかんブライ・ウェスタンなんて強キャラ使ってるくせによ~」
「ホントっスよね! まったくだらしねェ!」
「デュフフゥ~」

 小馬鹿にし、はやし立てるチュとオ。彼等とキムとでシェアハウスする赤い瓦屋根の2階建て住居――通称〈赤瓦台せきがだい〉1階、三流クラブチックなリビングダイニングで主に夜間頻繁に催される『スロ・ファイ対戦』は、キムたちトリオが他のコリア・トンジョクメンバーからポイントを奪う機会。下手に勝ったらどうなるかを考えると、ユンたちはわざと負けるしかなかった。

「――心配するな! ポイントなら貸してやるからよッ! 利子はちょーっとばかり高いけどな!――おい、アンパン、じゃなくてイ・ジソン! お前もな」
「デュフフ、アンパン! デュフフフッ!」

 色の悪いアンパン顔をあざ笑ったオが前のローテーブル上の皿に盛られた、ミルクシロップがかかったフライドポテトらしきものを二つ三つつまみ、ポイと口に放り込んでにちゃにちゃ咀嚼そしゃくすると、ユンとイが顔色をいっそう悪くして目を背け、耳を塞ぎたそうな素振りを見せる。
 それはフライドポテトなどではなく、の幼虫を揚げしたもの。
 おぞましいスイーツに舌鼓したづつみを打ちつつオが絵柄をそろえると、リール上の画面でネコ耳、ブロンドの振袖ふりそで少女がやいばのゆるキャラ――ヤイバんをナックルダスターで思いっきり殴り付ける。

「デュフフ、カキツバタ・ユイユちゃん、メラかわゆ~い♡ この娘に乱暴するヤツは、脳みそかき出してミミズあんみつにかけてなめなめしてやる! デュフフ~!」

 ろくに反撃もしないままヤイバんがノックアウトされ、ベットされていたイ・ジソンのポイントがゼロになる。そしてタイムリミットを迎え、1位キム、2位オ……という順位がそれぞれの獲得ポイントと一緒に表示された。

「ふう、どれどれ……」

 むんむん汗臭いチュが、ソファ越しに3Dのスロット台をのぞいていく。

「――さすがキム兄貴、スゲーっスね! ムミョンもやるじゃんかよ。――それに比べて、お前らはマジだらしねえなあ!」

 うなだれるユンとイ。両名はそろそろ解放してもらえないだろうかと、ご機嫌なキムをうかがった。

「よぉし! それじゃ、もう一勝負するかあ!」
「ええっ?」

 思わず声に出してしまったユンを、キムがじろっとにらむ。

「何だ、『ええっ?』てのは?」
「デュフフ、嬉しくてたまらないんですよ、兄貴」
「い、いえ、あの……ぼ、ぼく、もうポイントが……」
「ポイント? ポイントなら、貸してやるって言ってるだろうが」
「で、でも……ぼく、これ以上しゃくポイントが増えるのは……シャイロック金融からも限度額一杯借りてるし……」
「しみったれたこと言ってんなよ、ユ~ン。男ならガッツリ借りて、ガツンと勝負だろ!――なあ?」
「もちろんっス、兄貴の言う通りっス!」
「デュフフ~」
「あ、あの、す、すみません」おずおずと口を挟むイ。「もう遅いですし、そろそろ帰らないと……僕、明日も狩りなので……」
「ああ? 夜はまだこれからだろうが! しかも、家は赤瓦台のすぐそばだろ! 遠距離通勤のリーマンオヤジみてえなこと言ってんじゃねえよ!」

 怒鳴られてイはすくみ、うつむいて下唇をかんだ。キムが言うようにイ・ジソンメンバーの家は赤瓦台を囲んで立ち、さらにその周りを高さ2メートルの外忍びのフェンスがぐるっと囲んでいる。遺跡北端にあるこの集落は、コリア・トンジョク以外のメンバーから俗にコリア・ヴィレッジと呼ばれていた。

「――ふん、まったくノリの悪いアンパンだな。お前もクソ犬の仲間にしてやろうか?」
「えッ? そっ、それは、あ、あの、すっ、すみませんでしたッ! やらせて下さい! お付き合いしますからッ!」
「はは、めっちゃビビってるっスよ、こいつ」
「ビビるアンパン~ デュフフ~」
「ふふん」

 キムは鼻で嘲笑い、朱の膝をぴったり閉じて身を縮めているユンに「お前も、もちろんやるよな?」とドスを利かせた。

「……は、はい……」
「ようし、それでこそコリア・トンジョクの一員だ。それによ、今夜は調査隊が逃げ帰って来て大騒ぎになってるんだ。こんな熱い夜に寝ていられるかよ」

 言い終わったちょうどそのとき、コネクトがテクノポップなコール音を鳴らして着信を知らせる。キムが横柄に応答すると、貧相な白いパジチョゴリ姿のクォンが薄笑いをたたえてウインドウに映る。

『キム族長、報告です。あのですね――』
「おい、クソ犬。お前は、やっぱり犬野郎だな」
『はい?』
「礼儀がなってないって言ってるんだ。何勝手に話し始めてるんだ? こっちの都合はお構いなしか?」
「デュフフ~ クソ犬だからね、親犬からはワンワンとしか言われてないんだろ」
「ははっ、ウケるぜ!――確かにこいつはクソ犬っスもんね、兄貴」
「ああ。畜生だから、まともなしつけなんてされてないんだろうな」
『あはは、これは失礼しました』

 後頭部をかいてクォンは笑い、仕切り直した。

『――それじゃ、あらためまして……今、ご報告してもよろしいでしょうか、族長?』
「ああ、聞いてやるよ」キムの背中が、黒レザーにだらしなくもたれる。「それで、どんな様子なんだ?」
『はい。――』

 クォンは遺跡周辺の警戒を強める警備隊、騒然とした運営委員会事務所前の様子を詳しく伝えた。霧に覆われた山のいただきで魔人に遭遇し、秋由大を失った調査隊が遺跡に逃げ戻って来たのが今日の黄昏時。コネクトで新田から事態を知らされた後藤は佐伯――警備隊を動かし、調査隊が帰還する頃には『霧の魔人』が追って来た場合に備えて厳戒態勢を敷き終わっていた。

「……ふん、すっかりびくついてるようだな。連中」
「そっスね。けど、その魔人とかってモンスター、ずいぶんヤバそうっスね」
「デュフゥ……死人も出たって話だしね」
「お前ら、ビビってるんじゃねえよ」

 余裕たっぷりに笑い、キムは熱い湯に気持ち良く浸かるごとくソファの背もたれに両腕を広げて乗せた。

「――魔人とやらがここまで来たら、警備隊とやり合わせりゃいいんだ。共倒れになればおんの字。どっちかが手負いで残ったら、俺たちがぶっ倒して天下を取ればいい」
「なるほど~ デュフフゥ~」
「さすが兄貴。考えてるっスね」
「これくらいは当たり前よ。――おい、引き続き様子を探って知らせろ。それと、こんな騒ぎを起こした委員会叩きもしっかりやっとけ」
『了解しました、族長』
「さぼるなよ。しっかり働け、クソ犬。いいな」

 投げ与えるように命じたキムは一方的にコネクトを切り、俎上そじょううお状態で身を固くしているユンとイを突き飛ばすように促してプレイ再開した。





 ――……新田さんでも歯が立たなかったって……――
 ――マジかよ? そいつが襲って来るかもしれないのか?――
 ――分からないけど、警備隊が動いてるのはそういうことだろ?――
 ――……秋さん、死んだって……佐倉さん、かわいそう……――
 ――……許せないよな、その化け物……――

 不安、恐怖……嘆き、怒り……照明灯に照らされ、夜陰から浮かび上がる青ざめたたくさんの顔、顔、顔……運営委員会事務所前で警備隊員の防波堤に遮られ、下りたベネシャンブラインドから明かりが漏れる3階のリーダー室を見上げて波立つ少年少女……帰還した調査隊員たちを源に拡散した話を聞いて居ても立ってもいられなくなった彼等は本能的に群れ、少しでも状況を詳しく知ろうと押し寄せていた。

「……ふふ、盛り上がってるね……」

 風に揺れるあしのごとき群衆の背を眺めてつぶやき、クォンは楽しげにゆがんだ唇をなめた。くすんだ白袖にしわを寄せて腕組みする彼の頭の横では、手の平大の機械のハチ――動画撮影アプリ『MoBeeムービー』――がホバリングしてカメラの目で群衆を撮影している。クォンは撮影した動画をウインドウに映して編集に取りかかり、ざわめきの音量を上げたり、今し方撮った不安や悲しみの表情をクローズアップしたりして視聴者の動揺をあおるように仕上げると、そこに婉曲えんきょくな体制批判を付け加えた。

「『こちら運営委員会事務所前。みんな、こんなに不安一杯。こんなことになったのは、いったいどうしてなのかなあ?』――っと」

 そして、全メンバーに一斉送信――と、間もなく様々なレスがあり、その中には調査隊派遣を決めた委員会やリーダーへの不信をにじませるものもあった。

「ふ……」

 これでハーモニーの屋台骨が揺らげば――にいっと口角をつり上げたクォンは自分の右手側に視線を感じ、警備隊事務所前に立つ隊員たちににらまれていると気付いた。どこか幽霊を思わせる白いパジチョゴリ姿で目立ちやすいこともあるが、数々の挑発的言動や密猟事件の首謀者という前科から目を付けられているのである。

 ――ちっ――

 近付いて来る隊員を横目でうかがって舌打ちし、クォンは追跡されないようにステルス・モードにすると群れから離れ、警備隊事務所と反対方向に歩き出した。難癖を付けられるのは、申し開きの手間を考えると避けたかった。背後に向けたMoBeeのカメラは、隊員2人が距離を詰めて来る様子を目の前の小さなウインドウに映している。かつて辺りを囲んでいた石壁の名残を黒カプシンで踏み越え、立ち並ぶプレハブハウスの間へすうっと入ってすぐ角を曲がり、暗く人気のない路地を足早に歩く。
 追って来る人影は、カメラにはもう映っていない。
 念のためヘブンズ・アイズを開いてみたが、職務遂行上大抵ステルス・モードにしている警備隊員の反応はなかった。

「……」

 足を緩めて振り返り、感覚を研ぎ澄ませる。辺りに人影は見当たらず、窓に引かれたカーテン越しの明かりが、静まり返った路地をささやかに照らしている。今回の騒動に対する若者たちの反応は、委員会事務所前に集まっておろおろするか、家から出ずにコネクトで情報交換をしながら震えるかの二通りだった。

「……追って来ないか……」

 安堵してMoBeeを終了させ、今度はどうやって委員会に揺さぶりをかけようかと歩きながら考えていたクォンは横の路地からふらっと飛び出した影に驚き、警備隊かと体を固くした。だが、それは凡庸ぼんような髪の下にぼんやり顔をぶら下げ、体格は中肉中背、服装は長袖シャツにチノパンツ、スニーカーという冴えない少年だった。

「……びっくりさせるなあ……」

 胸を撫で下ろしたクォンは数メートル前でうつむいている少年に怒りを覚え、仕返ししてやろうと近付いた。

「――やあ、こんばんはぁ」

 愛想良く声をかけ、無表情の少年を見下ろしながら「君、魔人のことだけどさ――」と、両手を派手に踊らせてしゃべる。聞き込んだ魔人の話をおどろおどろしく語って脅かし、溜飲りゅういんを下げるつもりだった。

「――ここを襲って来たらどうしようね? 新田さんたちが束になってもかなわなかったらしいし、ボクら全員ズタズタに切り裂かれ、骨という骨をグシャグシャにされて、光のちりにされちゃうかもねえ。――」

 ふっと、あごと喉元に冷気を感じ、クォンは左右に目をやった。暑過ぎも寒過ぎもせず、半袖でも長袖でも過ごせる気温だったのに、急に空気がひんやり感じられる。

「……何だろ。ねぇ、ちょっと寒くないか――」

 問いかけたそのとき、急に顔を上げた少年がどす黒い瞳でクォンをとらえ、ぎょっとしてたじろぐ相手にどろっとした笑みをこぼして、外見に不釣り合いなだみ声を出した。

「欲しくなるよねぇ……」
「えっ?」
「相性良さげだもんね、この彼。濡れてくるでしょ? うんうん、濡れちゃうな……」
「な、何を言っ――」

 ガパッと開いた少年の口から霧が噴き出し、クォンがバリアを強めるより早く鼻と口からズオオッと流れ込む。悲鳴を封じられ、仰向けに倒れてもがくクォンは霧に侵され続け、やがて四肢を地面に落して動かなくなった。声も音もほとんどしなかったので、周りのプレハブハウスから異変に気付いた誰かが顔を出すことはなかった。そして……十数秒後――

「……げふっ」

 口から白い息を吐いて体が動き、ゆっくり寝返って起き上がる。そして立ち上がったクォンは、げほ、げほっと霧混じりの咳をし、地面に倒れている少年、それから周囲をうつろな目で見回した。と、その瞳がシグナルをとらえた受信機のごとく急にらんらんとし、頭を左右にふらふらさせながら黒カプシンを履いた足が踏み出される。

「……あっちだね。いっぱいいるみたい。くふふ……」

 なめて濡れた唇の間からふうっと霧を吹き、それは若者たちが集まっている広場の方へゆっくり戻り始めた。





「……情報マネジメント局の報告によると、調査隊派遣についての批判が一部で高まっていますね」

 メガネレンズにコネクトのウインドウを映して言い、後藤は執務机に肘を突いてうなだれ、組み合わせた両手が今にも崩れそうなほどずっしりと頭を乗せている新田に瞳を滑らせた。応接椅子に座る後藤の向かいでは、黒隊服姿の佐伯が足を組み、胸の城門を閉ざしたように腕組みをして唇を真一文字に結んでいる。影におびえながら隊員と遺跡に帰還した新田は後藤に委員会事務所へ連れて行かれ、警備隊を動かして厳戒態勢を敷いた佐伯と3人でリーダー室に詰めていた。

「……当然だ……」

 鉛の塊を持ち上げるごとくのろのろ頭を上げ、新田はダークブラウンの机上きじょうにうつろな目を落としたまま力なく言った。戦闘服からドレスシャツとスラックスに変わったその姿は、魔人を恐れてひたすら歩き続けた疲労と希望を打ち砕かれたショック、犠牲にしてしまった秋、彼と付き合っていた佐倉アヤカに泣き崩れられた痛恨とに打ちのめされ、今にもボキッと背骨が折れそうなていで背中を曲げていた。

「……俺が調査隊を組織しなければ……秋君が死ぬこともなかったんだから……」
「必要以上にご自分を責めることはありません」後藤のクールなレス。「犠牲者が出たのは残念ですが、そういったリスクを踏まえて皆調査隊に加わったはずです」
「……ドライだな、君は……」
「大分夜も更けてしまいましたが、もう少ししたらコネクトで会見を開きましょう。リーダー自ら安全を保障すれば、事務所前に詰めかけているメンバーも少しは落ち着くでしょう」
「……後藤君、君は戦っていないから簡単に言えるんだ。『彼女』にかかったら、警備隊だって……」
「刺し違えてでも、仕留めてみせますよ」

 佐伯がにべなく言い、執務机にもたれた新田を斜に見る。

「――相手が元・人間であろうと、矛先を鈍らせるようなことはありません」

 ぴくっと眉を上げて見返した新田のまなざしは、すぐに下がったまぶたで陰り、伏せられた。視線を外した佐伯は、ベネシャンブラインドが下りた窓に転じて続けた。

「――魔人の正体について、かん口令を敷いたのは正しい選択です。動揺は、戦いの妨げにしかなりません」
「……後藤マネージャーの判断さ。俺には、そこまで考える余裕はない……」

 か細い声で返して新田は机に両手を突き、両肩に見えない重りがひどくたくさん積み重なった動きで椅子から立ち上がった。

「――会見とやらで話す内容は、君らが考えてくれ……俺は……疲れた……」

 2人に背を向け、執務机後ろの窓に近付いた新田はブラインドのスラットを人差し指で折り、曲がった隙間から黒雲が一面によどむ空を溺死できし間近といった目で見上げ、それから沈むように嘆息して視線を事務所前に落としたところで奇妙なことに気付いた。
 照明灯が照らす広場に、人影が見当たらない。
 不安に駆られて集まっていた百数十人が、いつの間に解散したのか追い払われたのか、いなくなっていた。周りに目をやると、運営委員会事務所や警備隊事務所前に立っていた警備隊員たちも消えている。怪訝に眉根を寄せた新田は目の端にオレンジ色をとらえ、そちらに焦点を合わせてはっとした。

 ――火――?

 住宅地域の一角から立ちのぼる、黒煙と炎――しかも、目を凝らしているうちに次々、方々から火の手が上がって闇に踊る。後ずさり、叫ぼうとする新田の背後で佐伯のコネクトが複数の着信を知らせ、泡を食った警備隊員たちの顔がずらずらっと表示された――





 重く、だるい、泥人形然とした肉体……
 暗くこもり、毛穴から脂汗をじわじわあふれさせる熱……
 熱くあえぎ……寝返り……そして、またあえいで……
 蜘蛛の糸を巻きつけられた虫のように……ベッドの中で上下スウェット姿がもがき、頭からかぶった掛け布団――それにのしかかる闇の重みにうめいて鋼の右手をガチチ……と握る。ほうほうのていで新田たちと下山して遺跡に逃げ戻り、かん口令を敷かれて解放されたのち自宅のベッドに倒れ込んだ途端ドッと噴き出したデモン・カーズの苦しみは、夜が深まるほどいっそうひどく右手から全身をさいなんでいた。

「……くそッ……!」

 歯ぎしりするユキトの脳裏にあの影――魔人が浮かび上がって口角をつり上げ、濡れた赤い舌を楽しげに跳ねさせる。首藤架穂――秋由大を殺害した悪鬼――

「――く……!」

 強烈な憎悪が沸騰し、ユキトはナックル・ガントレットを消すと掛け布団の下で思いっきり、全力でこぶしを固めた。尖った爪が手の平に食い込み、有刺鉄線状の痛みが震える拳固に響く。苦痛にうめいたユキトは耐えかねて力を緩め、右手をベッドに投げ出した。

「……僕は、あんなふうにはならない……! なるもんかッ……!」

 引きつり気味の吠え声を上げ、ライトンを起動させると掛け布団をはいで上げた右手を光る鼻で恐る恐る照らす……血の色をした爪、節くれ立った太い指、黒色の厚い皮膚……長袖をまくり上げると変貌は肘を越えて上腕にまで及んでいる。今はまだナックル・ガントレットをはめて長袖を着ていれば、ばれることはない。しかし、首や顔まで変わってきたら……全身に広がったら……

「――ッ……!」

 こみ上げる吐き気――左手で口を押さえ、ユキトは体を丸めてこみ上げるものをこらえ続けた。やがてどうにか嘔気おうきが収まり、張り詰めていた体から力が抜ける……少年は荒い呼吸を繰り返し、仰向けになってライトンを消すと、真っ暗な天井を涙でにじませた。

「……どうして……どうして、こんな目に……!」

 運命を呪ったとき、ふと遠くで何やらわめき声らしきものが聞こえる。はっとし、黒い右腕を引き寄せて隠そうとしたユキトは、突然着信を知らせるコネクトにベッドマットが針の山になったように飛び起き、うろたえつつナックル・ガントレットを装着すると、ウインドウの微光に照らされながら相手を確かめた。

「――佐伯さん? こんな時間に――何かあったのか?」

 髪を撫で付け、呼吸を整えてイメージ・コネクトに応答すると、中央にただならぬ緊張をみなぎらせる佐伯、その周りに自分と同じように応答してつながった隊員たちが分割画面に映る。そのうちの何名かは背景やそこから聞こえる音からすると騒がしい外にいるらしく、しかもひどく動揺しているようだった。
 いったい何が?――緊張するユキトの前で佐伯がやや早口に非常事態を告げ、命令を下した――





「……ナンだ、こりゃ……」

 騒ぎを耳にしてテントから飛び出したシンは、眼前に広がる住宅地域の方々から暗雲よどむ夜空にもうもうと煙が立ちのぼり、火勢が強まりつつあるのを見てうなった。シンがいるのは、運営委員会事務所の北西――広場を取り囲むプレハブ住宅群から少し離れた石垣付近。惰性でテント生活を続けていた彼の蒼いドームテントの隣には、ピンク――色違いのテントが張られている。

「――おい、ジュリ! 起きろっ!」

 ピンクテントに近付いて叩き、出入り口のファスナーを開けて呼ぶ。すると、中でタオルケットに包まっていたジュリアがもぞもぞ動き、寝ぼけまなこをこすりながらむっくり起き上がる。

「……なんやの、もう……いきなりおこさんといてや……」
「ブーたれてんじゃねーよ! かじだ! あちこちハデにもえてるぞ!」
「ふぇっ?」

 まぶたを上げてTシャツ・短パン姿でテントから這い出し、指差される方を見たジュリアは、夜を焼く炎を見て電気ショックを受けたように飛び上がった。

「やっ、も、もえて――ぎゃあッ!」

 慌てて逃げようとして自分のテントにぶつかり、ピンクの上に引っ繰り返って手足をばたつかせる。

「お、おちつけよ。こっちのほうはまだヘーキだ。とにかく――」

 逃げようぜと言いかけたシンは、悲鳴に続いてプレハブハウスの間から慌てふためく若者たちが飛び出し、その後方で炎が噴き上がるのを見て身構えた。火力からすると、それはまず間違いなく炎系魔法によるものだった。

「……ナンだかしらねーが、ヤバそうだぜ。にげるぞっ!」

 ライトンを点灯させ、ジュリアの腕をつかんで――シンは逃げ惑う者たちをよそに石垣と住宅地域の間を北に走った。そちらは石の土台が地面からぼこぼこ顔を出しているだけの不整地地帯が広がっているので、火の手から逃れられるはずだった。が――

「――ッ!」

 プレハブハウスの陰から飛び出した数人の男女が行く手を遮り、シンたちめがけて銃器を発砲――そのうちの1人の青年が奇声を発するや、ロングソードを振りかざして突撃して来る。

「――トチくるってんじゃねぇッ、このヤローッ!」

 怒鳴り、イジゲンポケットから出現したごついリボルバー――バイオレントⅣがドォンッとぶっ放される。弾丸は標的の右肩に当たってのけぞらせたが、その拍子に青年の口からブワッと噴き出る霧状物質――とっさにバリアを強め、ジュリアの盾になるべく前に出たシンは霧の真っただ中を突進して青年を蹴り飛ばし、他に銃口を転じようとしたところで後ろから腰に抱き付かれた。

「――ジュリっ?――うグッ!」
 
 動きが止まったところに銃撃を受けてよろめき、しがみついたジュリアもろとも地面に倒れる――バリアのお陰で深手にはならなかったが、被弾したあちこちから強い痛みが響く。

「……クソったれ――うおっ!」
「――シンちゃー! シンちゃーァァッ!」

 起き上がったところにジュリアが飛び付き、バイオレントⅣを握る右手にむしゃぶりつく。口から霧状のものを吐く少女の目は、異様な光を宿して正気を失っていた。

「――フッザけんなよッ!」

 力任せに引き離して銃を左手に持ち替え、暴れるジュリアを無理矢理右肩に担ぎ上げると、シンはわめく少女の重みとばたつく手足によろめきながら銃撃を避け、耐えて横の住宅街に逃げ込んだ。火災に巻き込まれないよう注意しながら入り組んだ熱い路地を走ると、前方に若者たちが転がるように飛び出し、その後から目付きの異様な者たちが現れて武器を振り回し、手の平から放つ炎でプレハブハウスに火を付けていく。それら狂人たちの口からは呼吸に合わせて霧状のものがまき散らされ、逃げたり抵抗したりする者がそれを吸い込むと、たちまち様子がおかしくなって蛮行に加担し始める。

「あのきりみてーなモンのせいで、ジュリもこいつらもおかしくなったのか?……――」

 狂人たちの目が自分たちに転じるや、シンは横手のプレハブハウスの間に飛び込んだ。とにかくこの炎から、狂気から逃げなければ――急ぐその前を暗がりからふらっと現れた影が塞ぎ、じたばたするジュリアを抱えた身をプレハブハウスに寄せさせる。銃口を向けていびつににやつく、警備隊の黒い隊服を着た少年――霧の息を吐く矢萩あすろ――

「……ずいぶんとイカれたな、パーマザル」
「……イジンめ……!」

 低くうなり、矢萩が病的に血走った目でサイトをのぞいてM40DGW――マガジンに6発装弾されたグレネードランチャーの狙いを定め、ためらいなど微塵もなくトリガーに指をかける。

「――死ねぇッ! イジンッッ!」

 ドンッ、ドンッ、ドンッ――立て続けに発射されたグレネードがよろっと避けるシンをかすめて後方のプレハブハウスに炸裂し、爆発とともに砕けた壁や吐き出し窓のガラス片を激しく飛び散らせる。爆風にあおられて倒れたシンは、地面に投げ出されたジュリアがギャアギャアわめいて振り回す腕を右手でつかみ、再装填を終えた矢萩に熱を帯びた銃口をグォッと向けた。

「――こっちもようしゃしねーぞ! パーマザルッッ!」

 デストロイ・ブーケ、発動――マシンガン、アサルトライフル、グレネードランチャー――出現したいくつもの銃器が、バイオレントⅣを握る左手を囲む。花束のごとき殺傷兵器の塊は、ドドドドドッッ――と弾丸、グレネードをありったけぶちまけて的をドドッとよろめかせ、爆発で吹っ飛ばした。

「へっ、ざまあみやがれ。――おら、いくぞっ!」

 横たわってうめくずたぼろの矢萩に吐き捨て、シンは暴れるジュリアを引きずって炎に焦がされる暗夜を再び走り出した。





 ――各自仲間と合流し、火災場所に急行して消火作業を行うとともに暴徒の鎮圧に当たれ。全員にコネクトで消火装置と催涙弾を送るので、イジゲンポケットにダウンロードして適宜使用せよ。なお、この混乱には霧状の物質が関係しているという未確認情報がある。各自バリアを強めて防御するように。以上。――
 佐伯から警備隊員全員へのコネクトを受け、ユキトは重だるい体を押してベッドから出、立ち上がったところでくらっとしてふらつき、フローリングの床にドッと膝を突いた。

「……くそ、こんなコンディションなのに……霧状の――って、まさか……」

 首藤架穂――魔人の影が脳裏にまた浮かぶ。憎悪で顔をゆがめ、ひび割れたように痛む頭を振ってそれを打ち消すと、ふらつきながら立ち上がってざわめく胸を左手で押さえ、乱れた呼吸の手綱を握ろうとした。

「……行かないと……命令なんだから……」

 着ているスウェットを隊服にチェンジすると、ドアをドンドン叩く音が耳に飛び込む。ダイニングキッチンを通って玄関に行き、ドアを開けると、隊服姿の潤がライトンを頭の横に浮かべて立っていた。

「潤……」
「行きましょう。みんな、もう各現場に向かっているわ」

 潤は警備隊員の顔で急かした。何となく気まずい感じのまま調査に出かけ、帰還してからまだ顔を合わせていなかったユキトは目を瞬いたものの、そのまま流れてうなずき、イジゲンポケットから出した黒革ブーツを履いて外に出た。

「……顔色が悪いみたいだけど、大丈夫なの?」
「……まだ疲れが残っているだけだよ……」
「ならいいけど……霧みたいなのが人を狂わせているらしいわ。もしかして、ユキトたちが戦った怪物と関係あるのかしら?」
「……分からない……とにかく、火を消さなきゃ……」

 『怪物』という表現に胸を裂かれる苦痛を覚え、ユキトは目をそらしてヘブンズ・アイズを開いた。確認すると、ユキト宅近辺はまだ無事なものの住宅地域のあちこちから火の手が上がっており、周りの家から異変に気付いた者たちが続々出て来て空に立ちのぼる煙を見上げ、避難すべきかどうか逡巡する。

「火の粉が飛んで来るかもしれないわ。家をしまった方がいいわよ」
「あ、うん……」

 アドバイスに従ってユキトが自宅外壁に手を当てると、プレハブハウスが所有者の意思に応じて消え、イジゲンポケットに収納される。すると、それを見ていた者たちも倣って辺りを空き地に変えていく。

「これで安心ね。さ、まず一番近い現場に急ぎましょう」

 うなずき、ライトンを点灯させたユキトは、フルオープンのコネクトから入る他の警備隊メンバーからの状況報告を聞きながら潤と急行した。プレハブハウスの間を駆けて火災現場に近付くと、前方の赤らんだ暗がりから着の身着のまま逃げる者たちが飛び出し、警備隊の隊服を見てすがりつく。

「――か、火事が……俺の家が……」
「あっ、あいつら、急に襲って来て……!――ああっ!」

 無秩序な足音が迫り、奇声を発する狂人数名がわらわら現れる。ジャンキーのそれ以上に尋常ではない目付きをした者たちの口から漏れ出る、霧のようなもの。つんのめりながら逃げて行く者たちを尻目にナックルダスターを握り固め、出現させた抜き身の日本刀――巴を正眼に構えると、狂える少年少女たちは新たな標的にハンドガンやアサルトライフルをぶっ放し、魔法で生み出した炎の弾を投げ付けた。

「――はあッ!」

 横に跳んでかわした潤がタクトを操るように巴を振ると、きらめく刀身から生じた何本もの氷柱――氷系魔法アイシクルが狂人たちを撃ち、ユキトがセーフティを外して投げた催涙弾が白煙を噴きながらその足元を転がる。相手もバリアを張っているので催涙効果は期待できなかったが、ひるんだところにコンビは突っ込み、蹴散らされてばらばらと逃げる者たちを追って走るうちに燃え上がるプレハブハウスの前に到った。

「――ユキト、消火をっ!」
「う、うん」

 支給された消火装置使用を思考すると、ユキトの背中にコンプレッサーやタンクなどが組み合わされた装置が、手元には持ち手が付いたノズルが現れる。圧縮空気泡消火システム――CAFSを装備したユキトは炎熱をバリアでガードして近付き、警備隊が行った消防訓練を思い出しながらノズルを燃え盛るプレハブハウスに向け、圧縮空気を含んだ泡を火元へブオオッッと放射した。潤が放つ氷系魔法の加勢を得ると、火は次第に勢いを失って消える。続いて2人は延焼する周囲の消火に取りかかった。

「――よし、この調子なら――」

 表情が緩んだそのとき、複数の熱線がバリアを破ってCAFSを貫き、肩や背中を焼いてユキトをよろめかせ、片膝を突かせる。後方からの不意打ちに潤が返した氷柱を光の盾――防御魔法シールドでガカッと防ぎ、くぐもった笑いに合わせて口から霧を吐く襲撃者――潤のライトンの光を浴びて浮かび上がったのは、まぶしさにつり目を細めた白パジチョゴリ姿――

「……クォン・ギュンジ……!」

 立ち上がったユキトは損傷したCAFSをしまい、真皮しんぴに達する火傷の苦痛をこらえて向き直ったところで、クォンが額に右手の指先を当てて力をためているのに気付いた。

「――〈コンセントレイション〉!」
「パワーを高めているわ!」

 急ぎバリアを強める2人の視界でテニスボール大の火の弾が数十発生し、クォンの前でくるっと円環を作る。そして火の弾は尾を引きながらぎゅんぎゅん回転して炎の輪を成し、ターゲットへ次々飛び出した。炎系魔法〈ガトリングファイヤー〉――補助魔法で威力を高めたそれは、腰を入れてガードするユキトたちを衝撃で吹っ飛ばし、消火途中のプレハブハウスの外壁にド、ドッと叩き付けた。被弾個所を焼かれ、浅くない熱傷を負いながらすぐさま起き上がり、地面を蹴って左右から挟み撃ちを仕掛ける2人だったが――

「――あッ?」

 アイシクルを放とうとした潤が、ガム状に粘る泥に変わった地面に足を取られる。〈マッドグラウンド〉――動きを鈍らせる補助魔法にユキトも黒革ブーツをとらえられ、大股で近付いて来たクォンのパンチを左頬へまともに食らってぶっ倒れた。クォンは斬りかかる潤にガトリングファイヤーを見舞って転がすと、起き上がろうとするユキトを蹴飛ばして馬乗りになり、両手首をつかんでドッと地面に組み伏せた。と、押し付けられたナックル・ガントレットの下で右手がカアーッと熱くなり、悪寒が全身を駆け巡る。

「くふふ、くふふ、くふふふふふッ!」
「――やっぱりお前かッ! よくも秋さんを!」
「やっぱりそうだ! うん、そうだったんだよ! くふふ!」

 馬乗りになったクォン――魔人・首藤架穂は、ナックル・ガントレットを握った左手に力をかけ、だみ声をはずませた。

「アンタだったのね、山で会ったときからアタシを感じさせてたのは! やっぱり、そうだよ! うん。こいつは――」
「!――」

 瞬間、フルバーストしたユキトはだみ声をかき消す叫びを発して起き上がり、振りほどいた光る右こぶしを相手の顔面に力一杯叩き込んだ。グシャッと潰れた鼻から血の筋を引き、のけ反って吹っ飛んだクォンは地面に倒れ、その口からエクトプラズムのごとく流れ出した霧が誘う動きを見せながらフゥゥッと上昇して屋根の上を飛んで行く。それを見上げたユキトは、倒れている潤には目もくれずに追った。

(――な、何とかしないとッ!)

 気付かれた――魔人同士の反応で――暴露を恐れてひた走る視界で、出くわした狂人たちが鼻と口から霧を噴いてばたばた倒れる。噴き出たそれらは四方から集まったものとともに合流――膨れ上がった霧の塊は住宅地域を抜け、大流動の影響でゆがんだ石の土台が不規則に並ぶ地域で速度を緩めた。
 住宅地域の北――西に行けばルルフパレスとルルりんシアターがあり、北北西にしばらく進めばコリア・ヴィレッジがある不整地地帯――
 霧の塊はスウッと地上に降りて黒ずみながら人の――額からねじ曲がった角を生やす痩せぎすな黒鬼の形を取り、追い付いて荒い息を吐くユキトを妖しく発光して迎えた。

「くふふ、慌ててるよ。慌ててるね! まずいのかなあ? そうかもねえ~」
「くッ――!」

 繰り出されたナックルダスターは空を切り、ドォンと首にぶち当たるカウンターのラリアットがユキトをのけ反らせ、よろめかせる。そこへグォッとたたみかけるハイキック――かろうじて左腕でガードすると、飛びしさった魔人・首藤は両手の平それぞれから発生させたエネルギーをバスケットボール大に凝縮し、ブンッ、ブンッと続けざまに投げつけた。

「――うッ、おおおッッ!」

 飛びのくそばでの爆発――爆炎に隊服を焼かれながら吹き飛び、ユキトはゆがんだ石の土台に肩や背中をしたたかぶつけて止まった。

「……くっ……!」

 いびつに変形した土台に手を突いて起き上がり、ライトンで悪鬼を照らす――フルバーストして全身に光を帯びる魔人・首藤のパワーは、中途半端にバーストするユキトをしのいでいる。1対1では勝ち目がないとたじろいだとき、南からライトンの光が複数近付き、フルオープンだったコネクトに潤が映る。

『ユキト、無事なの?』
「潤……!」

 ヘブンズ・アイズをチェックすると、潤と警備隊の仲間数名が接近していた。コネクトで連絡を取り合って駆け付けたのだ。それを見た魔人が歯茎むき出しの口で低く笑って両腕を前へ突き出すと、赤黒い爪が尖る指先からブオオオオオオッッッッッと噴き出した霧が、たちまち数百メートル四方を濃く包み込む。魔人はステルス・モードにしているようで、位置はマップ上に表示されていない。視界が満足に利かず、不意打ちを受けるリスクがある状況では、加勢の足も鈍らざるを得なかった。

「――さぁ、楽しんじゃおうよ! そうだねッ!」

 節くれ立った黒い右手がユキトの胸倉をつかみ、乱暴に引きずって土台に背中からドガッッと叩きつけ――大石が粉々になるほどの衝撃に、少年の表情が激しく砕ける。

「ねぇ! ねぇッ! アタシの仲間になってよォッ! なってあげなさいよォッッ!」
「――黙れッッ!」

 聞かれないようにコネクトを強制終了させ、ユキトはのしかかる怪物から逃れようと脇腹を繰り返し殴ったが、強固なバリアのせいで本体にはほとんどダメージを与えられなかった。

「冷たいんだ! ああ、ひどいなッ! ひどいッ! ひどいッ! ひどいッ! ホントよねえッッ!」

 ズンッと体重がかかり、凶暴に首を締められて苦悶する中、意識が急激に薄れていく。首の骨が折れるのが先か、窒息死が先か――足をばたつかせ、黒い手首をつかんで必死に外そうとしたが、圧倒的な力は強まる一方だった。

「――仲良くしてくれると思ったのにさァ! だったら死ねよッッ! そう、死んでッ! 死んでッ! 殺してやるから、くッッたばれェェ――――――ッッッッッッッッッッ!」
「――ぅああああァァァァァァ―――――!」

 全身から光が燃え上がり、爆発した力が黒い手を強引に外す。恐怖、憤怒、そして憎悪――相乗的に増幅させたユキトは拒絶の叫びを発してこぶしを振るい、濃霧を散らしながら速射砲のごとき轟音を響かせて殴り合った。血が飛び、骨が砕ける音が連続する闘争――それは、狂える殺意のすさまじい激突――そして、血に汚れたずたぼろの少年が我に返ったとき、ひどくひび割れたナックルダスターが、どす黒い胸を陥没させて地面に両膝を突かせていた。

「……どうひて……かな……何で、だらう、ね……」

 ひしゃげた胸部に震える手を当て、ねじれた左右の角が折れた首藤架穂は、あご骨が砕けて変形した口から血をぼたぼた垂らした。

「……ア……らシ、ここに……トバされるま……で、何も……悪いこと……ひてな……かったのに……罰が当たる……ようらこと……本当に……何も……そう……らよね。な……のに……どうひて、こん……な……どう……ひて? ど……うし……て? どうひ……てだらう……ね……くふふ……ふふふふふぅうううううううううううううううううううううううううう………………………………―――――――――――――」

 黒い肉体がぼろぼろっと崩れ、光のちりに変わって霧が薄れゆく中をはかなげに立ちのぼる。そして、アザース・キルのボーナスを上乗せしたポイントが、半ば放心状態のユキトに振り込まれた。

「……倒した……僕が……?」
『もう限界だったのです』

 見上げた先に浮かぶワンはきらめき、首藤架穂のアストラルはデモン・カーズの影響でぼろぼろになっていたのだと無感情な響きで告げた。

『――そうでなければ、完全に魔人化した彼女を倒すことはできなかったでしょう。命拾いしましたね』

 仰ぎ見ていたユキトから光が消え、ひどいだるさに襲われた体が巨岩を背負ったように重くなる。ガクッと膝を折ってへたり込む周りで霧が晴れていき、潤たちの声と駆け寄る足音がぼんやり聞こえた。瞑目してうつむいていたユキトはざわめきでまぶたを上げ、信じられないものを前にした様子で遠巻きにされていることをいぶかしみ、自分を照らすライトンの光が集中するところに目をやって――胸に杭を突き刺されるような衝撃にぐらついた。

「はッ!――――」

 赤黒い爪が生える、節くれ立った黒い手――隠していた魔人の手があらわになって衆目を集めていた。死闘に際して内側から発したすさまじいエネルギーと壮絶な打撃の衝撃にさらされ続けたナックル・ガントレットは、これまでの戦いで蓄積したダメージと合わせてついに限界を迎え、砕けて消えてしまっていた。狼狽して左手を重ね、胸に抱えて隠そうとするユキトに潤は立ち尽くし、その周りで動揺する警備隊員たちが、ありのままをコネクトで報告していた……
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